二、放課後

「ダメだったかー……」

「まだ始まったばっかりでしょ!」

 がっくりと肩を落とす部長に、びしりと長定規を突きつけたのは、先程までカッターと格闘していた編集長だ。

「そんなすぐに新入生が入ってくるなら、どの部も苦労しないっての」

「そりゃそうだけどさあ」

「そうそう。ヨッシーみたいに、勧誘期間を過ぎてから来る物好きだっているかもしれないんだから」

「ひっどい!」

 思わず抗議の声を上げれば、あちこちから弱々しい笑い声が上がった。すっかりくたびれ果て、もう夕方だというのに椅子から動こうともしない部員達。昨日来てくれた新入生二人組が今日は顔を出さなかったことも、みんなが意気消沈している一因かもしれない。

 ――と、不意に部室のドアが開いて、思いがけない人物が顔を出した。

「お疲れ」

「今野さん! お疲れ様です!」

 新四年生の今野さんは、普段はバイトに明け暮れて滅多に部室へ顔を出さない、いわば幽霊部員だ。同時に、部誌にて長編の漫画連載を続けている実力派でもある。勉強とバイト、更に就職活動が加わった過密スケジュールの中で、どうやってそんな時間を捻出しているのだろう。

「今野さーん! 今日は収穫ゼロでしたよー」

 泣きつく部長を「お疲れさん」と労わりつつ、提げていたビニール袋を差し出す今野さん。

「差し入れだ。みんなで飲んでくれ」

 途端に歓声を上げて群がってくる部員達を「ええい、待て! お座り!」とあしらいながら、ビニール袋の中身を机の上に出していく部長。すかさず編集長が買い置きの紙コップを取り出し、手際よく人数分を並べていく。

「昨日来た子も、今日は顔を出してくれなかったんですよ。今日はみんな頑張って声かけてくれたけど、部室まで来てくれた子はゼロで……」

「去年だって最初はそんなもんだったし、お前だって最初は全然部室に来なかったじゃないか」

「うっ……。だってあの頃、部室の雰囲気があまりにも『そっち系』過ぎて、物理的に入りづらかったんですよ! 表のドアに肌色成分多めのポスターとか、ばっちり貼ってあったじゃないですか」

「ああ……あれは河本さんの趣味だったからな」

「河本さんって、部誌に堂々とエロ漫画を載せて、こっぴどく叱られたって人でしたっけ」

「ああ。あの時は、部誌の表紙に十八禁表示を入れるべきか否かでさんざん揉めたらしい。俺が入った時の四年生だな」

 世代が変われば、部自体の雰囲気も変わる。部内の壁を埋め尽くしていたポスター類は全面撤去され、謎の道具類が詰め込まれていた棚は徹底的に整頓された。窓際に置かれていたテレビはある日突然壊れて映らなくなったので、卒業して実家に戻る先輩が寄贈してくれたゲーム用モニターに変わっている。

 私が入部した一年前から比べても、そして『部室』というごく限られた空間だけでも、驚くほどに様変わりしているのだ。毎日、変わり映えのしない日々を過ごしているつもりでも、確実に時は流れ、世界は変化を続けている。

「吉川。ほら」

 突然の呼びかけにハッと顔を上げれば、目の前に紙コップを持った今野さんがいた。

「あ、ありがとうございます」

 慌ててお礼の言葉を紡ぎ、なみなみと注がれた烏龍茶を受け取る。

「そうだ今野さん! ちーちゃんってば今日、勧誘の机で居眠りこいてたんですよー!」

 いきなり暴露話を始めたのは、私の頼んだココアを買い忘れた同級生・柴崎だ。

「しかも、夢の中でも今野さんのこと追っかけ回してたらしくて、『待ってー』とか叫んで飛び起きて――」

「シバちゃん、ちょっと表に出ようか」

「うひょー、こわあ!」

 大げさに慄いてみせるシバちゃんを睨みつけて沈黙させ、呆れ顔の今野さんに慌てて弁解する。

「ち、違うんですってば! あれは今野さんじゃなくて、ええと……いやその、……要するに、寝ぼけてました……」

 よく分からない感じにしぼんでしまった弁明に、しかし今野さんは「そうか」と肩をすくめただけだった。多分、言いたいことは伝わったのだと思う。

「よし終わった! ちゅうもーく!」

 編集長が声を張り上げる。見れば、彼女の手には細く切り揃えられた紙の束が握られていた。

「新歓本の自己紹介欄、出来たから渡すよ! 必ずこれを原稿の上部分に貼って、枠内を埋めて出すこと!」

 新歓本こと『新入生歓迎本』は、新学期に必ず制作する、いわば部員全員の自己紹介本だ。名前やペンネーム、連絡先、そして出身や趣味・特技などを書く欄があって、その下はフリースペース。好きな漫画やアニメのキャラを描く人もいれば、自分が書いている作品の宣伝をする人もいる。新入部員が入部して最初にやることは、この新入生歓迎本の原稿を書くことだ。

