第9話 恋人ごっこ
約束の時間に美緒の病室に向う。
覚悟は決まっているとは言えとても気が重かった。
病室の前で大きく深呼吸をしてからノックをしてドアを開けると窓際で車椅子に座り準備万端で待ち構えている美緒の姿が直ぐに目に入った。
真っ白なワンピースに淡いブルーのカーディガンを羽織り緩やかにウエーブした大きめのつばの帽子をかぶっていた。
「八雲君、美緒を宜しくね」
美緒の母親が真っ直ぐな目をして俺を見た。
それは美緒が決心した事を告げた表れなのだろうと感じる。
「今日はどこに行けば良いのかな」
「海が見える所ならどこでも構わない」
「了承した。行こうか」
「うん」
車椅子を押しながら病室を出ると美緒が一生懸命に車椅子のハンドリムに手をあてて回していた。
あんなにリハビリを必死になってやっていたのに。
彼女の思いが痛いほど判る、それが故に何も声を掛ける事が出来なかった。
玄関ホールでは初めての外出の時と同じように美緒の兄・哲也さんが車の横で待っていた。
助手席側に向かいドアを開けて美緒を抱きかかえようとする。
「やっ君、お願いします」
美緒が微妙に他人行儀に言った瞬間、島での別れの時の事が頭に鮮明に浮かび胸を締め付ける。
美緒を抱き上げシートベルトを締めようとすると自分ですると制されてしまう。
ドアを閉めて運転席側に回ると哲也さんが何も言わずに真っ直ぐに目を合わせてきた。
母親同様それが兄としての決心の表れなのだろう、仕方なく俺から話し出した。
「どうなるかは、神様だけが知っています。俺も美緒に今までの事を全て話します」
「もしもの時、八雲さんは……」
「美緒が笑顔でさえ居てくれればそれで良いんですよ。俺が側に居て美緒が笑顔になれないのなら俺は近くに居るべきじゃないんです」
「それで良いんですか? 自分には真似できない。妹を頼みます。出来るだけサポートはさせてもらいます」
「ありがとう。それじゃ、行って来ます」
重々しい空気を払うようにドアを開けて車に乗り込みエンジンをかけると、哲也さんが深々と頭を下げていた。
車を出しても車内には重い空気が流れていた。
美緒は伏目がちに外の流れる景色を見つめている。
押し潰されそうになりバナナ型の黒いバックからCDを取り出してコンポに入れる。
小田和正のダイジョウブが流れてきた。
「なんのつもりなの?」
「別に意味は無いさ、妹から渡されたんだ。良かったら聞いてねって」
「妹さん? そう言えばやっ君には妹が居たんだっけ」
「ああ、2つ下のね」
「ふうん」
そう言って嫌がる素振りも無くまた窓の外を眺め始めた。
『スピッツのチェリー』や『米米の君がいるだけで』が流れると妹にしてやられた感じがした。
そして、妹に気付かされた。独りじゃないんだよと。大丈夫、いつも応援しているからと。
鏡が人の姿を映すのと同じように人もまた己の心を映す。
これじゃ駄目なんだ。
重い空気だからと俺まで重い気持ちで居てはいけない。
美緒が覚悟を決めた時に俺には覚悟がとうに出来ているはずだった。
どうなろうとありのままで真っ直ぐに向き合うしかないのだから。
『福山の桜坂』が流れ口ずさんでいると美緒がいきなりCDを止めた。
「これにして」
それだけを言ってCDを入れ替えた。
すると『ドリカムのLove Love Love』が流れた。
「もう、兄貴の奴」
「お互い様だな」
「しょうがないなぁ」
「強力なサポーターがついてるんだよ」
「フーリガンかもしれないじゃん」
「フーリガンかぁ、それは勘弁してもらいたいな」
空気が少しだけ和らいだ。
首都高湾岸線に乗り羽田方面に向う。
「空港にでも行くの?」
「その先だよ」
羽田を横目に抜けて浮島から東京湾アクアトンネルに入る。
少しだが空気が変ってきたのを感じた。
海ほたるのパーキングに車を止めて川崎側の一番海に近いデッキに向うと、海の向こうに真っ白な風の塔が見える。
日差しはそれ程強くなく心地よい風が吹いていた。
「ねぇ、何でここを選んだの?」
「お台場は海って感じじゃないし人気スポットだから。そう遠くなくって海と言えばここしか思いつかなかったんだよ。まぁ、東京湾のど真ん中だけれどな」
「そうだね、私の体じゃ遠出は出来ないもんね」
美緒の言葉は重くそして硬く感じた。
「そうじゃないよ、時間の問題さ。帰るのが遅くなったらまずいだろ」
