第7話 八雲
美緒の病室の前で大きく深呼吸をしてドアをノックして島中が病室に入った。
「美緒ちゃん、少し良いかな?」
「今日のデートは楽しかった?」
「ええ、とっても」
「良かったね」
美緒がベッドの上で体を起こし窓の外を見ながら顔色ひとつ変えずに冷たく言い放った。
「美緒ちゃんはどうして自分の心に素直になれないの? 好きなんでしょ八雲さんの事」
「もう、会わないから関係ない。それにこんな病院臭い女なんか好きになる男なんてどこにもいない!」
「確かめたの?」
「2度と来るなって言ったら2度と来ないって」
「本当に馬鹿ばっかりだね」
「馬鹿って酷くない? あなた看護婦でしょ」
「今は違う。1人の女としてここに居るの、宣戦布告したでしょ」
「もう良いから。出て行って! 私の事は放っておいて。あなたの好きなようにすれば良いじゃない、私はもう関係なのだから」
「出て行かないし関係ない事なんか無い。同じ人を好きになった私にはあなたに話す義務があるから。今日、玄関にストリート系のガラの悪そうな人たちが来たわ。この間の外出の時に何があったのは知らないけれどね」
島中の言葉に美緒が少し動揺し島中の顔を見ている。
「八雲君はその時……」
「居合わせたわよ。そして彼等に面と向かい話をして土下座をしたのよ、『美緒の事はそっとしておいてやってくれ、頼む』って」
「馬鹿じゃないの、優しいにも程がある」
「本当にそうだと思うの? あの場はああでもしないと収まらなかったでしょうね。最悪の場合は乱闘になったかもね、それも病院の待合室で。八雲さんは優しいだけじゃない常に周りに気を配っている。あなたになら判るはずよ、病院じゃなきゃどうなっていたか。あの人数相手じゃ八雲さんもただじゃすまない」
「馬鹿みたい、怪我でもして痛い目に合えばいいんだ」
「それは本心なの?」
「そう、これが私の本心!」
「嘘つき! 美緒ちゃんは自分自身に嘘をついる」
島中さんが美緒の肩を掴み真っ直ぐに目を見つめた。
「もう、放っておいて。もう2度と会わないから、島中さんが好きなようにすれば良い」
「そうね、本当に2度と会えなくなるかも知れないしね」
「何を訳の判らない事を言ってるの?」
「さっき八雲さんが倒れたの、今は処置室で処置しているところよ」
美緒は自分の耳を疑った。
ほんの数分前までここに居て病室を出て行ったはずなのに、そんな馬鹿な事があるはずが無いと思った。
「そんな事を言っても信じない。そっか彼に頼まれたんでしょ」
島中が耐え切れず美緒の頬に平手打ちをした。
美緒が突然の事に叩かれた痛みも忘れて島中の顔を見上げると、島中の目からはポロポロと涙がこぼれていた。
島中の涙を見た瞬間、それが嘘でない事に、そして自分の本当の気持ちに……
「いい加減にしなさい! 本当に2度と会えなくなっても良いの? 生きていればまた会えるかもしれない。でも死んでしまったら本当に2度と会えなくなっちゃうんだよ」
「そんな筈……だって……やっ君は……そんなの嫌だ!」
美緒が無我夢中でベッドから起き上がり車椅子に乗ろうとすると肩に両手を当てて島中が美緒を制した。
「行かせて! やっ君のところに!」
「私の話を聞くまで行かせない。前に父が亡くなった事は話したわよね」
「うん」
「私はつまらない事で父と喧嘩して、翌朝『行ってきます』と言った父の言葉を無視したの。ほんの意地悪のつもりだった、でもそれっきり父は帰らない人になってしまった。あの時、笑顔で『行ってらっしゃい』って言ってあげれば良かった。後悔してもしきれない……もう2度とお父さんと声を……交わすことさえ出来ないんだよ……今でもそれが心残りで……」
「でも、やっ君は……」
「美緒ちゃんの病気の事は私も良く知っている。でもね、明日の事なんか誰にも判らないでしょ。きつい事を言うけど美緒ちゃんが1番判ってるんじゃないの?」
「でも、やっ君は病気の事、何も聞かないし」
「もしかして知っているのかも知れないね。知らないのならそのままで良いの?」
「伝えたいけど、それで嫌われたら私……」
「本当に馬鹿同士ね、八雲さんには何があろうと覚悟は出来ているわよ。土下座なんか本当に好きな人の為じゃないと出来ない。それに彼の願いは美緒ちゃんが幸せになる事、美緒ちゃんがいつも笑顔で居てくれる事。その為なら何でもする筈よ、美緒ちゃんに別の人が現れたら離れて見守るだけだって。本当に不器用な生き方しか出来ないんだね。ほんの少しの勇気があれば一言だけ言えれば伝わるのに」
