第三章・莉帆の生き様

第1話

 どうせ穴に落ちるなら、わたしはおむすびを追いかけるよりもウサギを追いかけて落ちたい。

「莉帆ちゃんは可愛いね」

 わたしはそう言われる人生を送りたくてずっとずっと努力してきた。

 オシャレを勉強して、メイクを勉強して、体型も常に気にして。愛想のいい子だと思われるように鏡に向かって笑顔の練習もした。受験勉強より、女は可愛くて愛想がいい方が得、というのは母の教えだ。

 興味のない空の写真をとって、自己陶酔した呟きを添えた投稿をしてみた。

 お姫様が主人公の物語ばかり見て、愛されるとはどういうことか、理屈で考えていた。華やかに見えて、グロテスクで悲しくて、現実はきっと厳しい御伽噺。その中に入りたいと思っていた。わたしなら、その世界で勝ち抜ける、と。

 誰か一人に愛されたかった。

 なのに、わたしの長年の恋が奪われた。

 納得などいかない。

 御伽噺の延長として、目の前の黒猫がわたしに対して「時間を戻したいか」と問うて来たら、それは頷くしかない。でも、わたしはわんこの方が好きだけどね。

 女は素直が一番だ。へそ曲がりは女として損なのだから。

 たとえ犬のほうが好きでも、猫にだって笑顔を見せるべきだ。愛されたいのなら。


 道端で無駄な愛想を猫に向けて、意識を落として。

 気が付くと、最近行きつけになっていたアリスダイナーで目が覚めた。

 職場から二駅離れていて、自宅とは逆なのに、なぜだか通うようになっていた。そう、わたしの恋敵が教えてくれたのだ。勝ち誇った顔で「ひとりでも、食事が楽しめるよ」って。元々アリスの世界は好きだから、悔しいけれど訪れてみた事が始まりだった。

 本当に、過去に戻れたのだろうか。戻れたとして、わたしが指定した日時なのだろうか。急に不安になる。指定した日は、まだこのお店があるとは知らなかったのだから。

 その日、わたしはまだ高校生だった、はず。

 店内を見まわすが、窓のない店だから時間がわからない。時計柄が壁紙だから、今が何時なのかわからず酔ったような気分になる。

 だが、自身の体を見ると、高校時代のブレザー姿に、染めたことのない黒いセミロングヘアになっていた。手で顔に触れると、大学を卒業した今よりも水分も油分も過剰にある気がしたし、何より素顔だ。今ではすっぴんで外に出るなんて考えられない。

「本当、なんだ」

 つぶやいてみると、声も違う。甲高い。

「莉帆さん。どうなさいました? 病院へ行かなくていいんですか?」

 声をかけてきたのは、ここのマスター。なぜ、わたしの名前を。なぜ、病院へ行くことを知っているのだろうか。

 不思議そうに見るが、マスターは何も答えない。微笑みを向けてくるだけ。何年も前のはずなのに、マスターの顔は変わっていない気がした。髪型は、少し長くて今とは違うけれど。

 わたしは何かを言いかけたが、そうだ、と通学バッグに手を入れる。まだガラケーだ。指定通り、高校一年生の秋に時間旅行をしたのかもしれない。時刻は夕方の四時。

 テーブルを見ると、何も置かれていなかった。

「ご注文は何もなさってませんよ」

「すみません。帰ります!」

 真実を確かめるためにも、わたしはアリスダイナーを出た。失恋の苛立ちで、今起きている事への不信感はあまりなかった。

 やり直せるなら。夢でもいいから、やり直したい。


 病院へ行くのは自らの治療のためではない。母の看病だ。学校帰りに洗濯した母の着替えを持っていき、汚れた衣類を持って帰る。暇つぶしの雑誌を差し入れ、お見舞いにもらった花の水を交換する。

