六、未来

 いつものポーカーフェイスが崩れた瞬間、そこに現れたのは、焦りと驚きと怒りと、あとはなんだろう――羞恥?

 色々と入り混ざって、何とも言い難い複雑な表情を浮かべた今野さんは、何かを言いかけてやめる、を三回ほど繰り返した後、地獄の底から響いてくるような呻き声を漏らして、そして――何故か私に頭を下げた。

「黙ってて悪かった」

「へっ? あ、いえ……」

 何で私に謝るんだろう? そして、なぜ私は今、ホッとしているのだろう?

「もっと話が具体的になったから、改めて伝えるつもりだった」

「ちなみにボクは、さっさと教えて手伝ってもらえばいいのにって何度も言いましたー」

 肩に腕を回して物理的に絡んでくるコンノさんを「うるさい」と押しのけて、鞄の中から例の原稿の束を引っ張り出す。

「この間の冬コミで出した部誌を、漫画雑誌の編集さんが買っていったらしくて、奥付のメールアドレス宛てにメールが来たって連絡をもらってな。一月の終わりに、編集部へ行って原稿を見てもらったんだ」

「ボクも連れていかれたんだよ。部室に来たと思ったら、いきなり鞄に突っ込まれてさ。ひどくない? しかも実体化はするなって言われて、ひたすら鞄の中で話を聞いてるだけでさー」

 珍しいことをしたものだ。あれほど『自分が狐面など持ち歩いたら職質された時に完全アウト』だと言っていたのに。

「そこで色々とアドバイスをもらった後、新人賞に応募することを勧められた。入賞すれば、また先が見える。勿論、俺よりうまい人はいくらでもいる。絶対にプロになれるという確証なんてどこにもない。それでも、俺は――」

 原稿に視線を落とし、大きく深呼吸して。そしてもう一度顔を上げた今野さんは、今までに見たことのない、決意に満ちた顔をしていた。

「俺は、これからもずっと漫画を描き続けたい。もっと描きたいものがある。卒業したらそれでおしまいなんて嫌だ。だから趣味で描き続けるつもりではいた。でも、折角のチャンスを無駄にする気もない。だから――チャレンジすることにした」

 それは私への説明というよりも、自分自身への決意表明のようだった。

 きっと今野さんの中にも、たくさんの迷いがあったのだろう。だからこそ、心が固まるまで言わなかったのだと、今なら分かる。

「応援します! あっ、お手伝いも、もちろんします! だって私も、今野さんの漫画を、もっと読みたいから」

 今野さんなら絶対プロになれますよ、なんていい加減なことは言えないし、有用なアドバイスなんて出来るわけもない。

 だけど、原稿を手伝ったり、感想を伝えることなら、私にも出来る。そう、これまでのように。これからもずっと。

「助かる。よろしく頼む」

 深々と頭を下げられて、大慌てで「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げる。……これではまるで、お見合いのようではないか。

「ほらー、だから言ったじゃない。早く言っちゃえって。締切も近いんだしさあ。アシスタントがボク一人じゃ絶対に間に合わないって」

 軽い口調で茶化してくるコンノさんに、今野さんはいつになく険しい表情で、ぼそりと呟く。

「アシスタントじゃないだろう」

「ええっ? 違ったの!? だって、ベタ塗ったりカケアミ入れたりしてるじゃない」

 驚きを隠せないでいるコンノさんに、やれやれと頭を振って、今野さんは仏頂面で――いや、これは多分照れくさいのだ――こう続けた。

「共同制作者だ。だから、このペンネームなんだ」

 指し示された原稿の束、読み切り短編の扉絵に記されているのは、いつも通り「コンノ」の文字。そう、それは今野さんが一年生の時から使っているペンネームだと聞いた。考えるのが面倒だから本名にした、とだけ聞いていたのに、そんなの初耳だ。

「そうだったの!? ボク、ただのアシじゃなかったんだ?」

 金色の目を限界まで見開いて、今野さんと原稿とを見比べているコンノさん。

「ただのアシスタントなら、わざわざ打ち合わせに連れていったりしない。一緒に話を聞いてほしかったんだ」

 あれだけ狐面を持ち歩くことを拒否していた今野さんが、リスクを冒してまで連れていったのだ。ただ「一人じゃ不安だから」なんて理由である訳もなかった。

「最初からずっと、二人で作ってきたんだ。プロットから台詞回し、扉絵の構図だって、お前の意見やアイディアが入ってる。これは俺一人で描いたものじゃないし、俺はきっと、一人じゃ描ききれないんだ。だから――」