「他の人なんて考えられない。私にはやっ君しか。でも、島中さんは……」
「私は前に1回振られてるの、だから振られるのはこれで2度め。ほら、グズグズしないで車椅子に乗って八雲さんの所に行きましょう」
島中が美緒の体を抱きかかえようとすると美緒が島中の手を掴んで止めた。
「大丈夫、1人で出来るから」
「そう頑張って。やれば出来るじゃない1人で、これも愛の力かな。はい、これ」
美緒が真剣な顔つきで意識を集中し全身に力を込めて車椅子に1人で乗り込んだ。
それは入院してから初めての事で島中が驚きを隠せないでいる。
島中はただ美緒を見つめていてクシャクシャになっている茶封筒を渡すと美緒が不思議そうな顔をした。
「これは?」
「八雲さんが高柳先生に頼んでいた物よ」
美緒が茶封筒を受け取り脚の横に差し込んで車椅子をうごかそうとするが車椅子は思うように進まなかった。
「どうして私の体はこうなの! 動いてお願いだから」
「リハビリをしない罰ね」
「ゴメンなさい、自業自得だね。大好きな人が倒れたのに側に行く事も出来ない。やっ君に会いたいよ……」
「しょうがない2人ね」
島中が優しく車椅子を押しだす美緒は唇を噛み締めて涙を堪えながら車椅子のタイヤを必死に回し続けた。
処置室に入ると島中は静かに席を外した。
ベッドの上で点滴をしながら横になっている八雲の姿が見える。
処置室にはピッ、ピッ、ピッと言う規則正しい心電計の電子音だけが聞こえていた。
「やっ君?」
美緒の問いかけにも答えず、目を覚ます気配すら感じられなかった。
心電計の音でしながわ水族館での事が頭を過ぎり堪らずに美緒が泣き叫んだ。
「やっ君! 起きて! お願いだから目を開けてよ!」
「嫌だよ! ゴメンなさい、酷い事を言って。もう……あんな苦しい……思いは嫌……」
車椅子から乗り出して八雲の体に覆い被さるようにして体を揺した。
すると、心電計がピィーーーーとリズムを失って鳴った。
「そ、そんな……死んじゃ嫌だ! 側に居てよ……お願いだから……」
美緒が泣き崩れた。
「うるさいなぁ、気持ち良く寝てたのに」
「えっ?」
「ここは? あれ、美緒? 何してるんだ? 2度と会わないんじゃなかったのか?」
俺が体を起こすと美緒が俺の体の上に覆いかぶさっている。
そして呆気にとられてポカーンとした顔で俺の顔を見上げていた。
辺りを見渡すと処置室である事が直ぐに判り自分が置かれている状況を飲み込んだ。
「どうしたんだ? たくっ婦長のやつまたこんな物、体に付けやがって」
俺の手には心電計の電極が握られていた。
「だって心臓がピィーーーって……死んじゃったかと思って」
「いきなりあの世なんて事にはならないって言っただろ。こうしたら鳴るぞ」
「やっ君の馬鹿!」
俺が胸に電極を当てるとリズム良く電子音が鳴り始め美緒が俺の首にしがみ付いて泣き出した。
優しく抱きしめる、しばらくすると急に泣きやみ俺の顔を睨みつけた。
「な、なんだ? そんな怖い顔して」
「なんで倒れたりしたの?」
「寝不足かな、この所いろんな事があったから」
「私の責任もあるんだよね」
美緒が申し訳なさそうな顔をしている。
恐らく水族館に行った事を言っているのだろう。
「美緒には責任なんか無いよ。俺自身の問題だから、友達に頼んであった仕事が急に決まったのもあるかな」
「風来坊の無職だって」
「だから、急に決まったんだよ。予定外の事なんだよ」
「それじゃ、これは何?」
美緒が俺の前にクシャクシャになった茶封筒を突き出した。
「俺の心臓の検査結果だよ。あんまり美緒が心配するから高柳先生にお願いしたんだ」
「それじゃ、高柳先生の外来に居たのは……検査を頼むため?」
「見ていたのか、見てたいら声ぐらい掛ければ良いだろ」
「だって不安でしょうがなかったんだもん」
「これで安心したか?」
「まだ、出来ない。婦長さんの事を知ってるみたいだけど」
美緒が不服そうな顔をして食らいついてくる。
