一年の冬~006
――あ~あ…此処まで来たら手遅れね…
あの女…あの漫画キャラを模した女が、暗い空間の中、空気椅子に座るが如く腰を浮かしながら、俺を見下ろしていた。
見下ろしていた…正に宙に浮きながら座っている。そう表現するしか無かった。
多少は鈍くなった頭痛も、女の声を聞いた途端に激しく痛み出す。
まるで頭蓋骨の内側からハンマーで殴られたように。
お前…一体何がしたいんだ…その咎めるような目はなんだ…俺を殺したいのか…?
女は目を伏せ、深い溜め息を付く。
――殺したい?本気でそう思っているの?
……いや…むしろ助けようとしているような…
死ぬ方向に行こうとしているのを、必死で止めているような…
そんな印象は受けるが…
――頭痛は信号…危険信号…信号も真っ赤になって引き止めるでしょう?同じよ
同じっつったって…痛いもんは痛いし…いっそ殺してくれても構わないんだよ。
女は今度こそ怒った瞳を俺に向けて言った。
――ふざけないで!貴方の命は犠牲によって成り立っている事を忘れたの!?
犠牲……
そうだ…あの時…中学二年の時…
俺はあいつに助けられた…
助けられたけど…助けられなかった…
だから…いいんだ…
あの時代わりに俺が…
――それを彼女が望んでいると思うの!?
それは初めて聞く大声。
驚いて女の顔を見る。
――どうかしたの?
…いや…やっぱりあの漫画キャラにそっくりだけど…どっかで見た…会ったような…
女は空気椅子から飛び降りて、俺の肩をしっかり抱いた。
温もりは感じない。冷たい身体…だけど…温かい…
――思い出して!思い出して私の名前を!思い出して!!
泣きじゃくりながら必死で懇願する。
やっぱり会った事あるんだ。
知っている…だけど目を背けている…
背けている?
――そう!背けているの!だから見えない!見えたら死なない!!
それは二重三重に含みを持たせた言葉…
――ちゃんと見て!見えたら大丈夫だから!見えたら………っく…
言葉が出ないように口をパクパクさせながら…女は暗闇と溶け込んで行く…
――規制が…もうちょっとなのに…
最後にそう言って…
女は消えた……
……
朝が来た…
鼻に残っている花の香り…葬儀の花の香り…そして頭はやはり痛む…
だけど何故俺は泣いている?
何故止め処なく涙が溢れて来る?
「意味解んねぇ…」
掛かっていたタオルケットで涙を拭い、溜め息をついた。
「何を思い出せと…何を受け入れろと…」
あの女は漫画キャラを模した顔だが、俺は昔あいつに会った事がある…
誰かは解らない。あんな顔の知り合いは居ない。漫画キャラと同じ顔が居る訳が無い。
だけど雰囲気が…
葬儀の匂いが…
ズキッ
「っつ…」
信号だが何だか知らないが、思い出そうとすれば頭に鈍痛が走るし…
考えるだけでも頭が痛いって言うのに…
そう思いながらカーテンを開ける。
「……またロードワークサボっちまったな…」
この頃はちょくちょくサボってしまう。
それに、学校にも遅刻ギリギリになる事もしばしばだ。
今日も例に漏れず、急いで出掛けなければ遅刻になる時間だった。
俺はやはり顔を洗って、着替えだけして家を飛び出した。
重い足を引き擦りながらの登校。
もう慣れたと言っても過言じゃない程、この頃は体調が悪い。
溜め息を付く事も慣れた。
ダルい、休みたい、帰りたい…
こんな事ばかり思ってしまう。
中学二年のあの頃と同じように。
靴箱から上履きに履き替え、まさに仕方無しに教室に向かう。
「あ…」
目に入ったのはB組の前で笑って何か話している槙原さんと、真っ青になって俯いている響子。
微かに震えているのが遠目でも解った。
ヒロが言っていた。槙原さんはヤバいと。
何がヤバいのかは知らないが、響子を困らせる奴は女だろうがぶち砕く。
そう思って一歩踏み出した時、不意に鼻に付いたあの花の香り。
そして耳元で呟いているのが解った。
――此処を乗り切って…
振り向くが姿は見えない。
乗り切ろって言われても、意味解んねぇんだよ。
