一年の夏~005

 ………

 あの儘寝ちまったか…

 今の時間を確認する為にスマホを開いた。

「げ、4時?」

 随分と早起きしてしまったもんだ。

 まあ…せっかく早起きをしたのなら、少し纏めてみようか。

 懸念していた非通知着信も来ていない。

 頭痛は少し…寝汗もそんなでも無い。

 最初にあの女か出て来た時に比べると、かなりの軽傷だ。

 そして朧気ながらだが気付いた事。あの女、決して俺の敵じゃないって事。

 頭痛も受け入れてから激しさは消え、それに呼応するように、大量の寝汗も落ち着いている。

 ここで言う『受け入れる』とは、あの女の存在…と言うか、あの女が俺の傍に居る事を受け入れると言う意味だ。

 頭痛は信号と言うか合図と言うか…まぁ、まだよく解らないが、そんな感じだろう。

 問題は『何に対しての信号、合図か解らない』って事だ。

「おい、これで合っているか?」

 独り言のように呟くも、当然のように返事は来ない。

 恐らくだが、俺が寝ないと会話は出来ない。もしくは俺が寝ないと脳に入って来れない。此方もまだよく解らないが、多分そんな感じなのだろう。

 ふっと鼻孔に花の香りが過ぎる。

 やはり傍に居る…

 そう言えばパーツが足りないとか言っていたな…

 何のパーツが足りないのか?これもさっぱり意味が解らない。

 だが今日は何か違う。そんな予感がする。漠然とだが、そう思った。

 取り敢えず着替えよう。

 着替えついでに台所に行くか。

 今日は朋美が昼飯を奢ってくれるから、弁当は要らないとお袋に伝えきゃならないし。

 その昼飯も本当ならば美咲との時間なのだが、昨日の見間違い(あくまでも希望だが)を引き摺っている為に決めたようなもんだし。

 つか、美咲に聞いてみようか?

 仮に、もし仮に本当に浮気していたとしても、非常に非常に傷つくだろうが、俺が身を引けば済む話。

 美咲との関係が終わったとしても、また次に頑張ればいい。

 次に?

 美咲、いや、女子と付き合ったのはこれが初めてな筈だが、何だろう…

 もう何度も、何人とも付き合った事があるような…

 ズキン

 軽く頭が痛んだ。

 信号?合図?

 何かを思い出せば頭痛が走る?

 何かを思い出させようと、あの女が現れている?

 最初は馬鹿馬鹿しいと、妄想だと振り払っていたがまさしくこれが正解か?

 ならば解らない、辻褄が合わないまでも考えてみようか…

 考えが纏まって、俺は今度こそ着替をし台所に向かった。

 まだお袋は起きていない。弁当はいらないとメモし、俺はロードワークに出発した。


 ロードワーク時間が早かったために、登校も早かった。

 知り合いに誰にも会わずに登校とは、流石に朝早過ぎたか。

 美咲も朋美もヒロも、早起きして登校するキャラじゃないからな。

 そんな事を考えながら何気無しにBクラスを見ながら歩くと、席のド真てん中、瓶底メガネのような厚いレンズを掛けて、俯きながら座っている女子に気が付く。

 ショートボブの髪、だが前髪が瓶底メガネに隠れるように長い…

 …何か朝から陰気臭いな…だけど、どこかで会ったような…

 いつものデジャヴって訳でも無く、本当につい最近会ったような…

 まぁいいか。考える所はそこじゃない。頭痛も走らないし。

 そして自分の教室に着いてドアを開ける。

 既に登校していた同級生が俺を見た。しかし それも一瞬、全員が全員、目を逸らして顔を背ける。

 だから別に俺は狂暴な不良じゃねーんだから。普通に傷つく一般生徒なんだから。

 そんな訳で、傷つきながら自分の席に座る。

 鼻に付着しているのか、あの花の香りがした。

 何気無しに窓を見る。

 一瞬…まばたきした途端に消えたが、確かに長いストレートの髪の女が俺の視界の端に居た……!!

