第二十話 豹変
「ただいまー」
自分の声が家中を虚しく反響する。
いつもなら真っ先に俺のもとへやって来る沙彩の姿が、やはり、さっきの事もあってか、来ることは無かった。可愛らしく、あどけない笑顔で出迎える沙彩が来ないというのはなかなかに寂しいものだ。当たり前であったからこそ、その反動は大きい。
階段を上がって沙彩がいる部屋の前に立つ。一回深呼吸をしたのち、慎重にノックをした。
「沙彩、話しがあるんだけどいいかな」
「…………」
沙彩からの反応は無かった。それでも諦めるわけにはいかない。
「沙彩、プリンあるんだけど、食べないか? 【スイート・グランデ】のプリンだぞ? 沙彩のために買ってきたんだ」
「…………」
依然として反応がない。
おかしい。食べ物さえ与えればなんでも言うことを聞いてくれる沙彩が、この少々お高いプリンで釣れないとは……よっぽど怒っているんだな。これは手強い。
だがしかし。ここであきらめてちゃ兄の名が廃るってもんだ。なんとしてでも和解してやる。
部屋のドアは鍵がついていないタイプなので中に入ろうと思えばいつでも入れる。
だが、だんまりを続けられても一向に進展しないし、ここは強行突破させていただこう。
「入るぞ沙彩」
「えっ!?」
ドアを開けると、ベッドの上で驚いた表情をしている沙彩と目が合った。
「ただいま沙彩。ほれ、プリン買ったから食べろ」
「出てってよっ! お兄ちゃんのばか! あんぽんたん!」
まずい。今ので俺の精神ゲージが大幅に減った。これ以上減ると引きこもりになってしまう。
さあどうする、ここで大人しく出てったら部屋に入った意味が無い。まずは……そう。会話だ。
「しかしまあ、沙彩の部屋に入るの久しぶりだな。ちゃんと綺麗にしてるじゃん。そういや、沙彩が小学校高学年の時、急に部屋に入れてくれなくなったんだよな。あの時は悲しかったぞ兄ちゃん」
「そ、それは……女の子には色々あるの! お兄ちゃんデリカシーなさすぎ!」
「そ、そうなの? ごめん」
余計沙彩の機嫌が悪くなってしまった。何言ってもダメな気がしてきたがこうなりゃヤケだ。ガンガン話しかけてやる。
「机の上にある写真立ての写真って二人で水族館行った時のか? 懐かしいなぁ。自撮りが上手く出来なくて困ってたら外国人のお兄さんが撮ってくれたんだよな。終始何言ってるか分かんなかったけど、ひたすらサンキューって連呼したの思い出したわ。ほんとサンキュー万能説あるから。ん? 写真の裏にもう一枚あるっぽいな、なんの写真だろ。どれ」
「だめー! 見ちゃだめ! お兄ちゃん妹の机勝ってに物色しないでよ!」
写真の裏にあるもう一枚の写真らしき物を見ようと手をかけた瞬間、沙彩は物凄いスピードでベッドから机へと移動し、俺から写真立てを奪取した。何故か顔を真っ赤にしている。
ここまでの反応を見せられると、その写真、すごく気になるな。なんの写真なんだろう。まさか男か!? こいつモテるからあり得るんだよな。でも、いつも告白されても断ってるとか言っていたしそれは無いか。いや、本当は照れ隠しでそう言っただけで、本当は誰かと付き合ってる可能性も……。もしそうならその男とは一度ゆっくりと話をしなきゃならないな。
「ごめんごめん。こんな兄ちゃんでごめんな」
そう言って沙彩の頭を優しく撫でた。抵抗されるかと思ったら案外そうでもなく、大人しくただされるがまま、と言った感じだった。心なしか口元が緩んでいるのは気のせいだろうか。
「もう……お兄ちゃんのバカ……」
「バカな兄ちゃんでごめん」
撫でる。ただひたすらに撫でる。今の俺にはもうこれしか出来ない。
どれくれい撫でていただろうか。体感的には長く感じたが実際にはそんなに経ってないだろう。そんな事を思ってる時に、
「お兄ちゃんっ!」
「うぉっ」
沙彩が勢いよく俺に抱き着いてきた。
俺の胸に顔をうずめ、小さく嗚咽を漏らす沙彩をそっと優しく抱き返した。その上、右手で頭を撫でながら、左手で背中をポンポンする。
「お兄ちゃんっ……お兄ちゃんっ……」
俺は未だに沙彩が何故怒ったのか、そして、何故泣いているのかが分からない。でも、それでも良いと、なんとなく今は思う。血の繋がった実の妹だからこそ、そんな風に思うのかもしれない。
