五、果てなき旅路

「ごめんな、急に押しかけて。二人に電話したんだがどっちも繋がらなくて、居ても立ってもいられなくてさ」

 パイプ椅子にどっかりと腰かけ、本嶋さんはまずそう切り出した。その言葉で、そう言えば着信履歴を見ようとスマホを探していたことを思い出す。

「すいません、マナーモードにしてたから気付かなくて」

「俺も、ゼミの教授と話してたので出られなかったんです。一度折り返したんですが、繋がらなくて」

「悪い、その時はもう、電車に乗ってたんだ。もう直接行った方が早いかと思ってな。この時期ならきっと、どちらかは学校にいるだろうし」

 ビンゴだったな、と少しだけ笑って、机の上で両手を組む。

「……あのな。昨日、やっと榊さんの実家に連絡が取れたんだ。榊さん、大学中退とほぼ同時に一家で宮崎へ引っ越したらしくてな。年賀状のやり取りをしてた先輩が転居先を知ってたんだよ。で、ダメもとで電話してみたわけ」

 電話に出たのは母親と思しき女性だったという。まず大学の後輩であることを説明して、榊さんの漫研時代の話を聞きたがっている人間がいる、と話したところ、電話口の女性は急に声を詰まらせて――。

「入院してるって。しかも危篤状態だって言われたんだ」

 入院先を教えてはくれたが、すぐに駆けつけられるような距離ではない。

「……榊さん、単位が足りないから辞めるって言ってたけど、本当は持病が悪化して、入院しないとまずい状態だったらしい」

 世界一周旅行なんて夢のまた夢だった。病室のベッドの上で、ただひたすら窓の外を眺めて過ごす毎日。ここ一年ほどは病状が悪化して、眠っている時間の方が長くなっていたという。

「大学時代の夢をよく見るんだって、家族によく話してたらしい。ゲームをやったり、漫画を読んだり。みんなで必死に原稿を仕上げたり、カラオケに行ったりさ」

 ああ、それは。

 それはもしかして、夢ではなくて――。

 思わず顔を見合わせる私と今野さんを横目に、本嶋さんは照れくさそうに頭を掻く。

「実はオレさ、しょっちゅうノックするの忘れて、あんな風に注意されてたんだ」

 懐かしいな。そう笑おうとして失敗した本嶋さんは、参ったねと目尻を擦って、窓の外へと視線を移した。

「……あの人、普段から絶対「さよなら」って言わないんだよ。大学を辞めた日もさ、辞めるとも何とも言わないで、ただ笑って手を振って、それっきりで」

 ああ、目に浮かぶようだ。飄々と、穏やかな笑みを浮かべて。「さよなら」でもなく「またね」でもなく。未来を決めつけずに、風のように去っていく。

「みんなによろしく、だなんてさ、簡単に言ってくれるよなあ。あの頃の面子メンツに連絡を取るのも大変だってのに」

 いやあ困った困った、と言いながらも、その顔はどこか楽しげで。

「それじゃ、オレはこれで。急に押しかけてすまんかった。また後日、続報があったら連絡するよ」

「は、はい! ありがとうございました!」

 慌てて立ち上がり、頭を下げる。

「いやいや、こちらこそ。今日来てよかった。二人のおかげであの人に会えたんだ。良かったら今度、飯でも奢らせてくれや」

 じゃあまた、と手を振って、扉の向こうへ消えていく本嶋さん。

 足音が、どんどん遠ざかっていく。廊下を過ぎ、足早に階段を下って――。ああ、もう聞こえなくなってしまう。もっと意識を集中して、耳を澄まさないと――。

「吉川」

 いや、違う。扉から目を離すのが怖かった。

「おい、吉川」

 いや、それも違う。振り向くのが怖かった。

 二人しかいない部室を、いつも通りの窓辺を、認めてしまうのが、怖くて。

「吉川さんってば」

 ……あれ?

