2.オンガクの悪戯
わたしの体は貧弱だ。
音楽が大好きなのに、歌ったり弾いたりするとかなりの確率で倒れる。
だから、合唱部にも吹奏楽部にも入れない。
でもひとつだけ弾いてても倒れない謎の楽器がある。
ヴァイオリン。
母が趣味でいろいろとやっている中のひとつがヴァイオリンで、物心つく以前からその心地よいサウンドに惹かれていたような気がする。
それでちまちま触らせてもらっていたのだけれど、この楽器だけは弾いていて負担を感じない。
不思議だけど、そういうものがひとつあるというだけで、わたしはかなり救われていた。
そしてなんとも都合のいいことに、吹奏楽部が放課後使っている第一音楽室、合唱部が放課後使っている第二音楽室の他に、今や壊れた楽器の倉庫と化しているような第三音楽室が存在している。
この音楽室を使っていいって言ってくれたのは音楽の先生で、毎日鍵を借りに行って使用させていただいてる。
放課後アスカが部活を終えるまで、わたしはここでヴァイオリンをいじる毎日だ。
一人だけで帰っている途中で倒れたらまずいとかなんとかで、アスカと一緒に帰るようにしている。
こういうところでもこっちが恩義あるっていうのに、アスカはこちら側から何かしようとしたら恐縮がる。本当にどれだけ謙虚なのだろう。
なんだかそういうことを考えて複雑な気分になり、曲を弾くでもなくバラバラに音だけ奏でていた時だった。
第三音楽室の扉がすぱーんと開けられ、
「どんな奴がヘッタクソに音鳴らしてるんだと思ったら……ここ音楽室なのか」
不躾な発言をするその人を、わたしはただただぽかーんと見つめるくらいしかできない。
学生服に名札をつけていないと先生が目くじらを立てるのに、この人はつけていないから何年生でどんな名前なのかも全然分からない。
この学校の制服を着ているから、この学校の生徒なんだろうな、くらいしか分からない。あと男子生徒なくらい。
だから声をかけるきっかけをなにひとつ思いつけず、ヘタクソと言われたことにムッとするより前に、頭の中は疑問符で埋め尽くされていた。
その人は扉を閉めながら音楽室に入ってあたりを見回した。
そしてアップライトピアノに目を付けたのか迷いなくまっすぐそちらに向かう。
蓋を開けて、ぽーんぽーんと何個か鍵盤をたたいた後に溜息をついた。
「……なんか楽器の墓場みたいに見えたけど、その通りか」
わたしはただ困惑して彼を目で追うだけだった。
その人はきょろきょろと周りを見渡してなにかペダルのようなものを発見し、そのピアノの左下に挿して、鍵盤を鳴らしながら微調整するように少しだけ回す。
(調律してるのかなぁ……?)
ピアノはあまりいじったことがないけれど、それくらいしか思い浮かばない。けれど、音叉とかそういった音の基準になるものが何もないのにそれをやってるってことは、きっと絶対音感でも持っているのだろう。
「……チッ」
彼はつまらなそうな顔で舌打ちした。
そして今度はグランドピアノの方に向かい、また鍵盤をいくつか鳴らしてみて、そしてさっきより盛大に溜息をつくと、なにをやっているのか見当もつかないことをやり始める。
分解していくので見ていてハラハラする。この人マジで何してるんだろう……こわすぎる。
「……めんどくせぇ」
しばらくして彼がボソっとそう呟いたので、わたしは何か言うと八つ当たりされそうな気がして、ひたすら無言でいた。
……なんだか妙に長い時間が経った気がした。実際二時間近く過ぎている。けれど、体感それよりもはるかに長い。
「……よし」
と彼が満足そうにつぶやき、椅子に座ってなにか弾き始める。
(これって……)
それはベートーベンの『月光』だった。
曲調は暗く重い、あるいは切ないのに、さっきまでの怖い雰囲気が氷解していくようだった。
弾き方がとても繊細で、音を大事にしていることが分かる。
なにより、ピアノを弾くことを生きがいにしていそうなくらいの雰囲気すら感じとれる。
今までは意図的に黙っていたけれど、今は言葉が出ない。
演奏を終えると彼はすっと椅子から立ち上がって、扉の方に歩いていく。
「……そこの春川ナントカ、もうちょっとマシに弾けるようになれ」
そう捨て台詞を吐いて、彼は扉を閉めて去っていった。
わたしは名札をつけていたから苗字も学年もバレバレ。呼び捨てにしてきたのだから、同じ二年生か、一つ上の三年生なのかもしれない。
そのなんだか豪快な雰囲気にただぽかーんとしていると、音楽室の扉がまた開く。
「今日ちょっと長めになっちゃった、お待たせ~帰ろう」
アスカがまぶしい笑顔でそう言ったので、わたしの硬直はやっと解けた。
どう報告していいのだか見当もつかなかったので、アスカに彼の話はしなかった。
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