「沙彩、ごめん。兄ちゃんほんとにバカだからさ、今も…………でもさ、兄ちゃん沙彩の事大好きだし、大切だし、かけがえのない大事な大事な可愛い妹っていつも思ってるんだ。前にも言ったろ? 兄ちゃんのことを許してくれとは言わない。だから、さ。元気、出して欲しいな。兄ちゃんに笑ってるところ、見せて欲しいな。ほんとずうずうしくてごめん。なんたって兄ちゃんバカだからさ」
「……お兄ちゃん……ずるいよ……卑怯だよ……。そんなの、元気出るに、決まってるじゃん。もぉ……お兄ちゃんのバカバカバカぁ……」
「ああそうだ。世界一沙彩の事を思ってる、バカなシスコン兄ちゃんだ」
俺の胸をポカポカと数回叩くと、沙彩はゆっくりと顔を上げて満面の笑みで笑った。ツインテールも嬉しそうにパタパタと動いている。やっぱそれ動くの!? どうなってんの!?
沙彩はもう一度俺の胸に顔をうずめ、力強く抱き着いた。依然ツインテールはパタパタと動いている。犬の尻尾と同じ原理なのかなぁ。
「沙彩は甘えん坊だな」
「うぅ、だって、お兄ちゃんの事大好きなんだもん。しょうがないもん。お兄ちゃんのせいだもん。お兄ちゃんが責任を取るしかないもん」
「おい……責任って」
俺の妹はさりげなくとんでもない事を言う。意味分かって言ってんのかなぁ。
「よし分かった。兄ちゃんが責任取ってやる」
「ええっ!? 私、その、まだ準備が……心と身体の準備が……。もう! お兄ちゃんのえっち! でも……どうしても今すぐが良いって言うんだったら、私……」
俺に抱き着きながら身体をもじもじとくねらせる沙彩。沙彩の身体が熱くなって、心音が凄い事になっている。
てか、意味知ってたのね。でも俺が言いたいのはそう言う意味ではなかったんだけど。
「ば、ばか! 違うよ。責任として今週の日曜日さ、一緒に出掛けないかって誘おうと思ったんだよ。勿論沙彩が良かったらだけど、さ」
「――優しくしてっ……っえ? お出かけ? な、なななんだぁ、びっくりしたぁ。やだ私、恥ずかしいよぉ」
沙彩の身体が一層熱を帯びて、その温度を高めた。心音にいたってはもう早すぎておかしな事になってる。まずい、このままいったら死んでしまうぞ。
「お、落ち着け沙彩。ほら、深呼吸だ。ひっひっふー、ひっひっふーだ」
「ひっひっふー、ひっひっふー……ってお兄ちゃん! これ赤ちゃん産む時のやつだよ! も、もしかして、もうそこまで、か、考えてるの? お兄ちゃんのえっちぃ……あぅ……」
「ご、ごめん間違えた! 吸って―、吐いてーだ。ほら早くやって」
「ま、紛らわしいよぉ……。スーハー、スーハー……ふぅ。落ち着いてきたかも。ありがとう、お兄ちゃん。それで……お出かけだっけ? それって、つまりデートってこと?」
「まあ、そういう言いかたもあるな。嫌だったらいいんだぞ?」
俺の妹は、随分と色ボケているという事が発覚してしまった。純粋だった沙彩は、もういないのか? いや、俺が勝ってに決めつけていただけかもしれないな。最近は小学生でもそれなりの事をしてるって聞くし。千尋が少し、異質なだけだ。
「嫌なわけないじゃん! 私が断れないって分かって言ってるんでしょ。お兄ちゃんのいじわる」
「いや、そんなつもりは無かったんだけど……」
沙彩は俺から離れて、そして、満面の笑みで、
「約束だからね! お兄ちゃん! 絶対の絶対だからね!」
「ああ、任せろ。エスコートには自信がないが、まあ、頑張るよ。楽しみにしとけ」
そう言って、沙彩の頭を撫で、ついでに沙彩の左手にプリンの入った袋を握らせた。
「お兄ちゃん、ありがとう。これ、二人で食べよ? あーんしてあげる。お兄ちゃんもあーんしてね!」
「いや、沙彩が食えよ。そのために買ってきたんだから」
「ぶー。いいじゃん別にー」
以前からお兄ちゃん子だと思っていたが、さらに拍車がかかってる気がするんだが。これ、一般的に見たらまずいんじゃないか? ただ仲がいいじゃ済まされなくなってきている気が……。
『あー、正汰殿ー、ついにやってしまったでござるな。人の心を弄ぶからこういう事になるでござる。生前の拙者そっくりでござるよ。これはもう……責任をとるしかないでござるな』
えっ、なに? 俺の所為なの?