 勢い良く立ち上がり、周りを見る。

 同級生が驚きながら俺を見た。

 窓際に居た眼鏡の小太りと目が合う。赤坂君と言ったか。オタクっぽい風貌だ。直ぐに逸らされたけど。

 俺はそいつに向かって、飛び跳ねて近付いた。

 赤坂君は「な、なんだい緒方君…」と、やたら腰を引かせて発した。

「今、ここに女がいなかったか?」

「え?女子なら結構登校して来ているけど…」

「違う!!」

 叫んだ俺。ガクガク震え出した赤坂君。

「あ、悪い、脅かすつもりじゃなかったんだ…今ここにすげー髪長い女いなかったか?腰…いや、お尻あたりまで長いストレートの黒髪の女だ」

「い、いや~…僕は気付かなかったなぁ…」

 愛想笑いをしながら言う赤坂君。

 その近くに居た女子に目を向ける。すると会話が聞こえていたようで、フルフルと首を横に振った。

 気のせい?いや…居たんだ…

 多分俺にしか見えないんだあの女…

 やっぱり幽霊…?こんな朝っぱらから幽霊を見たのか…?

 呆然としている最中、ヒソヒソと聞こえて来た女子の声。

「ヤバいよ緒方君…やっぱ楠木さんと付き合っているから…」

「え?緒方君ボディガードじゃないの?」

「違う違う…楠木さんって、く…」

 女子の噂話が最後まで耳に入る前に、俺は後ろから肩を掴まれた。

 当然のように振り向くと、そこには滅多に見せない真剣で、しかも何か怒っているようなヒロが居た。

「なんだヒロ、早いな?」

「ちょっと付き合え」

 俺の挨拶(?)など無視して、腕を引っ張って歩き出すヒロ。

「なんだよ?何か怒ってんのか?」

「いいから来い!!」

 そう言ってヒロは階段を登り、2年の教室を通り過ぎ、更に3年の教室も通り過ぎ、屋上へ出る扉の前まで俺を引っ張って来た。

「なんだよ?屋上には入れないぞ?」

 ドアノブをガチャガチャと回してイライラしているヒロに言う。

「誰にも聞かれたくない話かよ?」

 俺の問い掛けを無視してドアを蹴り出す。

 息まで切らせて蹴り捲った結果、ボコボコに変化しちまった屋上のドアだが、やはり開く事は無く。

「だからさぁ、別に此処でもいいだろ?誰も来ないよこんな所」

 手のひらを後頭部に置いて、立った状態の儘呆れながら進言する。

「くそ!ムカつくぜ!」

 最後に思い切り蹴り、諦めて俺の方を向いた。

 開かなかったドアへの怒りもプラスし、さっきより激しく怒っている感のヒロ。

 そのヒロが怒りに任せたように簡単に放った。

「楠木と別れろ隆!!」

「…は?」

 いや、確かに似合ってないとか、利用されているだけとかは、陰口でよく聞いちゃいるが、まさかヒロが別れろと言うとは思わなかった。

 思わなかったので、これは聞き間違いだと解釈して「は?」と聞き直したんだが…

「楠木と別れろって言ったんだよ!!」

 やっぱり別れろと言ったのか。

「なんで?噂?お前が噂に振り回されるとは思えないが」

 美咲と付き合う事になった時、一番喜んでくれたのがヒロだ。それには深い事情があるんだけど、まあいいや。

「お前は須藤とくっつくと思ってたんだが。しかも同情で。まさか告られるとは奇跡はやはりあるんだなぁ!!」

 今思えば、いや、言われた時にも思ったが、とてつもなく酷い口振りではあったけど、ヒロだけは噂なんか無視して単純に喜んでくれた。それには深い事情が云々……

「俺は噂なんか信じねぇ」

 イライラして床に唾まで吐き捨てるヒロ。掃除する人の事も、ちょっとは考えろよな。

「俺が信じるのは見た事だけだ!!」

「昨日どこで何を見たんだ?」

 何となく解る。俺もやはり見たから。

「昨日楠木はお前じゃない、別の男と腕組んで歩いていたんだよ!その相手は西高の木村だったっつうから驚きだ!!」

 ……やっぱり昨日のアレは見間違いじゃなかったか…

 西高の木村とまでは知らなかったが。

 あの男も碌な噂を聞いた事が無い。

 ちょっと目が合った、肩が触れた程度で病院送りにしたり、因縁つけてボッコにしたりと。俺に負けず劣らずの狂犬ぶりだ。

 取り乱した様子も怒る訳でもなく、意外と冷静な俺に逆に不思議そうなヒロ。

「……もしかすると…お前何か知っていたのか?」

「知っていたっつーか、実際見たからな。相手が西高の木村とは思わなかったけどさ」

 だから聞いてみる事にした、と付け加えた。

「……何か拍子抜けだが…噂は兎も角、俺も実際見たからな。もしかすると浮気相手はお前の方かも知れないしな…」

 俺の方が浮気相手だと?

