想い

「やっと片付いた……」

 夏休みが終わる一週間前、全ての課題をやり終えた。

 折り目がついて嵩張った宿題をスクールバックに詰め込み、一ヶ月間溜まりに溜まった疲労と、ほんの少しの達成感で全身の力が抜けた。夏休みに貯金が出来るなんて、思ってもみなかったな、と背もたれに強く背を押しつけて、伸びをする。

「蓮君、入るよ」

 ドアをノックする音に続いて、里奈姉の声がした。

 いいよ、と声をかけると入ってきた里奈姉が手に持ったアイスコーヒーを僕の机に置いた。

「ありがとう。ちょうど出された宿題全部終わったんところだったんだ。疲れたよ」

「え、もう終わったの? 私ですら終わらせたの、始業式の三日前だったのに」

 里奈姉は驚いていたけど、それは当然の事だった。だって、里奈姉がたまに勉強をみてくれていたから。

 夏休みが始まった頃、積み上げられた僕の宿題をぱらっと捲って、私の時と傾向がまったく一緒、と少し呆れていた里奈姉を思い出す。でもそのおかげで、解説はすごく解りやすくて、勉強の遅れている僕にとってそれはとてもありがたいことだった。

「里奈姉のおかげだよ。ありがとう」

 僕が素直に感謝を伝えると「蓮君が頑張っただけだよ」と里奈姉は照れ笑いを浮かべた。


「ところでさ、明日部活休みだし、行きたいところあるんだけど蓮君も一緒に行かない?」

 オレンジジュースを飲み干して、里奈姉が話題を変える。

「ここから片道二時間半くらいかかるんだけど、どう?」

「することもなくなったし、里奈姉について行くよ」

「じゃあ明日、始発で出発したいから、寝坊しないでね」

 里奈姉はそう言いながら腰かけていたベッドから立ち上がり、嬉しそうに部屋から出ていった。

 ベッドの脇に置いてある目覚まし時計の針が、日を跨ごうとしている。慌てて布団に潜り込み、五時に目覚ましをセットした。

 ほんのり里奈姉の香りがするベッドは、驚くほどよく眠れた。



* * *



 電車を乗り継ぎ、終点の三崎口駅に着いてから、タクシーで目的地に向かう。途中、里奈姉がフラワーショップに寄るといい、十分程で色鮮やかな花束を手に車内に戻ったところで、僕はこれから行くところに見当がついた。

 目的地に近づくにつれ、里奈姉の表情が徐々に強張っていくのがわかる。

 タクシーを降りると、そこは海の見える霊園で、なんとも気持ちの良いところだった。

無言で歩く里奈姉の後ろを、僕もまた黙ってついて行った。

「ここに私のお母さんが眠ってるの」

 ある区画で足を止め、里奈姉が言う。

「今日はね、お母さんに蓮君を紹介しようと思ったんだ。大切な弟が出来たんだよって」

 いつもとは違う、哀愁の混じった表情を僕に向ける。

「僕もちゃんと挨拶する」彼女の意思を尊重するようにそう返した。

 墓石に水をかけ軽く汚れを落とし、花を供えて線香を置く。それから二人で里奈のお母さん、玲奈さんに手を合わせた。


 初めまして玲奈さん。長谷川蓮です。里奈姉と駿さんに命を救ってもらいました。写真では何度か玲奈さんの事を見かけていたのですが、挨拶が遅れてごめんなさい。これからよろしくお願いします。


 それ以上の言葉が出てこず、二十秒ほどで顔を上げると、里奈姉はまだ手を合わせ、そして少し泣いていた。

 自分が生まれたせいでお母さんが死んでしまったと聞いた時、里奈姉はどう思ったんだろう。玲奈さんはどれ程の覚悟をもって里奈姉を生んだのだろう。愛する人が死んで、娘が生まれて、駿さんは、どんな気持ちだったんだろう。

 里奈姉が顔を上げ、僕を見ていつものように笑って見せた。

 その涙の混じった笑顔はとても綺麗で、不謹慎だけど、どきっとした。

「帰ろっか」そう言って、里奈姉が手を差し出す。

「ちょっと待ってて」玲奈さんに伝えなきゃいけない事が、まだあるんだ。


 玲奈さん、里奈姉は僕が守ります。気付いたんです。里奈姉の笑顔を見るだけで、僕はとても満たされる。里奈姉をこの世に送り出してくれて、ありがとうございました。


 深く下げた頭を上げ、里奈の方に向きかえる。

「里奈姉、好きだ。今度は僕が里奈姉を守る」

「えっ、ちょ、どど、どうしたの急に」

 里奈姉は目に見えて動揺した。

「この想いが一方通行でもいい。里奈姉の笑顔が見れるなら、それで満足だ」

 里奈は白い肌を耳まで赤くして俯いた。


「一方通行なんかじゃ、ないよ」

 数分間の沈黙を破ったのは、里奈姉の震えた声だった。

 ようやく出たその言葉を聞き、僕は彼女を抱きしめた。僕を守ってくれた身体がこんなにも細くて小さかったなんて、今まで気づきもしなかった。

 ありがとう。救ってくれて、ありがとう。

 僕たちは玲奈さんの前で、気の済むまで泣いた。



* * *



「プロポーズは、霊園じゃない方がいいな」

 帰りの電車に揺られ、夕陽に染まる外の景色を見ながら里奈が笑う。

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