「もうこんな時間だね。急いでご飯作るから、お兄ちゃんは自分の部屋でのんびりしててね。あ、私の部屋には入らないでよ? 入ったとしても、写真立てとか、特にベッドの下とか、ベッドの下とか、それと、ベッドの下とかは絶対に見ないでね!」
「おう、分かった。入らないし見ないから安心しろ」
『正汰殿。沙彩殿はアホの子でござるか?』
うん。いま俺も思った。
男がエロ本をベッドの下に隠すように、女も何か隠すのだろうか。実に気になる。
ちらっと沙彩のベッドの足元に目をやると、何やらピンク色のコードのような物がベッド下から飛び出ていた。スマホの充電コードだろうか。今や充電コードも色とりどりあるからな、ピンク色というのも実に女の子らしい。だが床に置きっぱなしは頂けんなぁ。
「おい沙彩、ベッドの下から出てるスマホの充電コード? ちゃんとしまうんだぞ? 片付けが出来て初めて一人前の女になれるんだからな」
「え? あ……あわわわわわ!! は、早く部屋から出ようねお兄ちゃんっ! ね?」
「待て、話しはまだ――」
沙彩は俺の背中を強引に押して二人で一緒に部屋から出た。
俺はそのまま隣の自分の部屋へ、沙彩は何故か顔を赤くし、慌てたように階段を降りていった。ただ注意しただけなんだけどな、女の子というのはよく分からん。
まあでも、これで一先ずは一見落着かな。
「いやぁ良かった良かった」
『全っ然っ良くないでござる。正汰殿は間違いなくやらかしたでござるよ。なんでござるか、あの愛のプロポーズの様な台詞は! 拙者までドキドキしてしまったでござるよ! ただでさえ沙彩殿は正汰殿に依存していたというのに……わざとでないなら、正汰殿も千尋殿に負けず劣らずの天然たらしでござるな』
「あいつ俺に依存してたの? いやいやそれはないだろ。中学になってもまだ甘えたがりな貴重なお兄ちゃんっ子ってだけだよ」
『……ここまで鈍感でござったとは。いやはや、これはもう救いようが……。まあ拙者はこういう展開も嫌いではないでござるから、正汰殿はこのまま突き進んで行けばいいでござるよ』
「おい、なんだよ……不安になる事言うなよ……ねぇ、ねぇってば!」
それから、ケンシローに話しかけられる事は無かった。俺が話しかけても反応なし。嬉しいけど、余計不安を煽られた。
その後、沙彩とご飯を食べて、デザートのプリンを……半強制的に一緒に食べさせられた。顔を赤くするくらいだったらあーんなんてしなきゃいいのに。全く、おかしな可愛い妹だ。
お風呂の時もいつも沙彩が一番風呂なのに俺に譲ってきたりして、しかも「背中流そうか?」とか「久しぶりに一緒に入らない?」とか言ってきたが、勿論断った。
俺が風呂から上がり、次に沙彩が風呂に入ったのだが、いつもより長風呂だったような気がする。泣きつかれたからゆっくり浸かってたんだよなぁ、きっと。
沙彩がお風呂から上がり、髪をドライアーで乾かし終えると、リビングのソファーでくつろいでいた俺の所に顔を赤くして、そしてもじもじとしながら隣に座ってきた。いつも沙彩が着ているパジャマとは違う、生地が薄く、ボタンで留めるタイプのピンクのパジャマを着ていた。縦に五個付いているボタンが、何故か上から二つ外れていた。
「沙彩、どうしたんだよ。ちゃんとボタン閉めなきゃ風邪引くぞ」
「……」
そう言っても沙彩は依然として閉めることはなく、俺の肩に頭を預けるだけだった。
困った妹だ。そんな風に思いながら再びテレビを見てると、俺のパジャマの袖がくいくいと引っ張られた。
「ん? どうした沙彩。……っ!?」
「……」