 それはつまり、西高の木村が本命だと言う事か?

「まさか。有り得ない。俺がモテないの、知ってんだろ?」

「いや、お前はモテない訳じゃないんだが…あ、そっか、知らねぇのか…」

 慌てて口を噤むヒロ。

 言ってはいけないと大袈裟に口を両手で覆いながら。

「なんだよ?言えよ」

「拳握り固めるなよ。こぇーじゃねーか」

 言われて両手を握り締めている事に気付く。

 見ていたから比較的動揺は無かったと言っても、やはり来る物はあったようだ。

 慌てて手をブラブラさせて緊張を解す。

「ぶん殴られるかと思ったぜ」

「お前なら普通に躱すだろうが。誤魔化さないで言えよ」

 暫く黙っていたヒロだが、仕方ないとばかりに口を開いた。

「実は中学の時に女子にお前との仲取り持ってくれ、協力してくれって言われていた事知ってた?」

 いや、何だその新情報?つか、その時言えよこの野郎。

「俺が頼まれただけで5人」

 ふざけんなよオイ!何だそのパラダイス!?

「俺だけじゃなく、当時お前と話せていた男連中は、みんな頼まれていたんだよ」

 つっても2、3人程度しか話せていた奴は居なかったけどな。友達や仲間じゃなく、話せていたってのがミソだぜ。

 いやいや、その前にだ。

「お前真面目に話せよ!」

 苛立ち、ちょっとだけ叫ぶ。

「いやいや、マジだって。お前自覚無いだけで、結構モテてたんだって。喧嘩強くて有名だったしな」

 頭は末期だったけどな、と余計な事まで付け加える。

 だが、俺は相変わらず信じる事はできない。

「当時女子に話し掛けられた事無かったぞ?目つき怖いと陰口叩かれていたのは聞いた事はあるが」

「ああ。確かに怖がられていた方が多いかもな。だけどお前絡まられていた連中、絶対助けていたろ?それを知っている女子には非常に高い評価を得ていたんだよ」

 まぁ、ボクシング習い始めてから、目に入った、絡まられている奴等は助けた、ってか、勝手に代わって相手していたな。

 だけど告られた事は愚か、女子に話し掛けられた事もマジで記憶に無いんだが…

「中学時代はやむを得ない事情で結局仲を取り持つ事は出来なかったんだが、あのクソ楠木と付き合ったって事はもういいみたいだからな。話しちまうけど……」

 ヒロがそこまで言うと予鈴が鳴った。

 早起きして学校に来て結局遅刻になったら洒落にならないが、超気になるから先を促した。

「で、何の理由だよ?」

「時間切れだな。昼休みにでも話してやるよ」

 言って俺より先に階段を降りるヒロ。

「気になるだろが!!言えよ!!」

「遅刻は内申に響くだろが」

「俺なんて夏休みも怪しいって言うのに!」

 虚しい突っ込みをしながら後に続く。

「お前、クソ楠木に聞くって言っていたが、丸め込まれるんじゃねぇぞ」

「何にせよ聞かなきゃ解らないだろ」

 取り敢えず、昨日の事は聞かなければならない。

 はっきり見た事を告げれば言い訳以上の事は話すだろう。腕組んでいたし。どのみち俺が身を退く事になりそうだけど。

 まぁ、美咲みたいな可愛い子が、俺みたいな腕っ節くらいしか取り柄が無い男と付き合う事自体が奇跡みたいなもんだ。

 俺はこの時、夏休みをきっぱりと諦めていた。

 夏休みは登校するしか無いな、と。


 昼休み。

 朋美との約束の昼飯を破り、ヒロから話を聞く事も後回しにして、いつも通りに中庭に来ていた。

 勿論美咲から聞く為だ。

 俺の中では何故かすんなりとお別れモードになっているが、それでも話は聞きたい。

 問題は何故お別れモードに悲しみを覚えないか、って事だ。

 初めての彼女、それも向こうの浮気が原因で別れを覚悟しているのに、何だこの悟っていた感は?

 慣れたって言うか知っていると言うか。

 デジャヴを感じる時には頭痛が発症するが、それも無い。

 受け入れれば後は良いって事なのか?合図やヒントじゃねーのか?

 いまいち良く解らないな…

 元々無い頭を激しく回転させるも、結論など導き出せる訳も無く。

 しかも結構な時間考えていたと言うのに、美咲の姿が見えない。

 スマホを開いて時間を確認すると…

「昼休み終わってしまうぞ」

 そんな時間になっていた。

 ヒロが先走って何かやってんじゃねーだろな?