そして俺はヒロにも言われたんだ。
春日ちゃんを守ってやれよ、と。
拳を握り固めてズンズン進む。
その時槙原さんが俺の接近に気が付いた。
「あ、緒方君おはよう」
全く毒気の無い笑顔で挨拶されて、握り締めた拳の行きどころを失った。
同時に響子が俺の腕に絡みついた。しかも響子パワーMAXで、ギュ~ッと。
「お、おい、どうした?」
訊ねたがブンブン首を振り、ただしがみつくのみ。
「あはは~。二人で緒方君の幸せの事を話していたんだよ。ね、春日さん?」
しがみつく身体が小刻みに震えている。
力無く頷いて返す響子だが、様子が尋常じゃない…
「俺は充分幸せだよ」
元々鋭い目つきに加えて、体調絶不調の今の状態。
それはそれは凄まじい圧力を放っていただろう。
だが、それに対する反応は、俺の想像に反したものだった。
「……緒方君、体調悪いの?」
「……何故そう思う?」
槙原さんは人差し指を顎に当てて、首を傾げて言った。
「何言ってんの?誰が見ても明らかな顔色でしょ?」
俺の体調不良を顔色のみで判断できたのは、家族以外ではヒロくらいのものだ。
虐められていた時代に、やせ我慢を覚えたからな。
「よく解ったな…正直驚いた」
「普通じゃない?ねぇ春日さん?」
槙原さんが言った後、今まで小刻みに震えていた響子が、固まったように動かなくなった。
「……あ~あ…やっぱりかぁ…春日さん、さっき言った事、ちゃんと考えておいてね。じゃね緒方君。無理しないで保健室に行った方がいいよ。私が連れて行きたいけど、其方の恋人さんが許してくれそうもないから無理だし」
一瞬だけこっちを向いて去った槙原さんだが、その時のあの目…
響子に敵意を向けているような…いや、間違い無い。
俺が所謂不良を見る目と同じだったから。
俺に未だにしがみついた儘、黙って俯いている響子に声をかけた。
「おい、槙原さんと何かあったのか?」
「…………」
だんまりである。ちょっと前の響子を見ているようだ。
「言わなきゃ解んないけど、言いたくないなら無理はすんな」
「…………」
無理はしないようである。まぁいいさ。
「なぁ、そのまましがみついてくれても良いが、いや、むしろ大歓迎だが、流石にみんな見ているから恥ずかしいぞ」
言われて顔を上げる響子。
同級生達の好奇な視線を一斉に一気に浴びている事に気付き、顔を真っ赤にして静かに離れた。
ちょっと、いや、 かなり惜しいが、そろそろ予鈴が鳴るから仕方ない。
名残惜しいが温もりゲットで我慢しよう。
その日から数日間…
響子の様子が明らかにおかしかった。
毎日一緒に帰っている俺達だが、冬の寒空に暖を取る方法の一つなのだろうが、俺の腕にしがみついて離れないのだ。
下校している生徒の目を気にしつつも、こっちが最優先だと言わんばかりに、恥ずかしいのを我慢して、唇を噛み締めながら、ずっとだ。
「なあ、無理する必要無いんだぞ?」
そう言っても黙って首を振って拒否するのみ。いや、表情は暗い。
ちゃんと前を向いてはいるが、その表情は出会って間もない頃の響子のものだった。
あの日、槙原さんに何を言われたのか?
それとなく探りを入れてみたが、頑なに喋ろうとしない。
「それにしても寒いなぁ…」
「……うん…」
「田舎だから11月の中頃でも雪降る時は降るしなぁ」
「……うん…」
「もうすぐクリスマスだなあ。プレゼント何がいい?」
「……うん…」
「…………」
「…………」
世間話、終了である。
この頃はいつもこんな感じだ。
俺も会話を探そうと色々頭を回転させる。沈黙は何よりもキツいからだ。
「こんな寒い日は、響子のバイト先で、あったかいコーヒーでも飲みたいな」
「……バイト辞めちゃったから…」
「そうか。まぁ、ドリンクバーのコーヒーだしなって何ですとお!?」
突然のカミングアウトに仰け反って驚いた。しかし響子は俺の腕を放そうとはしない。結構ハードに動いた筈なのに。
「……うん…」
やはり唇を噛み締めながら言う。
もしかして、辞めなきゃいけない状態にでも追い込まれたのか?
