一年の夏~001

「あっちいな…」

 プールに反射した太陽の光が、俺を容赦無く照りつける。

 時折水飛沫が上がると、太陽の光に反射して虹ができた。

 多少目を奪われたが、こんな所で立ち往生している場合じゃない。

 水泳部が気持ち良さそうにクロールなんぞをしている様を横目に、その場を足早に立ち去った。

「スク水でヤバい事になったらかなわんからな…」

 微妙に前屈みになりながら、校門を目指して小走りする。

 ただでさえ暑い真夏の真昼に、小走りなんぞ正気の沙汰じゃないな、と一人で突っ込んでみる。

 相手がいない突っ込みは虚しい。

 だが、俺にはちゃんと相手がいるから全然寂しくない。

 その相手が校門の前で俺を発見して、思い切り手を振った。

 その拍子に多少癖のある肩まで広がった髪がパタパタと舞う。

 ああ、やっぱり今日も待っていてくれていたんだ。

 俺は綻ぶ顔を無理やり硬直させて、小走りをやめて歩いた。

「おーい!見ていたんだからなぁ!今更だぞー!!」

 大きな瞳が笑った途端に瞑ってしまう。

 あ~…マジ可愛いなぁ…

 照れくさいやらくすぐったいやら、整理がつかない心に心地良さを覚えながら、俺は彼女の元に再び小走りで向かった。

「格好つけてないで、早く来ないと先行っちゃうぞ~」

 そう言いながら俺の方に駆け寄ってくる彼女…

 そして俺のホントの目の前で立ち止まり、再び笑った。

 思わず抱き寄せたくなる衝動を堪えて、俺も笑った。

「楠木、先帰っても良かったのに」

「また楠木?せっかく付き合ったんだから名前で呼んで欲しいなー」

 むくれる楠木…いや、美咲。

 楠木美咲くすのきみさき。ある夏の日、弁当を広げて飯を食おうとした俺に、いきなり告白してきた別のクラスの女子だ。

 俺の学校では赤点を取った生徒は夏休みに補習を受けるのだが、その前に追試と言う、恩情制度がある。

 その追試に合格すれば補習免除となるのだが、その補習免除の為に、希望者には追試の補習と言う、先生方の善意の補習がある。まあ、どこの学校も似たような事はやっていると思うけど。

 今、俺は夏休みの補習、いや、追試クリアの為に、善意補習を受けている最中だ。

 美咲と…初めての彼女と、初めての夏を過ごす為、俺は万が一にも補習を受ける事はできない。

 もしも美咲が告ってくれなかったら…俺は夏休み、補習の為に学校に通う事もいとわない程、勉強なんかしなかっただろう。

「ちょっと?聞いてる?もしもーし?」

 回想は思考を遠い世界へと追いやる。声を掛けられ、戻ってきた時に、美咲が俺の真正面で、手をパタパタと振っていた。

 我に返り、取り繕うように返事をした。

「お、おお…き、聞いている…ぞ」

 そんな俺に、心配そうに顔を覗き込む美咲。

「…もしかして緒方君…疲れてる?」

 顔が熱くなるのを自覚し、慌てて上半身だけ退けた。

「おま、俺には名前で呼んでって言ったのに、自分は苗字かよ?」

「ん?言ったじゃん?隆君ってさ」

 可愛くペロッと舌を出して誤魔化した。

 緒方隆おがたたかし。それが俺の名前。

 顔もルックスも10人並、いやそれ以下。頭は下から数えた方が早いと自負する、極々普通の高校一年生だ。

 小さい頃から一重の目蓋が喧嘩売っているように見えると言われ、街中で不良に 絡まれると言う不運さも持ち合わせている。

 そんな連中にしょっちゅう絡まれていたから、護身術でボクシングをかじっている。おかげで喧嘩は強い部類に入るようだ。

 喧嘩が強いとか自慢する事じゃないが、これしか取り柄が無いから、申し訳無いが長所にさせて貰う。

「そんな事よりさ、夏休み潰れるって事無いよね?」

 いきなり切り出されて美咲を見ると、咎めるような視線を俺に浴びせていた。

 痛い!とてつもなく痛い視線だ!!