「車椅子から手を離してくれるかな」
デッキの先に着くと前に居る美緒が少し後ろを振り返りながら言い、俺が手を離すと美緒が車椅子の向きを変えようとしていた。
一歩下がると美緒が俺の方を真っ直ぐに見て話し始めた。
「ねぇ、やっ君。やっ君は何で私の病気の事、何も聞かないの?」
「進行性のⅡ型だろう、知ってたよ」
「やっぱり知ってたんだ、何で知ってるの?」
「美緒の両親から聞いたんだ。島でね」
「島で? どう言うことなの?」
美緒が少し見当違いの言葉が返ってきたので戸惑いの表情を浮かべた。
「美緒の両親が、島で美緒が付き合っていた男の人を探しに来たんだよ」
「それで、やっ君を見つけて頼んだ訳だ。私に会ってやって欲しいって、それも偶然を装うお芝居までして! まるで奇跡みたいだねなんて馬鹿みたい、奇跡でもなんでもないじゃん!」
美緒が声を荒げて唇をかみ締め被っていた帽子を膝の上で握り締めていた。
「本当に馬鹿みたい。1人ではしゃいじゃって、奇跡なんか起こりやしないのに……」
「本当にそう思うのか?」
「だって、そうでしょ。最初から仕組まれた事じゃない」
「いくら小さな島だとはいえ美緒の両親2人だけで、メディアも使わずにたった数日間で10年以上前に付き合っていた男の事を探せると思うのか? 俺達が仕事をしていたホテルに行っても2人の事を知っているスタッフなんて今は殆ど居ないはずだ」
「それじゃ、どうやって」
「俺が知り合いのお店に行った時に、その知り合いから聞いたんだ。美月美緒って知っているかって、両親が付き合っていた男の人を探しいてるって」
「そんなの偶然じゃない」
「偶然? 違うね。その知り合いもブログで知ってリアルに会ったのは2回くらいなんだ。あの日、俺があの店に行かなければ今ここに俺は居ない」
「だから奇跡だと言うの? 馬鹿げてる」
「出会いは星の数ほどと言うけれど、星の数って知っているか? どんなに満天の星空でも3000個なんだぞ。地球上には60億の人が出会と別れを繰り返している。日本では1億2000万人の人が、島では5万人の人が出会いと別れを毎日繰り返している。そんな中で出会ったのは奇跡じゃないのか?」
「確立の問題じゃない、確かにありえない確立だけど」
「今の美緒に何を言っても判ってもらえないかもしれないけれど、ありえない事が起こる事を奇跡って言うんじゃないのか?」
「ただの屁理屈じゃない」
「屁理屈でも俺は出会いを大切に……ゴメン、悪かった」
あの頃と何も変っていなかった。
あの時と同じ事を繰り返そうとしていた。
こんな事を話すためにここに来たんじゃないんだ。
頭に血が上りパーカーのポケットに手が触れ小さな箱を感じる。
その瞬間、何かに頭を打ち抜かれたような気がしてヒートアップしそうだった頭の中がクールダウンした。
「何で、やっ君が謝るの?」
「美緒、あの時と同じような事を話す為にここに来たのか?」
「そ、それは……」
「俺は確かに美緒の両親に頼まれて美緒に会いに来た。美緒の言うとおり偶然を装ったのも確かだ。そうしなければ美緒は会わないはずだからと言われたよ。さすが美緒の両親だよ、美緒の事を一番良く判っている優しいんだな」
「何で会いに来たの? 私が可哀相だから?」
「美緒にもう1度だけ会いたかったって言うのが本当かな。会うだけで美緒が笑顔になれるならそれで良いと思った」
「恋も愛も終わったのに? やっぱり情しか残らないんだ」
「それは情だけじゃないよ決して。今なら言えるいつもそこには心がある」
「心?」
「ただ見えなくなってしまうだけなんだと思うんだ。特別な事もいつもだと特別じゃなくなってしまう、そして失った時に判る、特別だったんだって痛みを伴ってね」
「やっ君は痛みを感じたの?」
「そんなニブチンに見えるか? 今でも感じるよあの時の痛みは。だからこそ、同じ失敗はしたくない。もう2度と失いたくないんだ」
「でも……」
「でも、何だ? 時間が無いか? そんな事誰が決めたんだ?」
「先生が……」
「高柳先生だって神様じゃないだろ。明日の事なんか誰にも判らない、数分後ですら誰にも判らないんじゃないか?」
「それでも私には残された時間はそう長くないんだよ」
「言うほど短くもないだろ。側に居させて欲しい、いつも一緒という訳には行かないかもしれない。それでも美緒が俺を必要とする時に側に居たいんだ。美緒に再会して良く判った、俺は美緒がどうしようもないくらいに好きだ」