 疑ったその時、美咲が頬を押さえながら俯いて現れた。

「どうしたんだ、そのほっぺた?」

 美咲が大袈裟に目を逸らし、いや、顔そのものを逸らし、全く表情が見えなくなり…

「これは…まぁ、うん。大丈夫」

 瞬間、あの頭痛が襲った。

 脳が脈打つあの感覚。

 どのタイミングで痛みが襲うのかやはり解らないが、痛みをこらえて更に訊ねる。

「昨日…見たんだよ…その…お前が他の男と腕組んで歩いているのを…」

 息が絶え絶えになる。痛みで息が切れるのか、それとも別の理由か解らないが…

「…そっか…見たんだ…」

 相変わらず顔を背けている美咲。全く表情が見えない。

「その…俺は…」

 何だか上手く言葉が出ない。

 凄まじい程に喉が渇いて、唾ですら出ていない。

「……脅されたの…」

「うん?」

「家まで来てね…『ここで暴れられたくねぇなら素直に付き合えよ』って」

 漸く俺の方を向いた美咲。

 へへ、と疲れた笑い方を無理やり作りながら。

「西高の木村って言ってね。何か結構有名な乱暴者でね。前々から煩く付き纏われていたんだけど、ずっと無視していたんだけど、昨日遂に行動に移されました」

 耳鳴りが酷い。だが、はっきりと伝わった。

「ゴメンね隆君。他の男の人と遊びに行っちゃった。理由はどうあれ、私って酷いね」

 意識が朦朧とするが、はっきりと伝わった。

 そうか…ヒロの勘違い…いや、誰だって勘違いするか。

 …………メ

 美咲が俺を裏切った訳じゃないんだな。

 …………ダ……メ

 西高の木村か。噂じゃ下手なチンピラよりタチが悪いって聞いたが…

  …………ダ……チ……メ

 さっきからうるせーなぁ…花の臭いも気に障る程撒き散らしやがってよぉ…

 …………ダ……チャ……メ

 俺は黙って美咲に背を向け、歩き出した。

「ど、どこ行くの?」

 声がいつも通り、いや、いつも聞くよりも『素』になっているようにも思える美咲の質問。それに答える。

「西高の木村ね。ぶち砕いて来るから心配するな」

 言った途端、美咲の表情が明るくなったような気がした。

 背を向けているので勿論表情は見えないが、何故か確信した…


――今回もか…


 そして…

 あの女が諦めたように俺の目の前で呟いた…

 勿論見えてなどいない。

 だが、何故が俺には解った。

 

