殺意

 この家で暮らし始めてからもうすぐ四年になる。

 東京ではいじめられるどころかたくさんの友人ができ、いろんな遊びを覚えて毎日青春を謳歌した。

 里奈の方はというと、二人で霊園に行ったあの日以来「お母さんのような人を一人でも多く救いたい。そして、子ども達に私のような罪を背負わせないようにしたい」と猛勉強し、今は大学の医学部で日々人の命について学んでいる。


 高校も最後の一年となり、本格的に受験に備える時期になった。

 僕も里奈の夢に賛同し、同じ大学に合格するために土曜の真昼間から受験勉強に励んでいると、携帯電話が震えた。

「もしもし」電話の相手は駿さんだった。

「悪い蓮、今夜は同期や後輩の奴らが昇進祝いをしてくれるらしくて帰りが遅くなる。里奈のこと、頼んだぞ」

「わかったよ。昇進おめでとう。あんまり飲みすぎないようにね」

「あぁ、わかってる。蓮も勉強頑張れよ」じゃあな、と言って電話が切れた。

「駿さん、昇進か。すごいな」

 なにか昇進祝い買わないと、そう思って里奈にメールを送る。

>お疲れ様。父さんの昇進祝い買ってくるね。

 三分後、返信が来た。

>なんで一人で行くのよ。講義が終わったら私も行くから、十六時にハチ公前ね。

「ハチ公前で待ち合わせか。初々しいカップルみたいだな」

 了解、とだけ返して、僕は出かける準備をした。



* * *



 十五時三十九分。少し早めに渋谷に着いた。

 駅の構内を歩いていると「二夏依先生の新作、発売中!」と書かれたポップが目に留まり、一冊手に取る。里奈の好きな作家の新作だ。ついでに買って行ってやるか、と店員のおばちゃんに代金を支払い、それをショルダーバックに詰めた。

 改札を出て、人ごみを避けながらハチ公前に着く。里奈はまだ来ていないようだ。ショルダーバックから先ほど買った文庫本を取り出して一ページ捲る。


《この作品を手に取っていただいて、誠にありがとうございます。

これまで計、十二作品を執筆させていただきましたが、今作を

もちまして私は創作の世界から退きます。それではまた、どこかで。》


「里奈のヤツ、落ち込むだろうな」

 少しやるせなくなったが、里奈が来るまで読んでみようと思いページを捲ろうとした瞬間、「蓮」――そう、呼ばれた。あらゆる負の感情のこもった声色に、いや、もう絶対聞くことのないはずだったその声に、僕は戦慄した。

 目線を上げるより速く腹部に生温かさを感じ、文庫本より下に目線を落とすと、腹部に突き立てられた刃物から血が滴り落ちていた。

 次の瞬間、経験したことのない痛みに耐えきれず地面に崩れ落ちた。異変に気付いた周りの人達が皆一斉に悲鳴をあげながら逃げ惑う。

「痛い? でも、お母さんはお前のせいでもっと痛い思いをしたの。お前が死なないと、気が済まないのよ。だから、せいぜい苦しんで死んでちょうだい」

 なんでここにいる。どうしてここがわかった。母を名乗るその女性を見上げ問いただそうとするが、上手く発声できない。おまけに視界もぼやけてはっきりと顔を確認することは叶わなかった。

「案外丈夫なのね。じゃあ、もう一回」

 腹から刃物を抜かれ、血が一気に噴き出す。

「ああああぁあぁあああっ!!」

 もう、力が入らない。振り下ろされたそれを避ける力など、どこにもなかった。不鮮明な視界の中、僕に向けられた殺意が迫る。


 最期にもう一度、里奈に会いたかった。


 目を閉じ死を覚悟する。

 だけど、いつまで経っても殺意が僕の身体を貫くことはなかった。

 再び目を開けると、僕に寄り添うように誰かが倒れていた。あやふやだった世界の境界線は、瞬く間にそれぞれの形を取戻し、各々元来の色塗り分けられる。僕のすぐそばに倒れていたのは、紛れもなく里奈だった。

「里奈……嘘だろ……?」こんな形で、会いたくはなかった。

 里奈の頬をそっと撫でた。白い肌が真っ赤に染まる。

「蓮君、ごめんね。守れて……よかっ……た……」

 里奈は優しく微笑み、そして二度と、動くことはなかった。

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