 喧嘩で殴られるより遥かにダメージを喰らう!!

「だ、大丈夫だよ。補習の補習までやってんだから」

 痛い視線を掻い潜り、現状を話す。

 美咲は暫く俺をじーっと見てから、軽い溜め息をついた。

「だよね~。せっかく付き合えたんだもん。夏休み中ずっと一緒にいたいもんねー」

 夏休み中ずっと一緒に…いたい!?

 それはつまり、サヨナラチェリーのチャンスが沢山あると言う事じゃないか!

 バクバクと高鳴る心臓の鼓動。

 つい最近付き合い始めたばかりなのに、飛躍しすぎじゃないか!?

「プールでしょー?海でしょー?夏祭りでしょー?それからそれからぁ~……」

 顎に人差し指を当てて一生懸命考える仕種……

 ああっ!邪な思考の俺を許してくれ美咲っっっ!!

 普通に純粋に、ただ一緒にいたいと願っているお前に対しての俺の思考をっ!!

 つか、その仕種、マジ可愛い…思わず生唾を飲み込んでしまう。

 その瞬間、美咲がぐるんと首を回して俺の方を向く。

「……今エッチな事考えてなかった?」

 …生唾を飲み込んだ音が聞こえたんだ…

 ヤバいと思い、無理やり話を変える事にする。

「あ、あのさ、俺のどこが気に入った訳?」

 …話題を変える為とは言え、我ながら情けない事を聞いたもんだ。

 だけど気になるっちゃー気になるし。

 美咲に視線を投げると、美咲は少し困ったような表情をして考えていた。

 ……………ん?

 あれ…?

 この場面…どこかで見たような…

 確か美咲は…

 好きになったんだから仕方無い…

 確かそんな事を言って、俺に微笑んだんだ。

 ぎこちない笑顔…無理やり作ったような、自然じゃない笑顔を俺に向けながら…

 頭の奥がチリチリするおかしな感覚…

 その時美咲から返答が来た。

「好きになったんだから仕方無いじゃん?」

 ドキンと一つ大きく高鳴る心臓の音。それに呼応するように美咲に視線を戻す。

 美咲は作ったような、不自然な笑顔を俺に向けていた。

 俺は…何で知っていたんだろう…?

 頭の奥底から、何か引っ張り出せと命令されているような感覚…

「どうしたの?」

 不思議そうに首を傾げて、俺を見ている美咲…

「い、いや、何でも…」

 そう答えた瞬間、おかしな感覚が飛散するように消えた。

「変なの~」

 笑顔を向けて茶化す美咲。

「そりゃ勉強漬けだし変にもなるよ」

 作ったような笑顔か確認するように、なるべく顔を見るように話した。

「しっかり頑張ってよね?夏休みいっぱい遊ぶんだから!!」

 今も笑顔な美咲だが…それは本当か?