 激しい頭痛、耳鳴りのみの聴覚、花の臭いしか嗅ぎ取れない嗅覚を強引に堪えながら、俺は西高生がたむろっている駅に着いた。

 俺の姿を見て驚いた様子の西高生だが、誰も近寄って来ない。

 西高は不良校として結構有名で、俺も余計な事に首を突っ込む性分な故、まぁ、その関係でやり合っている。一方的にぶん殴っているが正解だが。

 向こうからすれば憎き敵が乗り込んで来た形となり、問答無用で襲って来るのが当然と言えるが、この日は違った。

 他ならぬ俺自身が既に臨戦態勢だったからだ。

 触れたらぶち砕く。

 頭痛も相まって、頭にはそれしか浮かんでいなかった。

 右を向いて一睨み。

 ビクッと音が聞こえてくるように、あからさまに身構える西高生。

 今度は左を一睨みするとやはり同じ反応が返って来た。

 一番近くに居た小太りの男に更に近付く。

「な、何だよ?」

 あからさまに怯えて腰が引けていたので、そいつの学生服の襟を掴み、引き寄せて言った。

「木村ってのはどこに居る…?」

 相変わらず酷い耳鳴りだったが、小太りの男の示した場所は思いの外耳に届いた。

 先程の駅からそれ程離れていない喫茶店。

 外からは中の様子が伺えない硝子に早めに見切りを付け、ドアを普通に開ける。

 客が来たのに『いらっしゃい』の一言も無い、マスターらしき人を一瞥して店内を見渡す。

 席がそんなに無い薄暗い室内、そのテーブル席に三人の改造した学ランの西高生。

 そいつ等が来客の気配を察知してか、俺の方を向いた。

「木村ってのはどいつだ?悪いがお前等はみんな同じに見える」

 挑発でも何でも無い。本当に同じように見える。

 同じような改造した学ラン、同じようなリーゼント、同じような目つき。

 更に言うなら、申し訳無いが俺は木村の顔を知らない。有名らしいが会った事も無いし。

「あ?」

 立ち上がった男に問答無用で左ストレートを顔面に当てた。

 悲鳴を上げる間も無く、そいつは鼻と口から血を流し、膝をついて前のめりに倒れた。

「なんだテメェ!!いきな」

 耳鳴りでこれ以上聞き取る事が難しい。

 なので近くにあった椅子を持って思いっ切りぶっ叩いた。

 頑丈じゃない、安っぽい椅子は簡単に壊れたが、同時にそいつもぶっ倒れたので、まぁ良かった。

 椅子に座りこの状況に眉一つ動かさず、ただ睨み付けて、いや、見ていただけの最後に残った男に聞いた。こいつリーゼントじゃねぇのな。茶髪でワックスで後ろに固めた髪型。クシを通していない、手だけで後ろに流している髪型。西高にしては珍しい。

「木村ってのは?」

 そいつはマスターが電話をしようとし、受話器を取ったのをわざわざ止めた後、ゆっくりと立ち上がる。

「俺だ。テメェは緒方…だよな」

 黙って頷いて返す。

「喧嘩売りに来た訳か?尤も、この状況で話し合いをしに来たとか、間抜けな事は言わないだろうが」

 意外だった。

 噂では目が合った、肩が触れた程度で相手を病院送りする男な筈。

 わざわざ話し合いと言い出したのは、逆に俺に言いたい事でもあったのだろうか?

 頭痛で上手く思考が回らないので、あまり深くは考えられないので、それ以上考えるのをやめた。

「大方楠木の事だろうが、あれはお前が思っているような女じゃ……ぐ!?」

 何か言っていたが、生憎と耳鳴りであまり聞こえない。

 だが左のショートフックがリバーにめり込んだ感覚だけは、拳を通じて伝わった。

 それでも膝を付かずに睨み返すとは、やはりと言うか流石と言うか。

 返す刀で右のフック。簡単に木村の首が左に回る。

 ここで初めて膝を付いた木村。

「噂通りに問答無用かよ……!!」

 右フックを喰らっても、その睨み付ける瞳には変化が無い。

 逆に木村は、さっき壊してしまった椅子の脚を、一本持って立ち上がった。

「くたばれや緒方!!」

 大きいモーションでそれを振り翳すが隙だらけだ。

 その椅子の脚を蹴り上げて武器を無効にする。

「ボクシングじゃねぇのか!?」

 目には目を、椅子には椅子だ。

 再び適当に椅子を持ち、それを薙ぎ払うように振るう。

 それを避けて間合いを遠くに取る木村。

 木村は俺をボクシングだけと思っていたらしく、虚を付かれたように警戒感を露わにした。

 虚を突かれた事は理解できるけど、俺の場合ボクシングは手段だ。

 まぁ、どんなに警戒しようが俺のやる事は一つ。

「俺はお前をぶち砕くだけだ」

 無表情で持っていた椅子を投げ付けた俺。

 木村がそれを迎え撃つように、蹴りで押し返した。

 蹴り返された椅子を避けると、椅子は硝子を突き破り外へ飛び出した。

 通行人に通報されてしまうなぁ。早い所ケリ付けなきゃ。

 痛む頭でボンヤリ考えていると、木村が再び椅子を投げ付けて来る。

 当然避けるが、同時に木村も接近して来た。

 近寄ってくれるのなら有り難い。

 左ストレート。だが、木村が腕をクロスさせて突っ込んで来たので、せいぜいガードを下げる程度にしかダメージは与えられない。

「ぐっあ!!」

 思いの外痛かったのか、身体を沈めた木村。

 だが、それはフェイントだった。

 沈めたと同時に開脚し、腕を軸に足払い。見事俺の踵を掬う。

 体調絶不調とは言え、俺を転ばせるとは、なかなかやる。

 視界が地面いっぱいになり、背中に痛みが走る。

 どうやら背中、と言うか、背面を何度も踏みつけられているようだ。

 良かった。頭痛が酷くて。背中の痛みなんか感じ無い程頭痛が酷くて良かった。

 そんな事を考えながら、腕の力で起き上がる。

 地面との間に隙間が出来た。

「う!」

 俺は脇腹に蹴りを入れられ、再び伏した。

「うおおおおお!!」

 絶叫して蹴りの乱打。

 あーうぜー。俺はお前と違って鍛えてんだよ。腹筋も背筋もな。

 そんな軽い蹴りじゃ効かないぜ。

 と、強がりを言ってみる。

 顔を上げると、顔面に蹴り。

「ぐ!」

 少し効いたっ!

