第七話 困窮
『あの様子、やはり拙者の目に狂いはなかったでござるな……ふひひ』
「あぁ? どうしたんだよいきなり」
『なんでもないでござる』
今はというと、一ノ瀬が一度起きて再び眠りについてから数十分たったところだ。 時計の針は既にに六時を回っている。
未だ保健室の先生は来ていない。鍵を掛けずに不在なんて色々問題なんじゃないか? まったくあの人は……。
ソファーで座ってるとは言ったものの、濡れタオルは引き続き取り換えてあげたい。
カーテンを開けて一ノ瀬の様子を窺うと、ブラウスの胸から上辺りが汗で滲んでいた。やはりまだ完全には熱は引いてないみたいだ。
「また拭かなきゃいけないのか……。でも大丈夫。今の俺は先の経験によって無心の極みを心得ている。これくらい楽勝だ」
起こさないよう細心の注意を払って一ノ瀬のワイシャツのボタンを今度は上から三個だけ外した。そっと肌にタオルが触れるか否かのところで、突如ガラガラガラと引き戸が引かれ誰かが保健室内へ入ってくる。
コツンコツンコツン——
ゆっくりとハイヒールの甲高い足音が保健室内に響き渡った。
誰か来た。誰もいない保健室で男女がカーテンの中で二人という状態、しかも俺が一ノ瀬のブラウスのボタンを外している場面なんて色々とまずいぞこれ!
徐々に足音が近くなっていき、スッと差し込まれた白く細長い指がカーテンを掴んだ。
瞬間、勢いよく開いた。
その人物と目と目がバッチリと合い、思わず固まってしまったが、目の前の相手は俺のよく知る人物だった。
「あ、朝比奈先生!!」
先生は驚いた顔で俺と一ノ瀬を交互に見ている。が、徐々に顔が引きつっていくのが窺える。
そりゃそうだろ、男子が寝ている女子のブラウスを脱がそうとしているのだから。
「君達、まさか……!」
「ち、違います先生! 誤解です! この子が熱だして、それで、あ、汗拭こうとして、ボ、ボタンを、ええと、ええと」
先生は驚愕に戦慄を足した様な表情で俺と一ノ瀬を見て身震いしている。
まずい、絶対に誤解してる。確かに誰がどう見ても誤解する場面なのだが。
俺が必死に弁明すると、先生は一度目を瞑り、そしてゆっくりと開く。
「大丈夫よ~。私、誰にも言わないから。でもね〜場所は選んだ方がいいわよ〜」
「場所!? 何言ってんですか! だから違うんですよ!」
「ふふっ、冗談よ。からかっただ〜け。でもでも〜実はもしかして〜本当にここでその子と一線越えちゃったのかしら?」
「越えてませんからっ!」
先生はニヤついた目で俺を見ている。
この人は
体型はスレンダーで、髪型は前髪があるロングストレート。それでいて豊満なバストの持ち主であり、溢れんばかりの胸を強引に白衣の中へ閉じ込めている。
少々からかい好きだが、その大人っぽい外見と少々抜けている所が相まって男子から圧倒的人気を誇り、また女子にとって憧れの存在である。
良き相談相手としても好評で、噂では朝比奈先生に恋愛相談すると必ず成就するらしい。
「そお? ならいいんだけど〜。それよりこの子、今の話からすると熱があるのよね?」
「はい。高熱で一時意識を失ってしまって保健室に連れてきたんですけど、先生いないから俺が看病してました。だいぶ良くなったんですけどまだ少し熱があるみたいで」
「あら〜そうなのぉ。ごめんね〜、先生教室で悩める女子達と恋バナしてたらつい盛り上がっちゃって〜、保健室を開けっ放しにしてたのを忘れちゃったの〜」
「なん……だと……?」
だったら保健室で恋バナすればいいだろが! この人平気でこういう事をするんだよなぁ。俺が前に保健室へ行った時だって、先生いないなーと思ってふと周りを見渡したら、朝比奈先生はベッドで熟睡していたのだ。他にもあるが挙げればきりがない。
朝比奈先生は急に真剣な表情になると、一ノ瀬の容体を確認し始めた。
「君のおかげで高熱があったとは思えない程、この子はだ〜いぶ良くなってるわよ。養護教諭として感謝するわ〜。あとは先生が観てるから、あなたはもう帰っていいわよ〜。心配でしょうけどここから先は先生の領分だからね~」
「……はい、そうします」
こんな人でも一応は養護教諭だ。専門の人に任せた方が良いに決まっている。
俺は一ノ瀬を先生に任せて学校を出た。
『チッ! それにしてもあの女、ナイスバディでいい女でござるがタイミング悪すぎでござるよ! これから体拭き拭き大会第二回戦が行われようとしているところでござったのに。正汰殿、腹いせにあの女の胸を揉みしだいてヒーヒー言わせるでござるよ! 拙者は正汰殿のテクニックなら必ずしも成し遂げられると信じているでござる。不完全燃焼はご免なのでござる』
「お前の都合に合わせる義理なんてないわ! それに体拭き拭き大会ってなんだよ!? ヒーヒー言わせる!? 馬鹿か、馬鹿なのか。お前はいつも淫らなこと考えてないといけない掟でもあんなのかよ」
俺はあいつとくだらない話をしながら今日あったことを振り返った。
体育倉庫で一ノ瀬にとんでもない事をやらかしてしまったが、まさか一ノ瀬がその事を覚えていないなんて思わなかった。道理で謝っても不思議がられる訳だ。もしもあの事を思い出す時が来たら、その時はまた謝ろう。
「正直なとこ、一ノ瀬には体育倉庫での事を思い出してほしくないけどな」
『な、何を言ってるでござるか!? 正汰殿に受けた恥辱のかぎりを思い出して赤面するあの娘の顔を見たくはないのでござるか? お主本当に人間でござるか?』