 花なんて、世話が面倒だし花粉も落ちる。持ってこられるのは迷惑だ。ただ可愛いだけでいればいいのに。

「莉帆、今日は学校どうだった?」

 入院中とはいえ、元気そうな母の声に振り返る。退屈しのぎに毎日呼び出される身にもなってほしい。

「勉強はどう? 友達と仲良くやってる?」

 体調がいい証なのだろう。でも、ネタがないからって毎日同じような事を問われるこちらの身にもなって欲しい。

「上手くやってる」

 ついトゲのある言い方になる。それを母も察知している。なのに、会話をやめてはくれない。

「ごはんは作ってる? お父さんは元気?」

 仕事で忙しい父の為に、家事仕事はわたしが引き受けている。もちろん稼いで母の治療費を払ってもらわなければならないし、家に居られても役立たずだから忙しくしてくれるのはありがたかった。最初は、寂しかったけれど。

「仕事で忙しいから、お父さんは家でご飯食べて寝るだけだけどね。まぁ、花嫁修業だと思えば家事も覚えておいて損はないし」

 意味ありげに言うけれど、相手なんていない。クラスでも陰キャラで、勉強もできない運動もできない、バイトをする時間もない。

 とはいえ母を言い訳にするつもりもない。母が元気でも、きっとわたしはこういう人。

 こういう人、だった。大学生になれば変わるのだ。わたしは、変われる。

「じゃあ、花瓶の水入れ替えて、何か飲み物買ってくる」

 高揚した顔を、無意識にうつむいて隠した。

 そう、わたしはもう一度、この時代に戻ってきた。大学生になって、その頃には母の体調も良くなっていた。ようやく束の間の、人生の中で一番自由な大学生になれたのだ。そこが、名前を書けば入れるような大学でも、だ。

 高校時代に出来なかった事。キラキラした青春時代という、輪郭すらぼやけた憧れをわたしは追い続けていた。

 おかげで就職に苦労して、新卒で正社員にはなれなかった。でも、梶和航わたるさんと再会出来る。

 ただの女友達に、和航さんを取られるわけにはいかない。

 やり直すなら、この時代からだ。


 頭の中では社会人となった梶和航さんの姿が最新だったけれど、こうして高校二年生の和航さんを見ると、懐かしくて胸が締め付けられた。ノスタルジーに浸る老人の気持ちがわかる。

 和航さんは病院のフリースペース、入院患者と見舞客が話をするところにいつもいる。高校の制服で、きっちりともだらしないともないブレザー姿。携帯をいじるわけでも、本を読むわけでもない。ただ、風景に溶け込むように椅子に座って、紙パックのオレンジジュースを飲んで窓の外を眺めているだけ。まるで自分の部屋にいるみたいな、リラックスした態度だ。

 特別絵になるような人ではない。普通。いたって普通が、かえって目を引いた。

 深い傷が無くたって、みんな何かを抱えている。その小さな傷が大きくなったり、誰かに見つかってえぐられたりする事を恐れている。人は救いを求め、ささくれだった心を癒すために友達や恋人を作る。裏切られるかもしれないとわかっていても。

 でも、この人はきっと裏切らない。そう思えた。普通の良さ。激しい恋ではなくとも、穏やかにわたしのささくれを癒し、そしてわたしも癒してあげられるのではないかと思えたのだ。

 汚れたメガネを気にするわけでもないその姿が妙に印象的で、わたしは舞い戻ってきたこの日、改めて声をかけることにしたのだ。

「メガネ、汚れてますよ」

 この日も、和航さんのメガネは汚れていた。一度目と同じ言葉が口からするりと、止める間もなく抜け出てきた。

 夢からさめたわけじゃない。元々夢想などしていなかったかのように、和航さんは視線をわたしに向けてくる。

 初めて声をかけたにしては、失礼な事だったと反省しかけた時、和航さんはほんのりと笑顔を唇に浮かべた。

「ありがと」

 この瞬間、淵のギリギリに立っていたわたしは穴の中に落ちたのだ。だから、無意識にも一度目と同じ言葉にしたのだ。

 そして再確認する。

 竹内遥菜には渡せない、と。

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