008

 現在ではだいぶ変化してきたが、かつて三高生は大学受験で浪人する者が多かった。第1志望以外で妥協したがらなかったからだ。それを冗談めかして、「三高は4年制高校」などと言われる。ようするに4年生とは、浪人1年目を意味する。ちなみに、三高では卒業を俗に社会復帰と呼ぶ。三高生には独自の常識があり、世間のギャップが大きすぎるからだ。ゆえに浪人は慣らし期間でもある。

 ピーターに連れられて、マユリは伊佐沼のほとりへとやって来た。水面に藻が大量発生していて、一面の緑色。周囲は何かが腐ったように生臭い。見れば魚の死骸がプカプカと浮かんでいた。蚊か何か小さな虫が群れで目の前を飛び交っており、うっとうしいコトこの上ない。

「よりによって、どうしてこんな場所で待ち合わせを?」

「あちらのご指定だよ。ここならひとけがないから、ナイショ話を聞かれる心配がない。というかまァ、ぶっちゃけ様式美というヤツだろうね」

「様式美ならせめて、もう少し優雅なトコにしてほしかった……」

 そこへ、自転車に乗ってひとりの青年が現れた。髪はボサボサ、無精ひげは伸び放題、服はシワだらけのヨレヨレ、見るからに怪しい。「悪い。遅れたか?」

「いえ、時間ピッタリです」ピーターは腕時計を見て、「秒針までキッカリ。あいかわらずの正確さですね、クロコダイル」

「で、そっちがうわさに聞いた、警備班初の女子だな。ピーターが言っていたとおり、実にイイ脚をしてる」

「……1年の花崎マユリです。コードネームは〈カーリー〉」

「オレは4年の人見広助だ。コードネームは〈クロコダイル〉」

「本日は受験勉強でいそがしいでしょうに、わざわざご足労していただいて申し訳ありません」

「気にすんなよ。たまには息抜きも必要だ。それに今日はどうせ、休業日ってコトにしてるし。予約してたエロゲーがようやく届くんだよ。まったく、半年も発売延期しやがって」

「それだと予定通り発売してたら、受験に直撃してたんじゃア――」

「ああ、それがどうした?」

「……いえ、なんでもありません」

 すでにピーターやほかの仲間たちから、彼のひととなりを聞かされている。人見広助。昨年度の卒業生。成績はぶっちぎりの英霊Eランク。ただし数学だけは、毎回テストで100点満点の学年1位。数学の天才である彼には、世の中のあらゆる物体の形状を、一目見ただけで数式に置き換えるコトができるという。

 時間にうるさく、待ち合わせ相手が約束に一秒でも遅れると、烈火のごとく怒り狂う。教師がチャイムにかまわず授業をねばろうとすれば、秒針の動きに合わせて机を指でたたき出す。そのため、心臓の代わりに時計が納められているなどと言われていた。

 趣味は全国各地の混浴めぐり。露出癖のある若い美女がやって来るのを、ひたすら待ち続けるワニ野郎。しかし3年生に上がったころ方針を転換し、男湯へ父親と来た幼女を狙いはじめた。もっとも、一度も成功したコトはなかったらしい。

 また彼には警備班のコードネーム以外に、べつの異名がある。

 ――ひと呼んで、美脚マイスター。

 トゥートルズやニブズが脚フェチになる影響を与えたのは彼だろうだが、その並々ならぬ情熱は弟子たちの比ではない。童貞をこじらせて、三高イチ女体に興味津々だった彼は、ゆいいつスカートからむき出しである女子生徒の脚を、ひたすら凝視し続け、その曲線を数式へと変換し続けた。結果、彼は脚を見ただけで、それが誰なのか判別できるらしい。彼が三高に在籍していたあいだの女子生徒、つまり現2、3年生の女子をひとり残らず把握している。

「確認していただきたいのは、こちらの女子生徒です」

 ピーターはふところから数枚の写真を取り出した。例の自撮り動画のなかから、脚線美を確認しやすく、かつ秘所が映っていない部分を厳選した。いくら本人が見せたがっているとはいえ、やはりこちらが積極的に見せていくのは気が引ける。それと、童貞のクロコダイルには刺激が強すぎるという判断だ。

「どれどれ」クロコダイルは鼻血を流し、「見覚えがある脚だ」

「ホントですか」

「ああ、オレにはわかる。コイツは水泳部の井上ルナだ。このふくらはぎの見事なシッソイド曲線を、見間違えるワケがない。今は2年生だな」

 そう自信マンマンに断言するクロコダイルを、マユリは素直に称賛してよいのか悩んだ。正直キモチワルイ。

「ありがとうございますセンパイ。おかげで助かりました」ピーターの礼には、尊敬心すらにじんでいる。――オトコってホントどうしようもない。

「いいってことよ。またいつでも頼ってくれていいぜ。じゃあな」

 ピーターは自転車をつかんで止め、「写真は返してください」

 クロコダイルはあからさまに舌打ちして、「べつにいいじゃねえかよォ。これさえあれば苦しい受験勉強を乗り切れそうな気がするんだよォ」

「ダメです」

「そうカッカすんな。チョットしたジョークじゃねえか。場を和ませようっていう気づかいだ」

「とてもそうは思えませんでしたが」

「……おまえ、入学したころと比べてかわいげなくなったよな」

「センパイはあのころと比べて、オッサン臭くなりましたね」

「エッ? ウソ! マジで? おっかしいなァ、ゼッタイおかしい……風呂上がりの化粧水と乳液は欠かしてねえってのに……」

「それよりほかに気にすべき部分があるでしょうに」

 写真を取り返し、今度こそ帰るクロコダイルを見送った。なんだかマユリはどっと疲れた。あちこち蚊に刺されてかゆい。

「……何はともあれ、これで事件は解決ですね」

 安堵するマユリに対して、ピーターは意味深に、「いや、どうかな。むしろ面倒になるのはこれからかもしれない」

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