 おかしいな、と思った次の瞬間、ぐいと肩を掴まれて、強制的に振り向かされる。

「どうしたの? 具合でも悪くなった?」

 心配そうに見つめてくる、二対の瞳。いや、よく見れば片方は、心配というより諦観に近い。

「気持ちは分かるが現実を見ろ」

「……少しは感動に浸らせてくれませんか、今野さん」

「それはこいつに言ってくれ」

 ひょい、と隣の人物を指さし、やれやれと肩をすくめる。

 指名された方はといえば、どこか気恥ずかしそうに笑いながら、ひらひらと手を振っていた。

「ボク、消えてないから」

「なんで!?」

 我ながら酷いと思ったけれど、ここは言わせてもらう。

「だって、さっきまでどこにも!」

「いやほら、本嶋くんが来たから、遠慮した方がいいかなって。同じ顔が二つ並んでたら、さすがに困惑するでしょ、彼」

「確かにそうですけど、だからって――!」

 タイミングが悪すぎだ。いや、良かったのかもしれないけれど。

 やり場のない怒りと悲しみと喜びと、とにかくごちゃまぜの感情を持て余して地団駄を踏む私に、今野さんが「どうどう」と馬でも諌めるようなジェスチャーをしてくるのが、これまた苛立たしい。

「あー、もう! 結局コンノさんは何者なんですか! 榊さんとはどういう関係なんですか!」

 思わず全力で叫んでしまったら、コンノさんはぱちぱちと目を瞬かせて、そしてふんわりと笑った。

「うん。やっと分かったよ。さっき、彼に返したからかな」

 窓際へ移動し、今は見えない『本体』の真下に立って、コンノさんはまるで蝶が翅を広げるように、ふんわりと両手を広げる。その体が一瞬だけ燐光を帯びたかと思えば、次の瞬間には姿が変わっていた。

 白い狩衣を纏い、烏帽子の代わりに白狐の面を斜めに被って、灰色がかった前髪の下からは金色の瞳がきらりと光る。

 ああ、これが――これこそが、コンノさんの本当の姿なのか。

「ボクは――彼が旅行先で買ってきてこの部室に置いて行ったお土産の狐面。その、付喪神。それで合ってるんだ。大まかなところは」

 違っていたのは、その在り方。

「本来なら、作られてから日が浅い物品からは、付喪神は生まれない。そこに蓄積された『思い』の量が足りなさすぎるんだ。だけど『彼』の思い――心残り、とも言えるかな――それが、この場所に残っていた。それらが集まって、狐面を核として生まれたのが、ボクなんだ」

「なるほど、空間に染みついた思い、ってやつか。よく映画とか漫画で悪霊化してるやつだな」

 腑に落ちたとばかりに頷いている今野さんだけど、もうちょっと言い方ってものがあるんじゃないだろうか。

 コンノさんもそう思ったようで、端正な顔を引きつらせている。

「酷い言われようだなあ。でもまあ、そんなものかな。ちょっと違うのは、本人とリンクしてた部分があるってことかもね。彼はボクを通して君達を見ていた。ボクは彼を通して、彼の記憶を遡っていた。恐らくは、彼が眠っている間だけ、ボクらは深く繋がっていたんだ」

 だから、どこまでが自分の記憶で、どこまでが夢なのか、お互いによく分からなかった。そういうことなのか。

「それじゃあ……榊さんは……」

 じゃあね、と手を振って、朗らかに去っていった『彼』。まるで部活を終えて帰宅する時のように、何一つ気負うことなく。

「うん。今度こそ本当に、旅に出たんだ。世界一周――それどころか宇宙一周の旅かもね。でも、その前にわざわざ訪ねて来たのは、ボクをここに残すためだったんじゃないかな」

 忘れ物を取りに来た、と彼は言った。ここに残した思い出。記憶。それらはきっと――未練と呼ばれるもの。彼を引き留めるための、たくさんの『思い』の束。

「彼が言ってたでしょ。ボクがそれに囚われる必要はないって。確かにボクは彼の思いから生まれた。だけど、彼とボクは別物だ。だからボクは、今度こそボクの意思で、ここに在り続けるよ。可能な限り、ずっとね」

 ぱちり、と片目を瞑り、えへへと笑う。

「だって、プロデビューを目指すヨシくんのアシスタント業を投げ出すわけにはいかないもんねえ」

 その時の今野さんの顔を、私はきっと一生忘れないだろう。

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