「この病院は、俺が産まれた病院だからな。それに子どもの頃体が弱くって、この病院に入院していた事があるんだよ。その時に俺の面倒を見てくれていた看護婦が今の婦長だよ。昔から悪戯好きでこの心電計だって写真のお礼だなんて看護婦に吹き込んで付けさせたんだろ」
「何で心電計なんか」
「重症ぽいだろ」
「酷い、酷すぎる。それじゃ、あの花や海の写真って」
「島中さんに頼まれたのもあるけれど、恩返しのつもりだったんだよ」
「この病院で産まれたって」
「子どもの頃はこの近くに住んでいたんだよ。このくらいで良いかな? さてと看護婦さん呼んで点滴外してもらわないとな。そこに居る誰かで良いから点滴外してよ」
ドアに向って声を掛けるとドアの外でバタバタと音がして婦長が何食わぬ顔をして処置室に入ってきた。
「お久しぶりです。婦長、お願いします」
「本当に、久しぶりね。彼女ばかりで挨拶にも来ないで」
「すいませんでした。後日お礼に伺いますよ」
「良いのよ、これは沢山の綺麗な花と海の写真のお礼だから。あの写真でどれだけの人が癒されたか判らないもの」
婦長が手際よく点滴を外して処置室から出て行った。
そして俺も美緒を車椅子に座らせてベッドから立ち上がった。
「さぁ、俺も帰らないとな」
「えっ、帰っちゃうの?」
「もう来ないでって言われたからな。それに美緒のあんな泣き顔2度と見たくないと思っていたのに、また泣かせてしまったからな」
俺がドアノブに手を掛けると美緒が後ろから話しかけてきた。
その声は揺るぎの無い真っ直ぐな美緒の気持ちを表している声だった。
「何度も泣かせたのならその責任を取って、美緒に最後のチャンスをください。やっ君にきちんと話したい事があります。明日、もう一度だけ私の付き添いとして外出して下さい」
「それが最後なんだな」
「はい」
「判った、この間と同じ時間に来れば良いのかな?」
「午前中は外せないのでお昼からお願いします」
振り向くことが出来ない、情けないが怖かった。
美緒がどんなに真剣な顔をしているのかが良く判ったから。
それは俺にとってもラストチャンスなのだろう……
明日の午後か、そう思いながら処置室を後にする。
俺と入れ違いに島中さんが処置室に入るのを感じたが振り返らずに階段で下に降り病院を後にした。
「美緒ちゃん、病室に戻ろう」
「うん、島中さん。ありがとう、島中さんのお陰でやっ君に全部打ち明ける勇気が持てた」
「お礼なんていらないよ、友達でしょ」
「うん」
2人が病室に戻ると美緒の母親が笑顔で待っていた。
「決めたのね」
「うん、やっ君に体の事を全部話す」
「彼なら全部受け止めてくれるわよ。それと八雲さんの置き土産」
母親がパソコンを指差した。
「パソコン?」
「今日、買ったやつだね、きっと。美緒ちゃんがブログを見たいって言ったから」
「そんなものまで」
「ね、言った通りでしょ。今、何が美緒ちゃんに一番必要なのか何をして欲しいのか、八雲さんは一番知っている。パソコンしかり検査結果しかりね」
「もう、どれだけ優しいかな」
「海よりも深く、空より広いと思う。彼が看護師か介護師だったら素敵だろうな」
「どうして看護士か介護士なの?」
「だって、あんなに優しくって色々と気遣ってくれるんだよ。あっ、でも特別な人限定なのかなぁ?」
「と、特別って……島中さん、ブログって?」
美緒が少しだけ照れて赤くなり話題を逸らした。
島中が微笑みながらパソコンを開くと見た事も無いくらい綺麗な海の壁紙が目に飛び込んできた。
その海はキラキラと輝きエメラルドグリーンや濃紺、青、そしてアクアマリン色と言えば良いだろうか。
言葉で言い表せない様な色だった。
「凄い綺麗、これって……」
「美緒が大好きな島の海だ!」
「うふふ、こんなものまで」
「えっ、何?」
「付箋に『1時間まで』て書いてあるよ」
「もう、心配しすぎ」
「八雲さんも美緒ちゃんの事が大好きなんだと思う。彼も美緒ちゃんと同じで怖いんだよきっと」
「そうかなぁ」
「はい、これが八雲さんのブログだよ」
島中が八雲のブログのページを開いた。
「ありがとう」
「八雲さんの言いつけは守らないとね」
「島中さん、お願いがあるの。一緒に見てもらえないかなぁ、パソコンの事良く判らないし、それに……」
「判った、1時間だけよ」
「うん」
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