恋人

 十分後、再びアシュが特別クラスの教室を開けると、生徒たちは未だ全員着席していた。


「おや……僕の記憶が正しければ、君たちは僕の授業を放棄して教室を出て行くのではなかったかな?」


 心底愉快そうに性悪魔法使いは問いかける。


「「「……」」」


「おかしいなぁ。リリー=シュバルツ君。なんで、君はここにいるのかな? ねえ、僕に教えてくれないかな?」


 頭をグリグリ。


「ぐ、ぐぎぎぎぎ……」


 尋常じゃないくらい歯を食いしばる優等生美少女。彼女は授業が終わり次第、すぐに校則を読み込んで、徹夜で完璧な反論を考え出そうと心に決めている。


「アシュ先生。彼らは先ほどの失礼を反省してここにいるのですよ。どうか、広いお心をもって接してやっていただきたい」


 ライオールが助け船を出す。


「ほぉ……そうか。君たちは先ほどの過ちを悔いて、やはり僕の授業を受けさせてほしいと。堂々と大言を吐いておきながら、この10分という短い時間で恥ずかしげもなく前言を撤回して僕に頭を垂れるわけだ、リリー=シュバルツ君?」


 グリグリ。


 グリグリ。


 心底悦にひたるサディスト魔法使い。優等生美少女は己の毛細血管が破裂していく音を聞いた。


「まあ、僕は寛大な紳士だ。君たちからの謝罪はなくとも大海のような広い心で許そうじゃないか」


 性悪魔法使いは、やっとリリーの頭から手を離して背中を向け、教壇に置いてあった教科書を開き、ペラペラと目を通し始めた。


 やっと授業が開始される、とライオールが胸を撫でおろした瞬間、


 教科書が、


 教室の天井近くに、


 ヒラヒラと舞い上がった。


 闇魔法使いは、大きく肩をすくめて、つぶやいた。


「何十年前の教科書だね、これは?」


「ちょっとなにしてるのよ――――――――!?」


 反射的にリリーが叫んだ。


「おっ、質問かい?」


 無邪気な笑顔でアシュは胸を膨らませる。


「し、質問!? ええ質問と言えば質問です! 神聖な教科書になにしてくれてんですかこのバカ教師!」


「ふむ……記念すべき最初の質問がひどく低能で、下品で、残念ではあるが、リリー=シュバルツ君ならば仕方ないかな」


「な、ななな……」


 ツッコミどころが多すぎて、空いた口が塞がらない優等生美少女。


「僕も読む価値のある書物ならこんな無礼はしないさ。しかし、これは古い教科書だ。僕が気づいて指摘したからよかったものの……この調子だと、生徒たちは気づかなかったようだぞ。気をつけたまえ、ライオール」


「いえ……それは最新版の教科書です」


 老人はなんとも言えない苦笑いを浮かべて答えた。


「……えっ、本当に?」


 信じられないと言った大きな身振りをする性悪魔法使いに、好々爺は申し訳なさそうに頷く。


「ふぅ……まあ、君がそう言うならば仕方ないね。なんとかこれで進めよう。はなはだ遺憾ではあるがね」


「ちょっと! まだ、私の質問に答えてもらってません! この教科書のどこがおかしいか明確に、具体的に示してください」


「……まあ、仕方ないね。僕も教師になったんだから、無知な者に知を恵んでやるとしようか。結論から言うと、ほとんど全てが間違っているが、それはおいおい。今日は最も訂正したい個所を一つだけ挙げよう……63ページを見なさい。『魔力の構造』の章の5行目」


「はっ……」


 リリーは思わず鼻で笑った。


『魔力は神から与えたもうた力であるため、その根源がどこであるかは未だ解明されていない』


 枕詞的な一文であるが、それも当然のこと。1年次の1学期に教えられる内容であり、以降この前提においてすべての授業が進められる。


「前半部は、百歩……いや、一万歩譲って目を瞑ることができても、後半部分は断じて容認できない。完全なる誤りだ」


「なら! 魔力の根源はどこにあるというんですか!?」


「ここさ」


 闇魔法使いは、己の頭の左部分を指さす。


「左大脳半球上部及び側面に、魔力をつかさどる部位が存在する。これを、僕らは魔力野ゲートと呼んでいる」


「なっ……」


「そもそもなぜ魔法が使える者と使えない者が存在するか、疑問に思ったことはないかね?」


「「「……」」」


 誰も『YES』と答える者はいない。


 大陸で支配者層である貴族と呼ばれる者は、例外なく魔法を使うことができる。しかし、被支配者層である平民、奴隷で魔力を持つ者はごくわずかである。(没落貴族を除けばであるが)。