 急に黙り込んで、何かを考えていた今野さんは、わざとらしい咳払いをして、おもむろに口を開いた。

「コンノ。俺とお前で、漫画を描こう」

 差し出された右手を迷いなく握りしめて、コンノさんは嬉しそうに笑う。

「初めて名前を呼んでくれたね……なんて、ベタな恋愛漫画みたいな台詞を吐かせないでよねー」

「勝手に吐いておいて何を言う」

「あと、吉川さんの存在も忘れないでよね。彼女がいなかったらきっと、こんな展開にはなってないんだよ」

 急に話の矛先がこっちに向けられたものだから、持っていた紙パックを握りつぶしそうになった。

「ええっ? なんで私が?」

 ストローを刺していなかったのは幸いだった。危うく机の上をジュースまみれにするところだった。

「だって、今までプロデビューを勧められても断ってた理由って、『俺の漫画は要するに自己満足ですから』だったんだよ」

 中島さんが聞いたら激昂しそうな台詞だ。どんな作品だって自己満足から始まるようなものだけど、それであれだけのクオリティーを出されたら、他の創作者の立つ瀬がない。

「だ、だって、他の部員からも大絶賛だし、本嶋さんだって毎号楽しみにしてるって言ってるのに……!」

「ほら、ヨシくんはあんまり部に出入りしてないから、読者の反応をダイレクトに受け取る機会があんましなかったんだよね。あとは、この通り取っつきにくいタイプだから、直に感想を伝える度胸のある人間が少ないっていうのもあるんだと思うけど」

「取っつきにくくて悪かったな」

 ぷい、とそっぽを向く今野さん。そう、実は結構お茶目だし、気さくな人なのだけど、一見すると無愛想で無口で、しかも運動部員に間違われるような体躯だ。威圧感を感じるのは致し方ない。……新入部員にはよーく言い聞かせておかないと。

「ボクがいくら評判いいよって言っても聞いてくれなかったのに、吉川さんが原稿を手伝ってくれるようになってから、いわゆる読者の反応ってやつ? それがリアルタイムで見られるようになって、それでヨシくん、随分前向きになったと思うんだ。前より部室に来るようになったし、何より感情表現が豊かになったよね。それが作品にも顕著に表れてる」

 なぜだろう、コンノさんがどんどん笑顔になる一方で、今野さんはどんどんと苦虫を噛み潰したような顔になっていく。

「それに、本当は実家に戻って就職するつもりだったのを、こっちでの就職に変えたのも、漫画のためっていうより――待ってギブ、ギブ!」

 無言でヘッドロックをかけ、問答無用でコンノさんを黙らせた今野さんは、技を緩めることなく、しかしこちらを見ようとしないまま、なんだその、と歯切れの悪い言葉を紡ぐ。

「いきなりプロデビューできるわけもないから、就活は平行して続ける。しばらくは会社勤めをしながら描くことになるだろうが、主だった出版社は都内に集中してるし、急にデジタル移行できるわけじゃないから、頻繁にやり取りするためには地元に戻らない方がいいと思ったんだ」

 なるほど、実に今野さんらしい、堅実な選択だと思う。

「あとは――俺もそうだが、こいつがここにいられるのもあと一年だ。それ以降の居場所を確保しようと思った」

「え? それって……」

 今野さんは四年生だ。あと一年しかいられないのは分かってる。しかしコンノさんまでなぜ、あと一年という期限を区切られているのか。

「ああ、その話。まだ部員全員には伝わってないんだよね」

 ようやく腕から抜け出したコンノさんが話を引き継いで、実はね、と声をひそめた。

「クラブハウスの建て替えが正式に決まったんだよ」

「ええっ!?」

 確かにこの建物は古い。すでに築三十年近く経っていて、上の階では雨漏りなども深刻になっているそうだ。何年も前からそういう話は出ていたが、ここよりも古い校舎の建て替えが優先され、なかなか順番が回ってこなかったらしい。

 とはいえ、空いている土地などないから、まずはグラウンドの隅にプレハブの部室棟を建てて、そこに移る。それから今のクラブハウスを取り壊して新しいものを建てる段取りらしい。

