日常

 裁判の結果は何とも呆気なく、僕たちの勝利に終わった。

 僕の両親だった人たちは最後の最後まで虐待を認めなかったが、僕の証言とワニの靴が決め手となって親権を剥奪された。ワニの靴、持ってきておいて良かった、と心底思った。

両親を失った僕の後見人には、駿さんがなってくれた。

やっと、すべてが終わった。いや、ここから始まるんだ。


 東京に戻ると、少々の取り決めがなされた。

 小遣いは月に一万円。足りない時は必要な時に言う。

 家事は分担する事(ただし、洗濯だけは里奈さんが絶対に許さなかった)。

 最後に、里奈をさん付けで呼ばない事。

「お前らはもう姉弟なんだから、気を遣うことはない。俺の事は、まぁ好きなように呼んでくれ」と駿さんは苦笑した。

 僕は駿さんの言葉に素直に従ったが、いきなり里奈と呼ぶことには少し気が引けたから、「里奈姉」と呼ぶことにした。


 学校の方は七月の頭に東京の中学校に転校する手続きをし終えていて、夏休み明けから里奈姉が昨年卒業した中学に通うことになる予定だった。誤算だったのは、転入後にすぐ学年テストを行うため、膨大な量の夏休みの宿題を課されたことだった。世の中、そんなに甘くないな。

 夏休みだというのに吹奏楽部の練習がある、と学校に向かう里奈姉を見送った後、午前中の涼しい時間を有効に使おうと思い、僕は宿題の山を崩し始めた。


 ――集中して机に向かっていると、時刻は正午を回っていた。

 数学と英語の宿題をひと段落させた後、現代文の宿題を確認する為に夏休みのしおりをスクールバッグから取り出す。そこには読書感想文の文字があった。

 ふと、里奈姉に借りた文庫本の事を思い出し、息抜きがてら渋谷の喫茶店へ向かうことにした。


 内容は「悲恋」だった。

 互いが互いを愛しているのに、決して結ばれることのない二人。だけど、そのラストに描かれている二人は、とても満たされていた。

 残酷で、儚くて、切なくて、でもほんのりあたたかい、そんな話。

「私に未来が無いのなら、あなたに抱かれている今逝きたい」

 小説のラストでヒロインが言った一言に、僕は強く惹かれた。それほど想える相手がいるって、幸せだな。おしぼりで涙を拭き、余韻に浸りながらコーヒーを飲む。

 はっ、と我に返り、マスターに今何時かを尋ねた。

「二十時を少し回ったところです」

 やってしまった。

 僕はコーヒー代を払い、すぐさま家路に着いた。


「遅いっ! なにやってたのこんな時間まで」

 玄関を開けると、里奈姉がおたまを持って立っていた。

「ごめんなさい里奈姉。現代文の宿題で読書感想文があって、それで里奈姉から借りた小説を喫茶店で読んでたらつい」

 僕はなるべく里奈姉を刺激しないよう、誠心誠意事情を説明した。

「あ、読んだんだ。ねぇ、どうだった?面白かったでしょ」

 さっきまであんなに怒ってたのに、ぱぁっと里奈姉の表情が和らぐ。

「うん、面白かった。切ないけど、二人ともすごく満たされてるから、ああいう幸せもあるのかなって」

 僕の簡潔な感想に、うんうん、と頷いて満足げにおたまを振る里奈姉。

「じゃあ今日は特別に許してあげる!もうご飯出来てるから、食べよ」

 僕は胸を撫でおろし、里奈姉の料理に舌鼓を打った。


 こんな日常がずっと続けばいい。


 思い浮かべることすら困難だった、何気ない日常。


 誰もが当たり前に享受している特別な日常。


 永遠に変わらないものなんてあるはずないのに、愚かな僕はそれを望んだ。

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