 つか、結構ヤバいかもな。感覚が色々と麻痺している。特に痛覚か。

 絶対『ぐ!』程度のダメージじゃないだろうに。

 他人事のように感想を述べる俺。

 つか、何か言おうとしても口の中が切れて上手く喋れない。

 元々酷い頭痛だったが、今は気持ち良くなり、ぼーっとしてくる。

 越えたか。

 越えたな。

 ハイになったんだ。

 スパーして、いいパンチを貰うとたまにあるんだよ。痛みが消えて酷く冷静になる瞬間が。

 再び顔を上げると、案の定蹴りが飛んできた。

 それを身体を捩って避ける。

「うわ!」

 結構な勢いで蹴りを放ったようで、木村がバランスを崩した。

 その僅かな隙を付き、立ち上がって右ストレート。

「がっは!!!」

 血が宙を舞う。

 顎が跳ね上がり、がら空き、無防備。

 その真正面から再び右。

 骨が軋む手応えが拳を通じた。

 派手に血飛沫が舞った。

 鼻折れたかな?解らないから取り敢えずもう一発ぶち込む。

 床に血と共に何かがコロンと落ちた。

 歯?奥歯か?

「があああ!!!」

 悲鳴を上げる木村。

 耳鳴りで殆ど聞こえないが、悲鳴だけはやけに通りやがる。

 倒れ行く木村の胸座を掴み上げ、腕力のみで顔に近付ける。

「美咲にこれ以上纏わり付くな」

「く、楠木はお前が思っている女じゃ…ぐふ!!」

 俺の忠告に対して返答が違う。だから頭突きで黙らせた。

「もう一度言うぞ。美咲に纏わり付くな」

「…解ったよ…そろそろ潮時とも思っていたしな…」

 何か捨て台詞を吐いたようだが、約束は取り付けた。

 掴んでいた胸座を離すと、そのまま床に膝を付く。

「ぐくっ…」

 用事は済んだので長居は無用だ。

 そう思ってドアに手をかけたその時。

「緒方ぁ…言っておくが、俺は楠木の事は何とも思ってねぇ…」

 捨て台詞にしちゃ少しおかしい。

 俺は振り返り、木村に続きを促した。

 そんな俺を睨み付ける訳でも無く、恨み言を言う訳でも無く、木村は続けた。

「俺は女にゃ困ってねぇんだ…そこは勘違い、いや、騙されんな」

 意味がさっぱり解らない。

「テメェには借りができた。この借りはキッチリつける。だからテメェ…踊らされてくたばるんじゃねぇぞ…」

「意味解んねぇ。俺はお前が美咲に纏わり付かなきゃどうでもいい」

 木村は力無く笑う。

「今に解る。どうせ聞く耳なんざ持って無ぇんだろうからな。テメェは俺がぶっ殺さなきゃ気が済まねぇ。だから誰にもやられんじゃねぇぞ…」

 ここでようやく睨み付ける木村。だがこいつ…まあいいや。俺はどう転んでもこの手の奴等が大っ嫌いだし。

「聞く耳持たない?悪いが、俺は中学の時から、お前等みたいな人種にずっとやられてきたんだよ。聞く耳持って無いのはお前等の方だってのは、経験則で知っているんだ」

 俺が何を言おうが全然取り合わずに、殴る蹴るしてきたのはお前等みたいな人種だろうが。

 だから俺も聞かなくなっただけだ。

 問答無用とよく言われるが、お前等みたいな人種に話し合いが通じ無いのを知っているからだ。

 だから俺はボクシングを始めたんだ。

 あんな事、二度と御免だからな。

「勿論中にはちゃんと話せる奴が居る事くらいは知っているさ。だけど話せる奴を捜す手間をわざわざ掛ける必要あるのかよ?俺はお前等みたいな奴と拘わったら、ぶち砕くだけなんだよ」

 だから、と息を吐いて続ける。睨みを利かせながら。

「借りとか仕返しとかよ、ぶち砕かれたく無ければ考えるんじゃねぇよ」

 まさに捨て台詞を吐き、俺は木村と目を合わる事無く、喫茶店から悠々と出て行った。

 木村が何か言っていたが、これ以上は耳鳴りで聞き取れない。無理だ。


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