「誰だよ?お前を困らせている奴は?ぶち砕いてやる!!」
しかし響子はフルフル首を振るのみ。
「我慢する必要は無い。俺が守ってやるし、ずっと傍に居るから大丈夫だ!!」
「……うん…」
少し表情に明るさが戻った。
そして続けた。
「……本当の本当の本当にずっと傍に居てくれる?」
「当たり前だろ」
だから言えよ。そう続けようとした。
だが、響子の方から先に口を開いた。
「……今日…家に来て?」
「家?」
言われて初めて気付いた。
そういや響子の家に行った事無かったな。俺ん家にも呼んだ事は無いし。
「え?しかしお前って一人暮らしだったんじゃなかったっけ?確かお袋さんが単身赴任とか何とか…」
つまり密室で二人きりである。
思春期の俺としては、色々ヤバい事をするかも知れない。
「……いいの…来てくれたら話すから…私が困っている理由…見ればきっと解るから…」
見れば解る?話すと言っているのに見ればって一体…
解らないが、行くしか無さそうだ。
「解った。行くよ」
手ぶらじゃ何だからケーキでも買って行くぞと言うと、久し振りにあの可愛らしい笑顔を俺に向けて頷いた。
俺の最寄駅から更に五つ先、響子のバイト先に一番近い駅。から、更に下方向に三つ先。
そこから響子は登校していた。
「遠いんだな~」
と言っても、充分通学範囲ではある。
「……中学時代の人達の誰にも会わないように、遠い学校にしたの…」
ふぅむ…俺と同じく中学時代に、禄な目に遭ってないのかな…
ならば気持ちは解る。詮索はすまい。更にはそこからバスで更に30分…
「と、遠いんだな?」
まあ、まだ通学範囲ではあるが。もっと遠い所から通っている奴もいた筈だし。
「……中学時代の人達になるべく会いたく無いから…」
うーん…徹底しているようで穴があるなぁ…
こうやって登下校をバスや電車で移動しているんだ。
何だかんだ言って地元民である。必ずどこかで鉢合わせになるだろう。
「……中学まで住んでいた所は隣街なの…バイト先の駅から西の方の街…」
引っ越しまでしたのか!?それは徹底しているな!!
それじゃ鉢合わせの危険性はかなりダウンだよ!!
ん?だけどそれって引っ越しさせなきゃいけなかった事情がある訳だよな?
「……あ、ここで降りるんだよ…」
そんな事を考えているうちに、響子の家の傍のバス停に到着したようだった。
そして歩く事10分…
そこは普通の木造二階建てのアパート。その二階の角が響子の家らしい。
鍵をガチャガチャと開けると、どうぞと促される。
「お邪魔しま~す……」
やべえ。よく考えたら女子の部屋なんか中学以来入った事が無い。
無性にドキドキしてきたぞ…
――引き…返せ…
耳元であの女がいきなり囁いた。
勢い良く振り向く。
そこには当然響子しか居ない…
「……ど…どうしたの?」
驚いた様子の響子。おっきな瞳をパチクリさせている。
「……いや、何でも無い。それにしても…」
お母さんが単身赴任だから一人で使っているんだろうが、無機質で何も無い部屋だ。
部屋は二つあるようだが、一つは居間として使っているようであり、あの襖に仕切られた部屋が寝室なのだろう。
その居間にも、テーブルとテレビと本棚ぐらいしか無い。
「……お母さんは仕事先の近くに家借りて住んでいるから…私一人だけしか使わないアパートだから…部屋数もそんなに要らないの…」
淋しそうにそう呟く響子。そんな様子を見ると益々俺が守ってやりたくなる。
「……そこに座って?今お茶煎れるから…」
言われた通りに座布団が敷かれてある場所に座り、買ってきたケーキの箱を開ける。
――飲んじゃ…駄目…
再び耳元で囁かれた。
振り向くが、そこにはお茶の準備をしている響子の後ろ姿しか無い。
ちくしょう…姿現せよ…普通に怖いだろうが。
花の匂いが鼻腔を擽り、耳鳴りがし出す。
だが、耐えきれないものじゃない。
いつもみたいな頭蓋の裏側からぶん殴られたような痛みが来ない。
――飲む…な…
今度は後ろから抱き付かれたように、背中にひんやりとした感覚が肉の柔らかさと共に現れる。
こいつ…胸ないな…いやいやいやいや!!
