005
指紋照合作業は、まだ1/10も終わっていなかった。期待をはるかに下まわるローペースだ。もし三高生に犯人がいれば、確率的には全部調べ尽くす前にヒットする可能性のほうが高いが、そう都合よくもいかないらしい。
「ダメだ。単純作業すぎて全然集中力が続かない」
「眠いし」「目は疲れるし」「自分が見ているものが正しいのかどうかも」「わからなくなってくるよ」
「なァピーター、こっちにはさっさと見切りをつけて、会場警備に全力をそそいだほうがいいんじゃねえのか?」
「ふむ。確かにニブズの言うとおりかもしれないな。戦力の逐次投入は下策というし。……だがまァとりあえず、キミたち4人は仮眠を3時間ほど取りたまえ。そんな状態では、目の前にドルフ・ラングレンがいても気づかなそうだ」
「いや、2時間で十分だ」
「ならあいだを取って2時間10分にしよう。……アレ? キミたち、今のは笑うところだぞ? なんだねその、仮面が貼りついたような真顔は?」
そして3時間後、三芳野高校文化祭2日目が開場された。来場者がいっせいになだれ込んでくる。
会場警備に携わる面々にも、二銭銅貨型発信機が配られた。以前のマユリたちと同じように、単なるお守りだと伝えてある。OBからの差し入れで、サイフに入れておくと金運がアップする、と。ちなみに、これらの人員は優先的に指紋の照合を済ませ、犯人でないコトは確認済みだ。
発信機の位置はスライトリーが常時モニタリングしている。もし反応が校外へ出たら、そのときは犯人がサイフを持ち去ったというコトだ。警備班で一番足の速いニブズが、いつでも追いかけられるよう正門前で待機。それ以外のメンバーはゴミ箱およびスリのターゲットになりえる実委メンバーの周囲を警戒し、不審な行動をする人物がいないかチェックする。ルナは神社の社殿に隠れて待機だ。
『こちらトゥートルズ。管理棟異常なし。どうぞ』
『こちらスライトリー。理科棟異常なし。どうぞ』
『こちらツインズ』『図書館棟異常なし』『どうぞ』
『こちらニブズ。正門前異常なし。どうぞ』
「こちらカーリー。昇降口異常なし。どうぞ」
『こちらマーメイド。神社異常なし。どうぞ』
はたしてホントに今日もスリは現れるだろうか。いや、現れてくれなければ困る。そうでないと捕まえられないではないか。三高生のなかに犯人がいれば指紋照合で見つかるが、部外者の犯行なら完全にお手上げだ。
犯人を捕まえるために、犯行が起きるのを望むという矛盾。きっとブッダのような聖人君子なら、犯人が心から反省して二度と悪事に手を染めなければ、それだけで満足するのだろう。菩提樹の下で勉学に励んでいても、マユリは一向に悟りを開けそうな気がしない。犯人を捕まえたら心底後悔させてやる。
彼女の望みとは裏腹に、何も起こらないまま、ただ漫然と時間が過ぎていく。気づけばもう正午だ。マユリは実委メンバーに支給されているカロリーメイトをかじりながら、ジッと人混みを見つめて不審者を捜す。
犯人はいったいどんな人間だろうか? 男か女か、若いのか老いているのか、顔立ちは整っているか、太っているのかやせているのか、服は何を着ているか――手がかりもないのに想像だけめぐらせても不毛ではあるが、どうしても考えずにはいられない。
そのうち連日の徹夜のせいか、彼女を睡魔が襲って来た。カフェイン錠に頼るか一瞬迷う。言うまでもなく健康にはよくないし、最近スッカリ飲みすぎてしまっている。結局、気力でこらえるコトにした。今はまだそのときではない。
午後3時を過ぎたころ、ついに状況が動いた。
『こちらスライトリー。発信機の反応が、昇降口から正門方向へ向かって移動してる。カーリー、それらしい警備スタッフの姿は見えるか? どうぞ』
「こちらカーリー。実委のハッピを着た人間の姿は確認できません。来場者だけです。どうぞ」
『こいつはひょっとするとアタリかもしれないぞ? カーリー、ニブズ、怪しい人物がいないか目を光らせてくれ。反応はさらに正門前へ近づいてる。どうぞ』
『まずい。ひとが多すぎる。ちょうど大勢出ていくタイミングとかち合っちまった。そっちからはどうだカーリー? どうぞ』
「こちらも怪しい人物は――アレ?」
『どうした? 不審者がいたか。どうぞ』
「……いえ、なんでもありません」
あのひと、文化祭へ来ていたのなら、どうして顔を見せに来なかったのだろう――マユリは気になったが、個人的な感傷だ。今は仕事に集中すべきだろう。疑問を意識の奥へ追いやる。
『ニブズ! すでに反応は正門の外へ出てるぞ! 誰か怪しい人物はいないかッ?』
その知らせを聞き、マユリも昇降口前の通用門から出て、正門へまわりこむ。
