厚意

「じゃあ、気晴らしに外でも歩こっか」里奈さんはにっこりしながらそう言った。

 僕はその提案にただ頷いて、ついていくことにした。まぁ、そうする以外、何もできないのだけれど。

「じゃあ、ちょっと着替えたいから、部屋の外で待っててくれる?」

 里奈さんが顔を赤らめたことで、僕はようやくここが里奈さんの部屋で、僕が寝ていたのは里奈さんの寝具の上であるということに気がついた。僕はすぐさま立ち上がり、ごめんなさい、と言って部屋から出た。廊下に出ると、やけにひんやりとしていた。今の僕にはそれがとてもありがたかった。

「ごめんね、お待たせ」

 十分後、白のブラウスに薄黄色のロングスカートを身に纏った里奈さんが部屋から出てきた。長い髪を後ろで束ねた彼女は、とても大人びていた。

「とりあえず、蓮君に似合う服買わないとね」階段を下りながら里奈さんが言う。

 僕は無駄なお金を使わせたくなかったので、これでいいですよ、と言ったが、里奈さんはその申し入れを突っぱねた。

「私が嫌なの。それに、これからずっとここに住むんだから、ちょっとは身なりを整えないと」

 その厚意に、ありがとうございます、と頭を下げると里奈さんはクスッと笑って、頭をポンポンしてくれた。


 外に出て、気づいたことがある。里奈さんの家は比較的大きい。いや、周りを見渡してもここより大きい家は見当たらないくらいだ。きっと、お金持ちなんだな。

 でも、それでいて里奈さんには驕っている様子など微塵もなかった。素晴らしい人に拾ってもらえたな、としみじみ思った。

 最寄りの駅から電車に乗り、ものの数分で目的地に着いた。改札を出ると平日の昼間だというのに人で溢れかえっていた。名古屋駅周辺でも、こんなに人はいない。迷子にならないようにと差し出された手を取り、人ごみを縫って歩いた。

 途中、有名な忠犬の像が目に入った。何故か、とても申し訳ない気持ちになった。


 大きな百貨店の中で、里奈さんが僕に似合いそうな服を品定めしている。そして、納得したように頷いて何着かの商品を僕に渡してきた。

「とりあえず、これとこれは今すぐ試着室で着ておいで」

 僕は里奈さんに言われるがまま試着室へと向かい、手渡された白いシャツに袖を通し、その上からグレーのベストを着た。ベージュの綿パンは裾を上げて貰うために店員に預け、再度僕専用になって返ってきたものを履き、里奈さんに見せた。

「どうですかね?」慣れない格好に戸惑う。

「いいじゃない!……帽子も買っちゃう?」

 流石にそこまでは、と丁重に断った。

「じゃあ次は美容院に行こうか。あ、会計はもう済ませてあるから」

 財布をひらひらさせる彼女に、僕は一生逆らえないなと思った。


 服を買い、髪を切り、一通り身だしなみを整えた後、僕らは最寄りの喫茶店に向かった。渋谷駅からさほど離れていないのに、店内はとても静かだった。レトロな空間に穏やかな曲が流れていて、まばらにいる客はそれぞれ思い思いに寛いでいた。ここは里奈さんお気に入りの店らしい。

「いい雰囲気のお店でしょ」

 向かいの席に座った里奈さんはメニューも見ずに、いつもの、とマスターに告げる。

「落ち着きますね。外とは大違い」僕は何を頼んでいいか分からず、とりあえずホットコーヒーを注文した。

「ここで小説を読んでる時間が一番好きなの。そうだ、蓮君に貸してあげるよ。私の好きな小説家さん、二夏依さんの最新作なんだ」

 里奈さんが徐にハンドバッグから一冊の文庫本を取り出して僕に差し出す。

茶色いブックカバーがかけられたその文庫本を受け取り、数ページ捲ってみる。今まで活字の本なんて読んだことのない僕は少し敬遠しそうになったが、里奈さんのオススメを断る理由にはならなかった。

「お待たせしました。ホットコーヒーとメロンクリームソーダです」

 紳士的な初老のマスターが注文の品を置いた時、思わず吹き出してしまった。だって注文する時、里奈さんが「いつもの」って言って、十五センチ程度のグラスに、まあるいバニラアイスと可愛らしいさくらんぼがのったお子様用の飲み物が出てくるなんて思わないだろう。

 腹を抱えて笑いを堪え、小刻みに震えている僕を見て里奈さんが不満げな表情を浮かべた。

「この世で一番美味しいの、知らないの?」

 アイスを乱暴に掬い、口に運ぶ里奈さん。

「いや、でも、ギャップが」そのギャップが、とても可愛らしい。

「もう。でもいいや。やっと蓮君の笑った顔見れたし」

 はぁ、とため息をついて、またいつもの優しい笑顔に戻った。


 心の底から笑えたのはきっと、この日が初めてだった。

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