なんでこの状況でも煩悩が働くんだよ。
自己嫌悪に陥り過ぎるわ。
「……どうしたの?もぞもぞして…」
「うわビックリした!!」
いきなり後ろから声を掛けられて仰け反った。
だが、響子の方はもっと驚いたように、目をパチクリとさせていた。
「いやー…女子の部屋だと緊張してさぁ…」
言い訳じゃないが、言い訳をする。
響子は黙って微笑みながら、俺の横に座った。
「……隆君は…コーヒーだよね?」
言ってカップを置く響子。当の本人は抹茶ミルクみたいなヤツだ…が
「おいおいおいおい…そんなに砂糖入れるのか?」
信じられない事に、抹茶ミルクに砂糖をスプーン一杯、二杯、三杯…
計七杯も入れた!!
甘過ぎだろそれ!糖尿になるぞ!
「……本当は小豆も入れたかったんだけど…今切らせているから…」
小豆…あんこ?
どんな飲み物だそれ?いや、飲み物じゃない、食い物だろ!!
小倉あん抹茶ミルク砂糖掛けみたいなスイーツだよ!!俺は絶対無理だな!!
その恐ろしい程甘々な飲み物を一口含み、ニコッと笑う響子……
……可愛過ぎる!!
とか言って、欲情してしまったら大変だ。
気を逸らすよう俺も一口啜った。
「……なんか変な味だな?」
「……ブレンド失敗したかも…ごめんなさい…」
「いやー!旨いなこのコーヒー!うん、何杯でも飲める!ドリンクバーなら良かったのになあー!!」
我ながら、この手のひらの返し方が天晴れだなぁと思った。
だけど響子の嬉しそうな笑顔を見ると、天晴れでも問題ないと思った。
本気で我慢してコーヒーを飲み干した。
ケーキが無ければヤバかった味だ。
あの苦味ってかえぐみ?何をブレンドすればあんな味になるのだろうか?
「……気に入ってくれたんなら、もう一杯飲む?」
……そんな可愛らしい笑顔で進められたら、断れねーだろ…
「…頂こうかな?」
緒方隆…愛に生きる男である。
響子はご機嫌に鼻歌を唄いながら再びコーヒーを淹れる。
その後ろ姿を見ると、華奢だなぁ、と。
守らなきゃ壊れちゃいそうだなぁ、と思った。
元より俺は、中学二年のあの日に命を捨てたようなもんだ。
響子を守って生きられるなら、生きる目標ができるなら、それは響子のおかげだ。
何が死ぬだ。何が飲むなだ。
俺は今日から響子を守る為に生きる!!
決意を固めて一人で頷くと、物凄い睡魔が俺を襲って来た。
え?なんだ?疲れてんのか…
目を開けるのも辛い…
何度かまばたきをすると、あの俺の姿が目に映った。
そして悲しそうな顔で言う。
――だから飲むなと言ったのに…
完全に記憶が消える刹那、あの女の台詞だけがハッキリと耳に届いた……
………
うっすらと目を開ける。
真っ暗だ。見渡そうとしたが身体が動かない。
起きたてで覚醒していない頭で考える…
響子の家に来て…コーヒーとケーキ食って…すげぇ眠くなって…
気付いたら…ベッドの上…?
マットレスの感触が背中に伝わったので、そう確信した。
そして俺はベッドに縛られている状態?
誰が縛る?何の為に?