「お前基準の人間なんて変態の極みだろうが! 俺は平凡な人間なんだよ! あとなんだ赤面が見たいって、ほんと良い趣味してらっしゃいますねぇまったくよ!」
苛立ち半分、あきれ半分だ。
あいつが憑依してまだ2日だが、この状況に少し慣れてしまっている自分がいる。
「ママーあのおにいちゃん、ひとりでおはなししてるよー。へんたいってなーに?」
「こら! 見ちゃいけません!」
女の子の母親は、自身の手で娘の目を塞ぎ、一度俺をキィっと睨んでから逃げるように歩いていった。
『こいつぁぞっくぞくするでござるな』
「……」
俺は早歩きで家へ急いだ。もう嫌。
♢♦♢♦♢♦♢
「ただいま……」
「おかえりー、お兄ちゃん!」
こいつは妹の
沙彩は現在中学1年生。髪型はツインテールでとても人懐っこい性格だ。
学校では結構モテるみたいでよく告白されているようだが、毎回断り続け、沙彩が中学に上がってから既に数十人が撃沈したらしい。男に興味が無いのか、それとも既に好きな人がいてその人以外はどうでもいいという事なのだろうか。
ちなみに、こういった情報は千尋が教えてくれる。千尋の人脈と情報網は凄まじいといつも思う。
「ああ、ただいま。今日はちょっと疲れてるから兄ちゃんもう寝るわ。母ちゃんにも言っといて」
「ぇえええ! お兄ちゃんご飯食べないの!? 今日のご飯せっかく私が作ったのにー」
「ごめんなぁ沙彩、ちゃんと明日の朝レンチンして食べるからさ、冷蔵庫に入れといてくれないか?」
俺は沙彩の頭を優しく撫でてやり、沙彩も目を瞑ってまんざらでもない様子。
「もぉ……お兄ちゃんのバカぁ……」
沙彩は頬をリスの様に膨らませてジト目で俺を見つめてくる。
可愛い、マジで可愛い。実は俺の妹じゃないんじゃないか?
沙彩がぷいぷいと拗ねながらキッチンの方へ歩いて行くのを見送ると、俺は2階の自室へと向かった。あいつと『指導』の時のことを話さなきゃいけない。
あの時あいつは完全に俺に憑依し、俺の身体を自由に動かすことが出来た。その時俺は意識を失い、気がつくと自分の身体であるはずなのに自分の意思で身体を動かすことも、口を使って声を出すことも出来なかった。つまり俺とあいつが一時的に立場が入れ替わったということだ。
「おい、あの時のあれはいったいなんだったんだよ!」
部屋に入り、まず最初に一番聞きたかった事を聞いた。
『あの時のあれとは一体なんの時でござるか?』
「とぼけんな! 俺がリンチまがいの『指導』を受けてた時だよ!」
あまり大きい声を出すと家族に頭の方を心配されるので、気持ち小さめに話している。
昨夜、あいつのイビキがうるさくて思わず「うぎゃー! うるせェェ!」 と大声で叫んでしまった所為で、隣の部屋にいる沙彩が驚いて110番通報してしまいちょっとした騒ぎになったのだ。
『指導? ああ、あの武士道のかけらもござらぬ非道な輩達と相対していた時のことでござるか。あの時は気がついたら正汰殿の身体を自由に動かせる様になっていたでござるよ。何分拙者も頭ぷっつんいってたでござるからなぁ、如何にして完全な憑依が可能となったかは分からないでござるよ』
「分からない……か……」
あいつが分からないのなら、もう分からない。だがそれを聞いて1つ仮説が思い浮かんだ。それは、完全な憑依には何か条件があるのではないかという事だ。あの『指導』の時、あいつは怒っていた。怒りが完全な憑依に繋がる要因なのかもしれない。それとも何か他にも要因が?
考えてもしょうがない。実際に試してみよう。
【ケンシローを怒らせて、完全に憑依されるのか試そー作戦】始動!
「おい」
『なんでござるか?』
「この変態がぁ! 生きている事を恥じろ! そして詫びろ! お前はごみくず以下だ」 ※小声です。
『——? はっはっはっは! 正汰殿。拙者はもう死んでるでござるよ? それに我々の業界ではそれらの罵倒はご褒美でござる。出来ればかわゆい子に罵倒されたかったでござるよ……』
駄目だった。怒る気配もなく、それに加えまさかドM属性まであるなんて。そういえば、さっき帰り道で人妻に睨まれた時もぞっくぞくするとか言ってたような……はぁ。
【ケンシローを怒らせて、完全に憑依されるのか試そー作戦】は失敗に終わった。それだけでなくこいつはドMであるという事が発覚し、さすがの俺も軽く戦慄した。
「お前複属性かよ……もういい。俺寝るわ」
『おやすみでござるー』
まだ寝るには早過ぎるが、俺は部屋の電気を消しベッドに横になった。段々と落ちてくる重い瞼を下ろし、視界は閉ざされた。
『おのれぇぇい! この極悪非道めぇぇ! 絶対に、絶対にゆるさないでござるよぉ……ぉ……』
「…………」
『ふわぁ〜結構寝たな。だいぶ疲れもとれたし……ってあれ、起きてんのに視界が真っ暗だぞ!? これってまさか……おい! 起きろ!』
身に起こった現実に背筋が凍る。
「んんー、もう朝でござるかぁ。まだ眠いでござるよぉ……」
あいつの眠たげな声とともに俺の視界がゆっくり明るくなる。またそれと同時に俺の意思で身体を動かすことが出来ないという事に気付いた。それはつまり——
『また完全な憑依されてる……』
俺は朝から完全憑依で一日のスタートを切った。
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