沙彩のパジャマのボタンが五つ全てが外れていた。すべすべの肌がもろ見えてしまっている。というか控えめなアレも見えている。
「お、おい! 何やってるんだよ沙彩! 早くボタン閉めろ! しかもお前、パジャマの下に下着着てないじゃないか! あーもう、兄ちゃんがボタン閉めるからじッとしてろ」
「……」
依然として沙彩は無言。顔が赤くなっている事は変わってないが、上目遣いが追加されていた。
沙彩のパジャマのボタンを上から順に止めていく。
「んっ……!」
「うわっ、ごめん。くすぐったかったか?」
「……お、お兄ちゃんっ!」
「ちょ、どうした、うぉ!」
沙彩が突然俺の事を押し倒した。ソファーが俺の体重で柔らかに沈み込み、そして、沙彩は俺の身体に馬乗りになり俺を見つめている。息使いが荒く、体温が熱くなっているのを沙彩の身体から感じる。
「お兄ちゃん……私……」
「沙彩……」
沙彩は俺の顔を両手で包み込むと、ゆっくりと顔を近づけてきた。ボタンを締め切っていない生地の薄いはだけたパジャマ、何か愛おしいものを見るような目で徐々に近づいてくる妹。お互いの息と息がこそばゆく触れ合ったところで、
「ただいまー。沙彩ー? 今日のご飯なーに? お母さんお腹ペコぺコだ……よ……。何してんの、あんたたち……」
帰ってきたのは、我が家の大黒柱こと母ちゃんだ。
母ちゃんは信じられないものを見たのような顔で固まっている。俺も今起きた出来事が信じられないんですが。
「お、お母さん!? こ、これは違うの。これは、私が将来男の人と付き合った時の予行練習をお兄ちゃんに手伝ってもらってたの。ね? お兄ちゃん?」
「え? あ、うん。そうそう。迫真の演技だったよ」
「……あら、そうなの? てっきりお母さんは兄弟の一線を越えようとしている最中なのだと思ったわ。あービックリした。沙彩、こういう事はお母さんを頼りなさい。昔あの人にしてあげた一〇八の技法を伝授するわ」
「え? うん。ありがとう。期待してる……」
母ちゃんは子どもの前でなんちゅう事を話しているんだ。てか父ちゃんにやった技法なんて沙彩に教えんな気持ち悪い。
しかし、そっかぁ、沙彩はいずれ出来る彼氏とそういう事をする時の練習をしていたのか。だったら始めから言ってくれればいいのに。兄ちゃんびっくりしちゃうよ。
「お母さん! ご飯食べる前にちゃんと手を洗ってね!」
「はーい。なんだか沙彩の方がよっぽどお母さんしてるわね」
そう言って、母ちゃんは洗面所へ向かった。
「なあ沙彩、そういう事なら先に言ってくれよ。でも沙彩に彼氏かぁ、沙彩モテるからすぐに出来ちゃうんだろうな。兄ちゃん悲しくなるな」
「……お兄ちゃんのバカ、ヘタレ」
「え? 何? ごめんよく聞こえなか……っ!」
沙彩はにこりと笑うと、俺の頬にキスをした。柔らかな、それでいて温かい感触が頬から全身に駆け巡る。
「お、おい! 今のも練習か? リアルでする奴があるか!」
「さぁ? どっちでしょー? お休みお兄ちゃん!」
いたずらな笑みを見せた後、沙彩は自室へと向かった。
「顔真っ赤にして何言ってんだよ」
色ボケが進んだ妹を、これを成長と言っていいのかどうか怪しいラインだが、着実に沙彩は大人への階段を上ってきている。兄として嬉しいけど、少し寂しいかな。
「さて、俺も寝るか……ってなにこれ!?」
沙彩が馬乗りになった箇所が染みになっており、少し湿っている。
「なんだよあいつ、ちゃんと身体拭いてなかったのかよ。ほんとに困った妹だな」
『…………』
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