カラッと襖が開き、光が零れた。
「……起きたんだ…」
首だけ向けると、響子が入って来たのが解った。
パジャマを来ている。髪も少し濡れている。
「…風呂でも入ったのか?」
ゆっくりと近寄って来て、俺の傍で屈む響子。
「……ううん…シャワーだけ…」
成程シャワーか。シャンプーの匂いがいい香りだ。
「…取り敢えず状況の説明をしてくれ」
「……隆君はベッドで寝てるのよ…」
「何故拘束されてんの俺?」
俺の質問を無視して、音も無く立ち上がる響子。
「……絶対渡さない…負けないんだから…!!」
そう言って、いきなりパジャマを脱ぎ始めた。
ショックだった。
響子は初めてでは無かった。
これはいい。素顔を晒していた時代があるならば、響子くらいの女子ならば、言い寄って来る男も居るだろう。
その中で好き合って、付き合って、結果捧げただけかも知れない。
俺がショックなのはそういう事じゃなかった。
慣れている。
まるで性技を叩き込まれたように熟練していた。
ここがショックその一だとすると、更に超えるショックを受けたのが……
響子の身体が傷だらけだった事だ。
生々しい傷、痣じゃない。それは長年に渡り受けて来た、深い傷、痣…
しょっちゅう不良と揉めていた俺にも見覚えがある傷もあった。
火を点けた煙草を押し付けた痕…
所謂根性焼きが、腹部に数ヶ所、点々と残っていたのだ…
拘束されている俺の上で、必死に腰を振っている響子…
それは快楽の表情じゃない。
まるで拷問を受けているような、苦痛に溢れた表情だった……
「……もう…やめろ響子…」
言っても腰を振る事をやめない響子…俺はそんな響子を見て、堪らなく悲しくなった……
「やめてくれ響子…」
そんな事しなくても…そんな真似しなくても…俺は絶対離れないのに…
なんでそんなに苦しい顔をしてまで繋ぎ止めようとする?なんで俺が離れていくと思う?
過去に何があったのかは知らないが、俺の過去に比べりゃ大した事は無いのに…
「解いてくれ響子…もうやめろ…それより…抱き締めさせてくれよ……」
そう言った途端、動きを止めて、悲しそうに俺を見た。
「……私じゃ気持ち良くなれない?」
首を振って否定する。
「……こんな傷だらけ痣だらけの私じゃ…やっぱり嫌?」
首を振って否定する。
「……なんで泣いているの?」
「お前も泣いているだろ。解いてくれよ。こんな事しなくてもずっと傍に居るから…」
いや、俺の過去を聞いたら、お前から離れて行くかも知れない。
それでもいい。
だから…
「やめてくれ…」
暫く俺の上で黙って俯いていた響子は、やがて意を決したように俺から離れた。
「……お水…持ってくる…」
「うん」
喉が渇いた。
泣いたからか?汗が凄いからか?
未だ拘束は解かれていないが、水は素直に有り難かった。
襖が音も無く開く。光が零れたのでそれは解った。
「遅かったな…?」
一つのコップに水を入れるだけなのに、意外と時間が掛かっていた。
「……ちょっと…準備で…」
そう言って水を一口含む。
自分だけかよ!と心で突っ込んだ俺だが、衝撃が襲った。
響子は口移しで俺に水を飲ませたのだ。
動揺しながらも、それで喉を潤して一言。
「順番逆だろ?」
キスの前に拘束プレイなんて、真逆もいいとこだ。
「……そうだね…」
そう言って、ベッドの俺の傍に横たわる。
「解いてくれないのか?」
「……私の事…好き?」
………
質問に答えてねー…
「勿論好きだよ。たから拘束…」
「……私のどこが好き?」
………
何故遮るんだよ!!
こんにゃろ、んじゃ逆に問い返してやる。
「俺のどこが…」
「……全部…好き…」
………
俺が悪かった!!
拘束されてなきゃ土下座する所だった。
拘束されながらも幸せに浸る。
「……だから…離れたく無い…」
そう言って身体を寄せて来る。
だから拘束解けよ!なんでこんなに可愛い彼女が全裸で寄り添ってんのに、指ですら触れられない状況なんだよ!!
軽く憤る俺を無視するように、響子が続けた。
「……お父さんも、あんなに嫌だったのに…こんなに頑張ったのに…離れて行ったの…お母さんも…私は悪く無いのに…お父さんがやらせた事なのに…一人で仕事先に住んじゃって…もう…一人は嫌…寂しいの…好きなの…好き…好き…だから離れちゃ嫌…誰にも渡さない…ずっと…ずっと傍に居て…」
……訴えている、じゃない、強制している、のか?
だから俺が何故離れて…
そこまで考えていたら、突然ぐらりと視界が歪んだ。
いや、何かが覚醒したように、全ての感覚が研ぎ澄まされたようにも感じる。
「……効いてきた?」
効く?何が?