 しかし、プレハブの部室は今より狭くなることが想定されている。机やロッカーなどの備品はすべて持っていくとしても、私物の類は一旦、各自が自宅等に引き上げることになるだろうし、誰のものか分からないものに関しては、これを機に整理して、そのほとんどは処分することになるだろう。

「本やゲームはともかく、ボクみたいな謎の物体は真っ先に処分されちゃうだろうからね」

 あっけらかんと言ってのけるコンノさん。そんな、笑い話にしていい内容ではない。

「ダメです! そうなったらうちで――」

「駄目だ」

 ぴしゃりと言い放った今野さんは、よく考えてみろ、と息を吐く。

「吉川は実家住まいだろう? 例えばこいつが夜中に実体化して、こっそり電気をつけて本でも読んでてみろ。家の人に見つかったらエラい騒ぎになるだろうが」

「ボク、そんな節操ないことしないってば」

 心外だとばかりに頬を膨らませるコンノさんだが、今年に入ってからすでに三回ほど、学校を通して漫研に「夜間に電気がつけっぱなし」「ついたり消えたりする」と注意が来ている。これだけ聞けば不法侵入者か怪奇現象を疑うが(実際、部会でそういう話が出た)、報告された日がことごとく、何かの新刊が発売されて部室に持ち込まれたタイミングなので……まあ犯人の目星はつく。

「実はこないだ、狐面を作画資料として譲ってもらえないかどうか、部長に掛け合ってみた。部会でみんなに聞いてみて、他に欲しがる人間がいなければ構わないそうだ」

 なるほど、作画資料という名目なら納得してもらえるだろう。そう言えば投稿用の原稿には、主人公の仲間として狐面を被った少年が描かれていた。

「わーい、ありがとうヨシくん!」

 手放しで喜んだかと思えば、ああでも、と淋しげな表情を浮かべるコンノさん。

「そうすると、もうこの部室で吉川さんと原稿が出来る日も、残り少ないんだねえ」

 うっかり絆されそうになるけれど、私は騙されないんだから。

「ゲームが出来る日も、でしょう?」

「はは、ばれたー?」

 ぺろりと舌を出すその仕草が、これまた似合っていて腹立たしい。

「安心しろ。あの辺りもまとめて引き取ることになってる。モニターだけは置いて行ってほしいそうだが、あとは構わないそうだ。古いゲーム機の類はもう、お前以外使ってないからな」

 ちなみに、一部の部員からは『誰も遊んでないはずなのに時々セーブデータが更新されている呪いのゲーム機』として恐れられている。

「それなら安心だ。漫画は新刊が出たら借りて来てもらえばいいとして、あとは吉川さんがヨシくんの部屋に来て原稿を手伝ってくれれば、なんの問題もないね」

「おい待て」

 そういえば今野さんのアパートに行ったことはまだない。なんでも大家さん宅の離れを改造した元下宿で女子禁制、個別のトイレはあるけど風呂は共同だとか、今時エアコンがついてないとか、洗濯機は軒下に置いてあるとか、とても二十一世紀とは思えない話なら聞いた記憶がある。

「あの部屋に呼べるわけないだろう。だからしばらくは、原稿作業はここでやる。……八月に契約が切れるから、夏休み中に引っ越す予定なんだ。次はちゃんと……専用の風呂があって、窓に網戸がついてて、隣の部屋で電話してようがテレビを見てようが気にならないような、まともな部屋を借りるさ」

 しみじみと言ってのける今野さん。そんな物凄い部屋で暮らしていたとは驚きだ。もっとも、ほとんど寝に帰るだけという状態だったのだろうから、これまでは我慢できたのかもしれない。

「……というわけで、まずは投稿用の原稿が終わるまで、しばらくは放課後、ここに通うことになる。今まで以上に世話をかけるが、よろしく頼む」

 差し出された右手を、反射的に両手で掴む。いや、今野さんの手は大きいので、こうでもしないとちゃんと握れないのだ。

「はい! よろしくお願いします! 頑張って手伝います!」

 過去が、そして今が、未来に繋がる。

 クラブハウスは建て替わり、やがては私も卒業して、この場所で過ごした日々は完全に『思い出』となる。

 それこそが――私達の未来を形作っていく。

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