ニブズが叫んだ。「アイツだ! あのフードかぶったヤツ!」
マユリのほうでもその人物を確認できた。身長は180㎝前後の男性。パーカーのフードをまぶかにかぶっていて顔は見えないが、服装のセンスと体形からすると、おそらく若い。スマートフォンをいじりながら、見るからに挙動不審な様子。明らかに怪しい。
「オイ、そこのアンタ! アンタだアンタ。パーカーのフードかぶってるヤツ」
「うひょお!」不審者は、自分が声をかけられているコトに気付くや、時の鐘方面へ向かって一目散に駆け出した。
「てめえ待ちやがれ! こちらニブズ、犯人の追跡を開始する!」
『チョット待ってくれニブズ! ニブズ? ――クソ! スッカリお熱だな。カーリー、ニブズは容疑者をどの方角へ追っていった? どうぞ』
「正門を出てまっすぐ行っちゃいました。どうぞ」
『カーリー、ニブズが追っていたのは犯人じゃない。発信機の反応は正門を出て左へ行った――今さらに左へ曲がった。どうぞ』
「そのルートは、例の神社の方向ですね。ヤッパリあそこの賽銭箱に盗んだカネを始末するつもりでしょうか。どうぞ」
『まだ断定はできない。とにかく、キミは犯人を追いかけてくれ。もし犯人の行き先が浅間神社でなかった場合、あまり遠くへ行かれると発信機の信号が届かなくなる。すみやかに犯人を特定するように。まァそっちの道はひとけが少ないから、正門前と違ってすぐに見分けがつくだろう。見つけたら相手に気付かれないよう尾行するんだ。それと万が一犯人が抵抗したとき、キミとマーメイドだけじゃ心もとない。トゥートルズを応援に送る。彼と合流するまでムチャはするな。どうぞ』
「了解です。犯人に気付かれるおそれがあるので、しばらくこちらからの応答を控えます。以上」
スライトリーのナビに従って横道に入ると、すぐ犯人とおぼしき人物の背中を見つけられた。
とたん、マユリは足がすくんで動けなくなった。
『カーリー、反応が離れてるぞ。もう少し近づいても問題ないと思うが。それともかなり警戒されているのか?』
先に応答を控えると言ってあったのが幸いだった。立ち止まった理由を話さずに済む。しかし、いつまでもこうしているワケにはいかない。さすがにスライトリーも不審がるだろう。
きっと何かの間違いだ。カンチガイだ。そう自分に言い聞かせて、マユリは何とか歩を進める。
こちらの思惑どおり、男はルナの待ち伏せる神社へとやって来た。カバンからサイフを取り出すと、賽銭箱に盗んだカネを景気よく、何の執着もなく投げ入れる。
遅れてトゥートルズが駆けつけてきた。すでに切腹竹光の鯉口を切っている。物陰に隠れるマユリのもとへ近寄ると、犯人に気付かれないようささやく。「カーリー、ヤツはいるか――カーリー?」
トゥートルズはいぶかしげにマユリを見る。マユリは動揺を押し隠すコトができていなかった。血の気が引いた顔面は蒼白で、この炎天下のなか、凍えるようにカラダを震わせている。歯の根がガチガチと鳴った。さしずめ幽霊でも見たかのようなありさま。
だが、それもムリはなかった。マユリにとっては、今そこにいる人間は、断じて彼であってはいけなかった。たとえほかの誰であろうと、彼だけは認められない。ありえてはいけない光景だった。
いや、あくまでまだうしろ姿だけだ。もしかしたら別人かもしれない。こちらを振り向くまでは未確定だ。
だからおねがい、振り向かないで――。あなたの醜く変わり果てた姿を、わたしに見せないで。
けれどもマユリの祈りもむなしく、状況は進行する。
『……こちらマーメイド。そろそろイイ? イイよね? やっちゃう? どうぞ』
「こちらトゥートルズ。オーケー、こっちでカウントするから、ぶちかまして。5、4、3、2、1――」
社殿の扉が開け放たれて、仏像に扮装したルナが飛び出した。護身用に装備していたエアガンの引き金を引く。
突然の事態にあわてた犯人は腰を抜かして、一目散に逃げだそうとする。しかし、その前に切腹竹光を抜いたトゥートルズが立ちふさがる。「観念するんだ。逃げ場はな――ちょっ、カーリー!」
マユリがイキナリあいだへ割って入ったので、ふたりともギョッとした様子。「危ないわよマユリちゃん! そいつから離れて!」
「ダイジョーブです!」マユリはルナの制止にも聞く耳持たず、地面に這いつくばる犯人に手を差し伸べる。
犯人は苦笑しつつその手をつかみ、「ひどいツラだな。せっかくの美少女が台無しだぞマユリ」
「明智先生……」
明智準一郎は、今にも泣きだしそうな瞳でこちらを見上げていた。
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