「……響子?水に何か入れた?」
質問に答えずに黙って立つ。
ベッドの下から何かを取り出し、ゆっくりと俺の前に翳した。
隣の部屋から零れる光に反射して光るそれは包丁…
そして響子は悲しそうに笑う。
「……きっとあの人…全部言っちゃう…そしたら隆君離れて行っちゃう…」
「お…おい?」
「……大丈夫だよ…痛みはあんまり感じない筈だから…大丈夫だよ…私も直ぐに行くから…」
行く?どこへ?どこにも行かないよ。此処に居るんだよ?
「……ちょっとだけ待ってて…直ぐ行くから……大好き…」
包丁が振り下ろされるのを俺は見た。
何度も何度も振り下ろされた。
振り下ろす度、響子が赤く染まって行くのも見た。
そして俺は、いつしか見えなくなった俺自身の身体を、宙に浮くような形で茫然と眺めていた……
何だよ…何であんなに突き刺すんだ?
泣きながら、返り血を浴びながら、既に事切れている俺に、なんで何度も何度も……
――さぁ?私には殺人鬼の心情なんか理解出来ないわ
俺の背後の暗闇に、例のあの女が空気椅子に座るが如く、綺麗な脚を組んで前のめりになりながら言った。一緒に見て…いや、観ている状態だ。
殺人鬼…とか言うなよ…響子は俺の…
――クスクスクスクス……
例の耳障りな笑い方をして目を伏せる女。
――お優しいのね。自分を殺した女を庇うなんて
それを言われると何も言えない。
――貴方…何故死んだ事に、殺された事に憤らないの?
…それは俺が…
――別に死んでもいい、と思っているからでしょ?
…………
女は俺に聞こえるように、大袈裟に溜め息を付く。
――貴方のせいで死んだんじゃない。彼女は…
言うな!!
――………
今度は逆に押し黙る。
再び大袈裟に溜め息を付いて、話題を変える。
――死んだ貴方にはこの先は解らないでしょうから、特別サービスで教えてあげる。貴方を刺殺した後、春日響子は大量の睡眠薬を飲んで自殺。発見されたのは一週間後よ
一週間も放置されたのか…
響子は親しい友達も居ないし、母親と離れて暮らしているから、発見が遅れたのか。
――発見された時には、貴方の遺体に寄り添うように亡くなっていたそうよ。良かったわね。冬だから遺体の腐敗もあまり進んでいなくて
不幸中の…幸い?
――残念な頭は相変わらずね。この残念童貞野郎
本気で呆れたように眉根を寄せて首を振り、またまた大きな溜め息を付かれた。
だが、これについては反論をしたい。
俺は童貞野郎じゃねぇよ!見ただろが!響子と…
あっ!!
見られていた!!
拘束されて、その、何だ…
兎に角!!この女に見られてたあああ!!
頭を抱え込んで蹲った俺!!顔から火が出る程恥ずかしいっ!!
――何が童貞野郎じゃない、よ。あんなか弱い女子に拘束プレイなんかされて…
言わないでぇぇぇ!!
本気で恥ずかしい!ヤバいヤバいヤバい!消えて無くなりたいっっっ!!
――消えて無くなりたいと言うか、既に亡くなっているんだけど
おかしな具合に上手いなこの女は。
――彼女は死んで天国でずっと一緒に居たいと願っていたみたいだけど、当の貴方がここで頭を抱え込んでいるんだから、それも不可能ね。可哀想に。痛い貴方とずっと居たいと言う、囁かな願いすら叶えられないなんてね
痛いと居たいまでかけるかよ。
俺も色々アレだが、この女も色々アレだ。
――でも、一年の夏に見えなかった事がある程度見えて来ただけでも良かったじゃない?
おかしな事に、俺『自身』には一年の夏の記憶が多数ある状態だ。
その内の一つ、楠木美咲と付き合っていた記憶…
電車に轢かれて死んだ記憶…
楠木美咲は俺を利用しようとして近付いて来た。
薬の売人をしていて、言わば用心棒として利用しようと。
今思えばおかしい事もある。
仮にも恋人なのに、メールや電話の頻度が極端に低かった。
あれじゃヒロや朋美とのやり取りの方がずっと中身も濃いし、頻度も段違いだ。
あの時ヒロがキレまくっていたのは、その事実に気付いたからか。
西高の木村も、楠木美咲の言わば『仕事相手』で、報酬で抱かれていた。
だが非通知電話の謎がまだ解けない。
今回の一年の冬の時には一切無かったようだしな…
――残念な脳みそでも何度も体験すれば、それとなく蓄積されるものよ。質より量とは本当に貴方らしいわ
小馬鹿にするようにクスクス笑う。
蓄積とは、俺の今までの経験、何度も繰り返している経験の蓄積。
しかし、復活した途端全て忘れてしまうのには少しどころかかなり不便だ。
そして今回、一年の冬でも解った事がある。
俺は女に指差し、不敵に笑った。
お前は俺が中学時代に愛読していた、漫画のヒロインの姿を借りている死神だ!!
