四、邂逅

 交代と休憩を兼ねて部室に戻ると、珍しく無人だった。鍵もかけずに不用心だな、と思いつつドアを閉め、下の自動販売機で買って来たジュースの紙パックを机に置く。

「あれ、今日はココアじゃないの?」

 唐突に聞こえてきた声に振り返れば、そこには――柔和な笑みを湛えたコンノさんの姿。

「コンノさん!」

「久しぶりだね、吉川さん。先輩になった気分はどう?」

「どうもこうも、まだ正式入部してる子はいませんから……ってそうじゃなくて! なんで全然姿を見せてくれなかったんですか!?」

 思わず食って掛かってしまった私に、コンノさんはごめんごめん、と手を合わせながらも、何やら困惑した表情を浮かべている。

「いやー、何かよく分からないんだけど、ずーっと夢の中みたいな感覚でさ。みんなの様子は何となく見えてた、と思うんだけど、全然違うところにいた気もするし」

 しきりと首を傾げている様子に、これ以上追及する気にもならなくて、パイプ椅子に腰を下ろす。その間も、コンノさんはまるで独り言のように、見ていたという夢の話を続けていた。

「白い部屋だったな。窓の向こうに桜が咲いていてね。それがとてもきれいで、もっと近くで見たくてベッドから起き上がろうとするんだけど、全然起きられなくて……なんか、そんな夢を見ていた気がする」

 この部室の窓からでは、グラウンドのネットが邪魔をして、桜並木を間近に見ることはできない。つまり、コンノさんが見ていた光景は、少なくともこの窓からの景色ではないわけだ。

「でも、ちゃんと知ってるよ。仮入部が四人、そのうちの一人は元・軽音部の二年生。あの子、よく部室でギター弾いて怒られてた子だよね」

 軽音部の部室は三つ隣だ。クラブハウス内は防音ではないので、部室での演奏は原則禁止となっている。

「そうそう、たまに聞こえてきましたよね。部内バンド組みたいらしいですけど、まずはみんなでカラオケ行こうよって話をしてます」

「うわあ、いいなあカラオケ」

 途端に目を輝かせるコンノさん。前に「一度でいいから行ってみたい」と懇願されて、三人で行った五時間耐久カラオケがよほど楽しかったと見える。

「吉川さんも聞きたいでしょ、ヨシくんの美声」

「五時間粘って一曲しか聞けないのって、難易度が高すぎるんですけど」

 今野さんはとても歌がうまいのに「聞いてる方が好きだから」と滅多に歌ってくれないのは知っていた。だからこそ、あえて人数を絞って五時間耐久コースにしたのだが。

「朝までコースにしたらもうちょっとハードル下がるんじゃない?」

「却下だ」

 突然のバリトンボイスに跳び上がりそうになったが、声の主は言わずと知れた今野さんだ。

「やあヨシくん。こんな時間に来るなんて珍しいね」

「その呼び方は止めろ」

 ぴしゃりと釘を刺してから、改めて「卒論の件でゼミの教授に呼ばれたんだよ」と答えるところが、律儀な今野さんらしい。

「そういやさっき、OBの本嶋さんから着信があったぞ。教授と話してる最中だったから出られなかったんだが、吉川のところには連絡来てないか?」

「え? どうでしょう」

 そう言えば、授業前にマナーモードにしてから、そのあと解除した記憶がない。

「ええっと……」

 鞄の奥に埋もれてしまったスマホを何とか探り当て、ようやく引っ張り出したところで、不意にノックの音が響いてきた。

 部員なら返事を待たずにずかずか入ってくるのが常だが、扉が開く様子はないから、これは明らかに部外の人間だ。

「どうぞ」

 今野さんの声に、ゆっくりと扉が開き――。

「こんにちは」

 履き古しのジーンズによれたパーカーとTシャツ、少し癖のある髪をくしゃりと掻き、微笑むその姿は――その、姿は。

「コンノ、さん……?」

「ボクはここにいるけど」

 呑気な声に振り向けば、確かにそこにはコンノさんがいて――あれ?

「入部希望者か?」

 冷静に問いかける今野さんの声に、はっと現実に引き戻される。

「この間チラシをもらったので、遊びに来ました。部室、ここであってますよね?」

 鞄から取り出したチラシは、確かに漫研のもの――そう、あの日私が渡した、あのチラシだ。

「あの時の……」

「ああ、その人ですか。ボクにそっくりだっていう人」

 うわあ、本当にそっくりだ、なんて呟きながら、スタスタと近づいてくる『彼』。

「あの、その……!」

 ああダメだ、何を聞いていいのか分からない。

 きっと、ただの『他人の空似』だ。だってコンノさんは、「どこにでもいそうな大学生」をイメージして今の姿を作ったって言っていたんだから。

 でも。でも――。

「誰だ、アンタ」

 静かな声に、しかし『彼』は足を止めることなく、私とコンノさんの前を通り抜け、グラウンドを見下ろす窓辺まで辿り着いて、そこでようやく立ち止まった。

「忘れ物を取りに来たんだ」

 くるりと振り向き、窓枠に腰かけるようにして、『彼』は笑う。

「それはボクのものだから、君が囚われる必要なんてないんだよ」

 すい、と伸ばされた手は、透き通るほどに白く。穏やかな瞳は、どこか違う景色を見ているようで。

「ごめんね。ボクが中途半端に残していったから。それだけが気になってたんだ」

 謎めいた言葉に、コンノさんの口から、声にならない呟きが漏れる。

「ああ……ああ、そうか。ようやく分かった」

 ぐっと拳を握りしめ、そして伸ばされた手を見つめる。

「これは、君の思い出。君が残していった、大切な記憶だったんだ」

 手を伸ばす。指と指が触れあう。ただ、それだけ。

 アニメや映画にありがちな、派手な光や音など何もなく。ただ静かに重ね合わされた手が、またゆっくりと離れていって。

「じゃあね」

 あまりにもあっさりした口調でそう告げて、すたすたと歩き出す『彼』。狭い部室を横断し、ドアノブに手をかけて、そして――。

「すまん! 吉川さん、いるか!?」

 唐突に開いたドアから現れたのは、あまりにも思いがけない人物だった。

「本嶋くん。ちゃんとノックするようにね」

 やんわりとたしなめる声に「すいません!」と頭を下げた本嶋さんは、次の瞬間あんぐりと口を開けて固まった。

「榊さん……」

「よかった、ここで君に会えて。みんなによろしく言っておいて」

 じゃあねー、と軽く手を振って、本嶋さんの開けたドアから出ていく。

「榊さん! ちょっと待っ――!」

 慌てて追いかけようとした本嶋さんの目の前で、まるで強風に押されたように扉がバン、と閉まり。

「! くそっ……!」

 慌てて扉を開けた本嶋さんに続いて廊下に出た私達が見たものは、静まり返った廊下に舞う、ひとひらの花びら。

 ふわり、と床に落ち、さあ、と風に攫われて、跡形もなく消える。

「榊、さん……」

 呆然と呟いた本嶋さんは、やがて大きな溜息をつくと、やれやれ、と頭を振った。

「ったく、あの人は!」

「あ、あの……本嶋さん、今の……」

 何を言えばいいのか、何を問えばいいのか分からず、やっとのことでそこまで言葉を紡いだ私に、本嶋さんは「とりあえず中に入るか」と苦笑いを浮かべ、私達の背中を押したのだった。

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