 何でそう感じたのかすら解らない。単なる思い過ごしか気のせいか。

 軽く頭を振りながら、俺も笑い返した。

 二人並んで校門から住宅街へと少し歩く。

 暫く進むと、十字路に差し掛かった。

 右に曲がれば美咲の家の方向。俺の家はもう少し直線を歩くと到着だ。

「じゃ、また明日ね。ちゃんと勉強しなさいよ?」

「解っているよ。またな」

 お互いに手を振る。姿が見えなくなるまで繰り返す、いつもの行動。

 途中、何回も振り返っては手を振り合う。

 姿が見えなくなった時、気持ち静まった心と、気持ち下がった頭を自覚しながら家へと歩く。

 暫く進むと、右手に駄菓子屋が目に入る。

 もう少し歩いたら俺の家だ。

 駄菓子屋を目で追いながら通り過ぎると、不意に声を掛けられた。

「隆、お勉強終わったのかい?」

 声の方向を向くと、長いポニーテールをフラフラ揺らしながら、悪戯な笑みを浮かべている女子が居た。

「なんだ、朋美か」

 声を掛けてきたのは、同じ学校の須藤朋美すどうともみ

 家が近所で、ちっちゃい頃はよく遊んだもんだ。

 今は少し疎遠になっているが、姿を見たら話し掛けたり話し掛けられたり。

「何だとは何だよ?夏休みに学校に行かないか、心配しているってのに」

 嘘臭くほっぺたを膨らませる朋美。少し吊り目の瞳を、更に吊り上げる所なんか、確信犯的だ。

 こいつも可愛くて結構人気がある。内緒だが、俺の初恋の相手でもあった。

 俺は何の気なしに、ボケーッと朋美を見た。

 朋美が真っ赤になりながら自分の身体を隠すように自らを抱き締める。

「そのエッチな視線、向けなんなよ!」

 頬を赤らめて俺を睨み付ける朋美…

「朋美は嘘臭いけど違うんだよなぁ…」

 さっきの美咲の作った笑顔と、今の真っ赤な朋美の顔を比較すると、何故かそう思った。

「はあ?嘘臭いけど違うって、意味解んないんだけど?」 

 困惑する朋美だが、解らなくて当たり前だ。俺も自分が何を言っているのか、解らないんだから。

「いや、こっちの話だよ」

 頭を掻きながら目を逸らす。

「…楠木さんの悩み事?」

「悩みって訳じゃないけどな」

 美咲との仲は告られた時に、一気に学校中に広がった。誰かが故意に流したように、不自然にだ。

 そんな事を考えていると、朋美が意を決したように、眉尻を釣り上げて発した。

「…隆、あのね、本当は言いたく無いんだけど…」

 本当に言い難そうに目を伏せて、身をくねらせる朋美。

 解っている。散々言われたんだ。

 お前には勿体無いからやめた方がいいって。実際俺もそう思うから反論できないし。

 朋美も似たような事言うんだろう。

 言われ慣れて、構える事すらしなくなった俺に対して、朋美は全く異なる発言をした。

「楠木さんってさ…人気あるじゃん?当然他校の男子にもさ…噂、あくまでも噂だけどね、他校の男子騙してお金取ったり、プレゼント貰ったりしているんだって…」

 俺は一つ溜め息を付き、目を伏せた。

 それは俺も聞いた事がある噂…

 男子に人気がある美咲に、やっかんだ女子が流した、くだらない噂だろう。

 そう思い、スルーしていたのだが、まさか朋美がこの話を持ち出すとは思わなかった。

 けど、悪い噂ってのは良い噂よりも広まる。俺なんか悪い噂しか流れていないけど。

「ああ、聞いた事あるよ。でもそれが何?って感じ」

 くだらない噂なんか知った事じゃない。露骨に嫌そうな顔をしてみせる。

「だから…噂だよ…私が言いたいのは巻き込まれないで、って事…」

 言って失敗したように俯いてしまった朋美。

 一応心配してくれての警告と受け止めた。そう考えると妙に嬉しくなった。

「俺はボクシングやってんだぜ。そこいらのチンピラなんか目じゃねーよ」

 肩をポンと叩くと、緊張したように身を固める。

 そして微かに震え、頬の赤みを更に増した。

「解っている…それは私が一番解っている事だけど…あー!もういいや!じゃあね!!」

 いきなり背を向けて走り出す朋美。あっという間に姿が小さくなる。

 俺は呆気に取られて、茫然と見送るしかなかった。

「な、何なんだ一体…」

 脱力感を感じて歩き出す。家はもう目の前。勉強しなきゃな。いや、ちょっと寝たいかな?

 ちょっと…ちょっとだけ寝ようかな…

 そんな事を考えなから、家のドアを開けた。

 俺の両親は共働き。帰っても誰もいない。家の中は静まり返っていた。

「ただいまぁ~…」

 誰もいないと知りつつ帰宅の挨拶。そのまま部屋に入ると、そよ風で窓のカーテンが小さく舞っている。

 机に鞄を置き…その儘教科書を開く…事はせず、ベッドに倒れるように飛び込んだ。

「頭痛ぇ…」

 勉強のし過ぎか、単なる風邪か…動きたくすら無い倦怠感が襲う。

 少しだけ休もう…少し休んで勉強しよう。

 そう思いながら、俺は目を瞑った……

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