押し黙り、俯く。
つまり…正解!?
――はぁ~あ…馬鹿な残念脳ねぇ…
顔を上げて、俺を見る女の目は可哀想にと物語っていた。
同情すんなあああ!!
確かに残念だが、いい線行っているだろ!?
――貴方が中学時代に愛読していた漫画のヒロインの姿を借りているのは本当。そこは当たり。むしろそこ、当たらなきゃ残念を通り越して非常に残念になるから
……非常に残念と末期とじゃ、どっちがヤバいんだろう…
似たようなもんかな?
ならば、とたたみかける。
お前の匂いは百合の花の匂い、つまり葬式の匂い、つまりお前は葬儀に関係あると仮説する。つまりお前は死神だ!!
今度はしてやったりと目を輝かせる。
――……さっきの解答を否定したのを覚えている?ついさっき否定したわよねその解答は?貴方鳥頭なの?非常に残念を超えて、救いようが無い残念になったわ
……間違いは誰にでもある…
それがたまたま、今回だけ重なっただけだと思いたい…
それに俺は実のところ、もういいやとも思っている。
何度も繰り返す夏、越えた所で冬で止まる。
流石に何度も死ぬのはうんざりだ。
それに…
――特に生きなくてもいい、と思っている?
………
――ふさげないで。貴方が最初に死んだ時、貴方の望みで始めたゲーム。途中下車は有り得ないわ…
それは咎める目。
……俺はこれがお前のゲームだとはとても思えない。お前は俺を何とか助けようと頑張っている…そんな印象を受けるんだ。
――…そこまで解っているのなら…次は大丈夫よね?…駄目…規制が掛かってこれ以上…
規制?なんだよそれ?
――……詳しくは言えない。言えないけど、貴方がこのゲームで勝った時に全てが解る…
またゲームって表現かよ?いや、それも規制ってヤツか?
だから俺は言ってやった。
俺がお前をこんなつまらんゲームとやらから解放してやる。
この女はどういう事情か、俺を助けようと無理をしている感がある。ならばそれに応えるのが礼儀だ。
俺は知らず知らずに拳を握り締めていた。それは決意の表れでもあった。
――ふん…
女は笑う。鼻で笑う。
――漸く調子に乗って来たじゃない?貴方らしいわ。その自惚れもね
言いながら頼もしそうに笑う。
―一年の冬を越え、二年に進んだ事は未だかつて三回しか無い。四度目を超えて私に辿り着きなさい
辿り着くさ。お前のその膨らみにな!!
指差す先は女の胸。
背中から抱き付かれた時の感触が蘇ったのだ。ちっぱいだったけど。
――ふ、ははは、はははははは!!いいわ、いいわよ。胸どころか全部貴方に捧げるわ!!
面白可笑しく笑う女…普通の人間の笑顔…
そしてこの笑顔…俺は知っている…
死んだ後、いや、夢の中で知っている訳じゃない。
それより先に、この笑顔を俺は見ている…!!
知らず知らずに拳を再び握り締めて、改めて決意を固める。
俺が助ける…のが…俺の責任…だ!!
何故か解らないが。そう思った。
そしてしっかり目を閉じて言う。
さぁ、戻してくれ。新しい未来への入り口へな。
――格好付けても無駄よ。貴方がダメダメなのは重々承知なんだから…でもまぁ…貴方ならやれるわ。頑張ってね………
固く閉じた目に、あの女の笑顔が映る。
だけどそれも一瞬、俺の意識が下へ下へと引っ張られていく……
次に再び目覚める時に、少しでもあの女の記憶を留めようとする…
また、その笑顔を見たいから俺は頑張れる………
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