006
『こちらニブズ。おれが追ってたヤツは別口の盗撮野郎だった。まぎらわしいったらありゃしねえ。女子高生の姿が写真がほしかっただけで、スカートの中身とかは撮ってなかったから、データの削除と厳重注意で見逃してやった。そっちはどうなった? どうぞ』
「こちらトゥートルズ。応援は必要ない。おまえはいったん学校へ戻ってくれ。一度に3人も抜けたままだと警備が手薄だ。詳しい話はまたあとで。どうぞ」
『了解したぜ。以上』
通信を終了して、トゥートルズはふたたび明智へ向き直った。
「明智、先生?」ルナは首をかしげる。「あんな先生、うちの学校にいたっけ?」
明智は恥ずかしげに、「先生って言っても、たいしたもんじゃない。学生時代にバイトで、中学生の家庭教師をしてただけだ。小林芳阿のな。それから姪のマユリの勉強も見てやった」
「小林芳阿ってピーターよね? てかマユリちゃんが姪って――」
「……そうです。わたしの叔父です。わたしの母の弟にあたります」
トゥートルズも困惑した様子で、「見覚えがあると思ったら、思い出したよ。夏休みに差し入れしてくれたOBじゃないか」
「ますますワケがわからないわ。何だって三高OBが、文化祭でスリなんてまねを」
「叔父さん、つぎの仕事、まだ見つかりそうもないの?」
マユリが家では聞きづらかった疑問を口にすると、明智は目を泳がせる。「おれみたいな出来損ない、マトモな会社はどこも雇ってくれないのさ」
「無職? 三高の卒業生が?」トゥートルズは目を丸くする。
「信じられないって顔してるなァ後輩。珍獣を目撃したような顔してるぞ。だが、コレが現実だ」
「す、すみません。……あの、ようするにアレですか? 社会復帰に失敗したってコトですか?」三高には独自の常識がまかり通っている部分があり、そのため卒業は社会復帰と呼ばれる。
「ひらたく言えばそのとおりだが、おれは三高のほうが、よっぽどマトモな社会だったと思ってる。世のなかおかしいんだ。おれはべつに大それた望みを持っていたつもりはない。ただ安定した職場で、ごくフツーに暮らせるだけのカネを稼げれば、それでよかった。夢なんか叶わなくても、趣味で充実した人生を過ごせさえすれば――。それがどうだ? 堅実に生きようと現実を見ていたつもりなのに、おれはいつから寝ていた? どうせこんなに苦労するくらいなら、いっそのコト夢でも持つべきだった」
「そうだよ叔父さん。全部不景気のせいだよ。叔父さんが悪いワケじゃない」
ルナはおっかなびっくり探るように、「カーリーは、つぎの仕事って言いましたよね? 以前は何の仕事を?」
明智は自嘲ぎみにほほ笑んで、「介護職員だ。卒業までに正社員で雇ってくれるところが、ほかになくてな」
「介護……」
身内であるマユリにさえも、明智が就いていたのがどういう仕事か、まったく想像できなかった。むろん一般的な知識はある。しかし、自分がそこで働く可能性など、夢にも思ったコトがない。ちっともイメージが湧いてこない。それくらい断絶した世界の物語だ。
「常識的に考えて、狂っているとしか思えない場所だったよ、あそこは。年寄りをガキ扱いするような言葉づかいとか、お遊戯なんてのはほんの序の口だ。バーサンだろうと排泄と入浴の介助は男の職員がやる。本人がよっぽど強く拒否しないかぎり、ワガママは許されない。年寄りのヒゲを剃るのに使い捨てのカミソリを何ヶ月も、複数人に対して使いまわす。なかには病気持ちのひとだっているのに。あと言うまでもなく、職員は理髪師の資格なんか持ってない。どこよりも必要性があるハズなのに、AEDのひとつも設置してない。アレでもほかの施設と比べればマシだって聞いたときは、何のジョークかと思った。あの環境を是としている連中は、自分もいずれ同じ扱いを受けたらと想像しないのか不思議だな。それから、職員の待遇もひどい。安月給なのはもちろん、タイムカードを勝手に押して残業代を支払わない。人手が足りてないのに、需要があるからってどんどん新しい施設を増やす。アメとムチのつもりなのか、グループ創立記念日にパーティーがあったが、そこで会長のアイサツがカネの話しかなかったのは、さすがに笑うしかなかったな。ちなみにそのパーティーで、サービス残業で遅くまで練習させられた宴会芸を披露した。それでも働くからにはがんばろうと思ったよ。おれがこの施設をいずれマトモにしてやるって意気込んで。だけど結局、半年前に同僚のオバサンとケンカして、いいかげん続けられなくなった。いっそのコト、あのババアをぶん殴ってやればよかったと今でも思うよ。きっと清々しただろうに」
3人とも、あまりの衝撃に言葉が出なかった。