 一般的に魔法の使えぬ者を不能者と呼ぶ。


「君たちの知的好奇心のレベルが知れて、涙が出るよ。仕方ない、最初から長くなるが、まあ、重要なところだからいいかな。退屈であれば、寝ててもいいがね」


 そう言ってアシュは説明を始め、ホワイトボードに次々と書きだしていく。


             *


 優性遺伝の法則


 魔力野を持たぬ遺伝子 AA

 魔力野を持つ遺伝子 aa


 と仮定する。


 A(魔力野を持たぬ遺伝子)はa(魔力野を持つ遺伝子)に対し完全優性である。


 AA×AAで交配を行うと、

 必ずAA(魔力野を持たぬ)の子が、

 aa×aaで交配を行うと、

 必ずaa(魔力野を持つ)の子が生まれる。

 しかし、Aはaに対し完全優性であるので、

 AA×aaの交配を経た子どもは、

 必ずAa(魔力野を持たぬ)の子が生まれる。

 しかし、Aa×Aaの交配を行った場合、

 下記の3通りの遺伝子配合が考えられる。


 ①AA、Aa(魔力野を持たぬ)グループ

 ②aa(魔力野を持つ)グループ


              *


「実に理に適っているだろう? 実感としてどうだい? 貴族と平民の割合はなぜ貴族が少ないのか。なぜ、平民出身の魔法使いより貴族の親を持つ子の不能者を見る確率が圧倒的に少ないのか」


「「「……」」」


 みな、一様黙っているが、先ほどの沈黙とは明らかに異なっていた。しかし、一人。突然席を立ち、手を震わせながら机を叩く少女がいた。


 リリー=シュバルツである。


「そんなのあり得ません!」


「ふむ……反論があるなら聞こうか?」


「そもそも根拠はなんだというのですか!? 私たちの実感がそうだからと言って、それが正しいという証拠にはなりません」


「20万人」


「……え?」


「データに要した被験者の数だよ。ミラ、あとで僕の館から、対象の書物を貸してあげたまえ」


「かしこまりました」


 執事は静かにうなずく。


「まあ、膨大な検証データだが、気の済むまで読み込んでもらって結構……ああ、断っておくがこれは僕だけが預かり知る事実ではない。大陸魔法協会の承認は60年前に済んでいるし、共同研究者も誰もが知る名前が多いと思うよ。例えば、ライオール=セルゲイとかね」


「なっ……」


 性悪魔法使いの言葉で、リリー以下生徒一同の視線が理事長の方を向く。しかし、ライオールは依然として沈黙を貫いている。


「そ、それでも認められません!」


 旗色が悪いと思いつつも、リリーがそれでも食い下がる。


「根拠は?」


「ぐっ……」


「君が言ったのだろう? その根拠は? 実感だけでは証拠にならないのだろう?」


「……」


「近しい者に、貴族同士の親を持つ不能者がいるか」


 闇魔法使いは、その黒々とした瞳を見開き、弱っている彼女の心を暴いていく。


「……」


「わかっているだろう、リリー=シュバルツ。それがなんの証拠にもならぬことなど。貴族の両親から不能者が生まれる理由が、他にも多く考えられることを。君が大切に守ろうとしているその子の両親は――」


「黙れ――――――――――――――!」


 ヒステリックに叫び、翠玉エメラルド色に輝く瞳をアシュの方に向けた。


「勝負してください! 私が勝ったら、前言を撤回してください」


 道理に合わぬことなど。たとえ、理から外れていたとしても守らなければいけないものがある。迷いのない仕草で、彼女はアシュの方に指をさす。


「ふっ……論破されたとわかれば、実力行使か。なんという非倫理的な――」


「あら、怖いんですかアシュ=ダール先生?」


「……いいだろう。君の挑発に乗ってやるとしよう。ただ、面白くないな」


「そうやって逃げるんですか?」


「勘違いしないでくれ。勝負するにしては、賭けの代償がもの足りないと言ったまでだよ……そうだ! 互いの進退を賭けよう」


「え……」


「君が勝ったら、僕は潔くこの学校から去ろうじゃないか。しかし、君がもし負けたら、君がこの学校から去る。どうだい?」


「……」


「なんだい? 自信がないのかな」


「い、いいでしょう。受けて立ちますよ」


 その言葉に、闇魔法使いは低い声で笑った。


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