「去年は何を書いたっけ?」

「お前、似顔絵欄にプリクラ貼って怒られてなかったか」

「あれね、コピーすると顔潰れちゃうんだよな」

「ヨッシーはギリギリまで書いてたよなあ」

「うっ、そのことは忘れてほしいです」

 去年の私は入部が遅かったこともあって、入ってすぐ締切に追われる羽目になり、最終的には先輩達が購買部のコピー機で印刷している横で清書して何とか間に合わせる、という強行手段に出たのだった。

「締切は四月二十日! 一日たりとも伸びません! 二十日の放課後には製本作業に入るから、必ずそれまでに提出すること!」

 鬼編集の言葉に震え上がる部員達。二年生以上もガイダンスや履修登録で忙しいこの時期、この締切設定は中々にシビアだ。

「中島。俺、今日中に書いて出しておくから」

 そう宣言して、早速机に向かう今野さん。どうやら今日はこの後すぐにバイトというわけではなさそうだ。

「了解です。私、今日はもう帰らなきゃいけないので、引き出しに入れといてもらえますか?」

「分かった」

 今野さんの返事に、夕焼け小焼けのチャイムが重なる。十七時を知らせるこのメロディーは、部員達が引き上げる目安にもなっていた。

「それじゃあ、俺も今日はこれで~」

「あ、あたしも!」

 ばたばたと帰り支度を済ませ、一人、また一人と扉の向こうに消えていく部員達。最後の一人が扉を閉めて、静寂が部室を支配する。

「吉川は帰らないのか?」

「私も今日、書いていっちゃおうと思います。後回しにすると忘れそうだし」

「賢明な判断だな」

 画材置場から原稿用紙を取り出し、配られた紙をぺたりと貼りつける。今ではパソコンの表計算ソフトで作られている『自己紹介欄』は、創部の頃はなんと市販されている履歴書の一部を切り取って貼りつけていたそうだ。合理的というか何というか。

「今野さんは今日、バイトないんですか?」

「いや、今日は遅番だ。またしばらく、部室に顔を出せないだろうからな。やれる時にやっておかないと」

 手際よく欄を埋めていく今野さんに対し、私はと言えば、メールアドレスでつっかえ、趣味・特技で唸り、似顔絵で撃沈し――なかなか先に進まない。

 向かい側に座る今野さんの手元をちらり、と窺えば、もう似顔絵のペン入れが終わりかけていた。毎度おなじみ、お面を被った少年のデフォルメ画。被っているお面の種類は季節によって変わるのだけど、今回は狐面だ。

 そういえば、四月に入ってからまだ一度も『彼』を見かけない。だからだろうか、あんな夢を見たのは。

「そうそう。今日の勧誘の時に、コンノさんに似た雰囲気の人がいたんですよ」

 そう切り出したら、フリースペースに取りかかろうとしていた今野さんの手がぴたりと止まった。私の言う『コンノさん』が自分のことではないと理解している顔だ。発音を変えている訳でもないのに、不思議と今野さんはそれを聞き分ける。

「思わず呼び止めちゃったんですけど、当たり前だけど別人でした」

 そう――当たり前のことなのだ。『彼』は特定の条件を満たさない限り、部室の外に姿を現すことはない。

「ちょっとしかお話しできなかったんですけど、漫研にいたことがあるんですって」

「へえ、漫研出身か。名前は?」

「あっ……聞きそびれました……」

「まあいいさ。興味があるなら訪ねてくるだろうし、まだ勧誘期間はあるからな。……それで、あいつは?」

 今野さんが『あいつ』と呼ぶのはただ一人。同じ名前を持つ『彼』のことだ。

「新学期に入ってから、まだ一度も」

 答えながら、窓の上に掛けられた狐面へと視線を向ける。どこか笑っているような表情の白狐面は、今日は何故か物憂げに見えた。

 漫研の守り神的な存在、狐面の付喪神(仮)ことコンノさんは、本人いわく「人見知りだから」という理由で、私達が部室にいる時しか姿を現さない。それもかなり気紛れで、毎日のように現れる時もあれば、半月以上見かけないこともある。

「今野さんは?」

「同じく。まあ、俺も四月に入ってから部室に顔を出したのは二回だけだからな」

 溜息交じりに呟きながら、消しカスを払い落とす。そうしてあっという間に完成させた原稿を事務机の引き出しにしまい込んだ今野さんは、今度は自身の鞄から原稿の束を取り出した。

「あれ? 今野さん、もう次の原稿に取りかかってるんですか?」

「いや、これは別件だ」

 束の中からお目当てのページを引っ張り出し、下書きを始める今野さん。見たところ、確かに部誌で連載中の異世界ファンタジーではなく、どうやら和風怪奇譚のようだ。就活の息抜きに描いているのか、それとも改めて個人で同人活動を始めるつもりなのか。ちらりと顔を窺うも、原稿に集中している今野さんは気づく様子もない。

「手伝えること、あります?」

「ああ。こっちのページ、消しゴムかけてくれ。あとこっちはベタを頼む」

 ほとんど反射的に答えてから、はっと口を閉ざす。そしてこちらの手元を一瞥した今野さんは、厳かにこう付け足したのだった。

「自分の原稿が終わったあとで構わない」

「そうでした……頑張ります」

 結局この日は、今野さんがバイトに向かう十八時半過ぎまで原稿作業を手伝ったけれど、『彼』はついぞ姿を現さなかった。

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