第2話
梶和航という名前、近くの高校に通っているということ、そしてなぜ毎日病院にいるかということ。
そのすべてを聞くまで、一週間かかった。聞き出したいわけではない。お互い、ぽつりぽつりと身の上話をするまで時間が必要だった。
一度聞いた話と、した話に対して新鮮な事はないけれど、わたしは一度目と同じになるよう意識していた。
この日の事は忘れていない。何度だって頭の中で再生され、わたしの心を癒し続けてくれたのだから。
「あの時メガネが汚れていたのは、紙パックのジュースがはねて、水滴がレンズについたからなんだ。適当に服で拭いたから」
言い訳のように言う口調は、最初の頃に比べて軽いし、言葉の量も多い。照れたようにメガネを押し上げる姿は最初と変わってはいないけれど。
「お母さんの調子、どう?」
「このままいけば、来週には退院できそうです」
「よかったね。莉帆ちゃんの頑張りがあったから」
繰り返される治療。一度良くなってもまた入院。だから部活にも入れないし、バイトも出来ない。そんな生活が待っているかもしれない。
高校卒業まで、母の病気は完治しないと大人のわたしは知っている。けれど、当時は永遠に続くのではないかと恐れていた。母を憎んだ。
何より、死んでしまうのではないかという恐怖が常に付きまとっていた。特別仲がいい訳ではない。けれど、やはり親というのは特別な存在だ。
今では、生きていてくれているだけでありがたいのだと知っている。そのおかげで、二度目の看病生活は穏やかなものとなっていた。初日こそトゲはあったが、病気の母にあたることもない。
高校時代なんて、人生のうちでたったの三年なのだから。それを実感する頃には、もう高校生ではない。わたしはラッキーなのだ。実感しながらも、高校生でいられるのだから。
「和航さんのお母様は」
問い返す。まだこの時期は大丈夫。だが、わたしの母が退院する頃には聞いてはいけない。そのせいで、ギクシャクしたままわたし達は連絡先も知らぬまま離れ離れにならなくてはならなくなるのだから。
「今はまだ、小康状態ってやつ」
同じガン治療でも、ステージ、病巣の場所、転移するかしないかで生存率は大きく異なると知った。母と同部屋の人は、簡単な手術をし、すぐに完治して退院した。和航さんのお母様はそうはならない。人それぞれなのだ。
「和航さんも、体調には気を付けてください。元気な顔を見せるだけでも、お母様元気になりますよ」
一回目の時には思いもしなかった気遣いの言葉がするすると出てくる。余裕があるだけで、こうも違うのかとわたし自身驚く。
「ありがとう。莉帆ちゃんだって大変なのに、優しいね」
いつものように、ほのかに笑みを浮かべる。それが最大限の感情表現なのだと、一度目のわたしは気が付かなかった。連絡も取れない人を好きになっていたと自認するまで。
「それは、お互い様です」
わたしは二度目だから。でも和航さんは一度目からわたしを気遣ってくれている。その優しさは何度味わっても快楽的であった。
そろそろ聞いてもいいだろうか。聞くなら今のタイミングしかない。
「携帯番号とメールアドレス、交換しませんか」
その申し出に、和航さんは困ったように笑みを浮かべるだけだった。
無言の時間が流れる。何も言わない。わたしは手にした携帯電話が重たくなっていくのを感じていた。赤い、ラメの入った二つ折りの携帯電話。ストラップの鈴が頼りなく、断続的に泣いている。
失敗した。そう悟った時には遅い。
「わたし、母の病室に戻ります」
逃げるように立ち上がり、小走りに母の元へ戻った。
聞くタイミングではなかったのだろうか。タイミングではなく、わたしに聞かれる事が嫌だったのだろうか。
答えはわからないけれど、ただわたしは涙ぐんでいた。
「莉帆、どうした」
今日は治療で疲れた母が、ベッドに横になってわたしを心配していた。その痛々しさに現実に戻る。
「なんでも。先生がね、このままいけば来週には退院出来るって」
「そう、よかった」
心からの安堵の声。治療をする事、生きる事が苦痛になってきている母にとっては何よりの朗報だろう。今回退院しても、また続いてしまうのだけれど。
同部屋の人から「おめでとう」と言われ、それだけで顔色のよくなった母は体を起こしていた。よかった。
でも、わたしはよくない。せっかくの二回目の旅。肝心な事に失敗して、母の看病をやり直す。それはとても耐えられそうもなかった。
覚悟をもってこの時代に戻ったのに。
窓の外を見るふりをして、わたしは母に背を向けた。
辛いな。二度も母の状態を見るのも。母自身、一度目の治療ではあるのだろうけれど、二度も苦痛を味合わせている気がしてきてしまう。
二度目の、二回目の入院、それがあと三回ある。計四回だ。通院だってずっと続く。
浅はかだった。自分の事しか考えていないからこうなるのだ。必死で涙とため息をこらえる。
夢ならいいのに。やり直したいなんて都合のいい事を思っていたわたしの夢。
気休めに、紅葉すら落ちてきている木々を見ていると、黒猫がこちらの部屋を見上げていた。
先ほどまでいただろうか。わからないけれど、金色の瞳は間違いなく、わたしを見ていた。責めるわけでも、慈悲深いわけでもない。感情の読み取れない瞳だ。
「もう一度、チャンスをやる。次はいつがいい?」
わたしが失敗したとわかって、やってきたのか。腹立たしい。
口を開かず、黒猫と会話をした。
通じただろうか。その心配をする間に、わたしは一度目と同様、眠るように意識を落とした。心の中で、母に謝罪しながら。
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