ありのままの自分で美緒にも自分にも真っ直ぐに向き合う。
美緒の瞳からはまだ不安の色が消えず揺らいでいるのが良く判った。
「優し過ぎるんだよ、やっ君は。いつまでか判らないよ、それでも良いのなら恋人ごっこしょう」
「恋人ごっこか。そうだなそれが良いかも知れないな」
美緒が望む事、それが一番なんだと覚悟はしていたはずなのに心が揺らいだ。
そんなものなのかもしれない思い上がっていただけ。
俺に出来る事なんかたかだか知れている事を『ごっこ』の一言で再認識させられた。
「駄目? 恋人ごっこじゃ」
「駄目な理由なんて何一つ無いよ。俺の望みは美緒の側に居る事だから」
そして、自分の心に嘘をついた。
もどかしさでいっぱいになる、どう伝えれば気持ちが伝わるのかが判らず情けなくなる。
それを誤魔化す様に笑顔で答えた。
「やっ君は海みたいだよね」
「俺は、そんなに大層なもんじゃないよ」
「大きくて深い優しさで包み込んでくれる。でも美緒にはそれが怖いの、どうしようもなく怖いの。美緒もやっ君の事が好き、会いに来てくれて嬉しかった。それが例え仕組まれた事でも、たとえそれが嘘でも」
「嘘じゃない」
「判ってる、やっ君の気持ち。凄く判ってるからこそ出来ない、やっぱり美緒にはそんな覚悟は出来ない。好きだよ、でも好きになればなるほどやっ君の優しさに飲み込まれそうで不安で怖いの……ゴメンね……出来ないよ……」
見透かされていた。
美緒の瞳から涙が零れる。
すると美緒の体から急に力が抜けて車椅子から落ちそうになる。
「美緒? 美緒!」
慌てて美緒の体を支えて美緒の名を叫んだ。
迂闊だった、あれだけのリハビリをして外出をすればどうなるか判っていた筈なのに。
今はそんな事を言っている場合じゃない。
着ていたパーカーを脱いで美緒の体を車椅子に落ちない様に固定して駐車場に急ぐ。
こんな東京湾のど真ん中では救急車を呼んで待つより病院に向った方が早いと判断した。
駐車場に着くと直ぐに美緒を助手席に寝かせシートベルトとパーカーで美緒の体を固定する。
そして後部座席にある携帯用酸素ボンベにあるマスクを取り出しながら携帯で南病棟ナースセンターの直通電話に連絡する。
「八雲さん? どうしたの?」
「美緒が気を失った。これから車で病院に向います」
酸素ボンベの流量を聞きダイアルを合わせて美緒にマスクをつけると浅く早かった呼吸が少し楽になった様だった。
それを確認して車を出す。
車内が安定する限界に近いスピードで車を走らせていると少しすると微かだが美緒が意識を取り戻した。
「やっ君、ゴメンね……あれ? メガネは?」
「大丈夫だ。この方が感覚が研ぎ澄まされるんだ。頼むから喋らないでくれ……もうあんな別れは……」
車の運転以外は殆どメガネをしないで生活しているた為にメガネをかけると多少だが感覚がずれる。
道交法上問題があろうが関係無い。
今は一刻も早く病院に着く事が最優先だでアクセルを踏み続けた。
病院の玄関前ではストレッチャーが準備され数人の看護婦さんと哲也さんが待ち構えていた。
車を止め助手席に走り、美緒のマスクを外してストレッチャーに寝かせると直ぐに看護婦さん達が処置室に運んだ。
「申し訳ありませんでした」
自分の不甲斐なさに腹が立ち、そして心配を掛けてしまった哲也さんに頭を下げた。
「大丈夫ですよ。少し疲れただけでしょう、美緒が自分からリハビリをするようになったのは八雲さんのお陰なんだし。感謝こそすれ謝られる様な事じゃないですよ」
「情けない話です。海みたいで怖いって、恋人ごっこをしょうって言われちゃいましたよ」
「良いんですか? 八雲さんはそれで」
「美緒がだした答えなら、それで俺は……」
言葉を続けようとして病院が大きく揺れる感覚が襲う。
それは直ぐに体がぐらついた事に気付くが為すすべが無かった。
膝から崩れ落ちて床に倒れこんだ。
意識はしっかりしているが体に全く力が入らない。
冷たい病院の床を頬に感じる。
視線の先には美緒が乗ったストレッチャーが角を曲がるのが見えた。
「八雲さん? しっかりして! 誰か!」
哲也さんの叫び声が遠くに聞こえた。
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