三高に入学できただけで、自分が特別な人間になれたような気がしていた。どれだけ勉強が大変でも、それさえ乗り切れば卒業後はかならず、輝かしい未来が待っているのだと、漠然と信じていた。それが、はかない幻想だと思い知らされた気分。
あえて追及しなくても何となく察してしまう。目の前にいるOBが、別に特殊な例というワケではないのだろうと。あらかじめ落伍者となるべく約束され、堕落の坂をくだったのではないと。彼の存在は三高生の誰にとっても、将来実現しうる可能性のひとつだった。
「――でも、でもッ!」トゥートルズは絞り出すように、「だからって、スリはダメです。犯罪です」
「ああ、それは自分でもわかってる。世のなかには善人の皮をかぶった犯罪者であふれてるが、それでおれのおこないが正当化されるワケじゃない」
「なんで、なんでこんなコトしたの? 叔父さん!」
「まぶしかったから、かなァ」実際、明智は今もまぶしそうに3人を眺めながら、「差し入れに行ったとき、文化祭準備でいそがしそうに働く実委の姿を見て、思ったんだ。まぶしい。今のおれにはまぶしすぎるって。それで、嫉妬した。ようするに、単なる八つ当たりさ。――ああ、クソッタレ! チクショウが! どうせ犯罪者になるなら、そこらじゅうの介護施設を放火してまわればよかった!」
明智の瞳は暗くよどんでいる。見ていると呑み込まれそうなほど深い。マユリは耐えきれなくて視線をそらす。
「……さァ、警察に通報するならすればいい。おれは逃げも隠れもしない。もう何もかもどうでもいい」
おとなしく両手を差し出す明智に対し、3人そろって動けなかった。どうすればいいのかわからない。彼を犯罪者として警察へ引きわたすのが正しいのか? もしかしたらおのれもいつか、同じ道をたどるかもしれないのに。
「ああ、ひとつだけ後輩にアドバイスしておこう。たった3年しか過ごさない高校の伝統に尽くしたって、それで伝統が卒業後も続く人生を守ってくれるワケじゃない。何の役にも立たない。それより自分自身のコトを考えろ」
「――あまり後輩をイジメないでやってくれますか? 明智先生」
その声に振り返ると、ピーターがそこにいた。
「ピーター! いそがしいのに学校を離れてヘーキなんですか?」
「問題ない。文化祭へ来場したOBの応接も、実委会長として重要な役目だ」
「でも、どうしてここへ」
「カーリー、キミは動転しているとき、手に持ったトランシーバーのスイッチを押しっぱなしにするクセがあるな。今後は気をつけたまえ」
明智は恥じ入るようにうつむき、「事情は把握してるらしいな……幻滅したか小林? おまえが憧れた三高生は、こんなザマだ」
「先生。僕が憧れたのはあくまで、先生の思い出話に出てきた、高校生時代の明智準一郎です。正直言えば、今現在の姿がどうであろうと興味はありません」
「コイツは手厳しい……」失笑がこぼれる。
「三高生の明智準一郎に憧れているのは、先生も同じでしょう? ただし、先生にとっては他人事じゃアない。かつての自分自身を誇りに思うからこそ、申し訳が立たなくて罪悪感にさいなまれている」
「どうかな……おれはむしろあのころの自分を、どうしようもなく無知なバカだと思ってるくらいだが」
「それもまた道理です。ひとは人生のなかで経験を積み、否応なく成長し続ける。たとえ老いさらばえて、アタマとカラダが衰えたとしても、過去の自分と比べて卑下する必要なんてありません。過去の自分は足跡であり、それは間違いなく、現在の自分が歩いてきた結果なのですから」
「たとえ老いて衰えたとしてもか」
「違いますか? 先生の言葉からは、介護施設の環境や職員の待遇への怒りはあっても、そこで世話される高齢者への恨みや侮蔑は出てこなかった。むしろ、うやまう気持ちさえにじんでいるように、僕には思えました」
「……怒りを覚えてはいるよ。なんであんなひどい環境を受け入れているのか、どうして反抗しないのか、嫁と息子に逆らう力も失くしたか……みんなさァ、よろこんでくれるんだよ。おれに感謝するんだ。おれなんかたいしたコトもできてないのに、ホントならもっとマシな環境で過ごすべきハズなのに、ありがとうって……。施設のジーサンは将棋ばっかで、囲碁ができなくてさびしそうにしてるひとがいたから、おれが初心者に毛が生えた程度の腕でお相手したら、すごくうれしそうでさァ。おれはいつでも相手できるワケじゃないし、このさい囲碁人口を増やしてやろうと、ほかのジーサンたちにルール教えたりしてたら、おれのコトを先生って呼ぶんだぜ? ホント、バカみたいだ……」
明智はその場にくずおれて、うめくように嗚咽をもらした。
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