恩赦

 家を出て二ヶ月もすると、僕は自分の無力さを知った。

 一人の生活は自由だったが、不自由でもあった。なんせ金が無い。一日の食事すらままならない。かといって働ける年齢でもない。もう為す術がない。東京という街は、強者のみが存在することを許されている。

 痛みから逃げて得た自由は、理想とはだいぶかけ離れた姿をしていた。僕に逃げる力をくれた死は、代償を求めるように僕の命を奪おうとしている。それが怖くて堪らなかった。ここ数日、毎日死から逃れる方法を考えていた。だけどもう、考える気力すら、枯れてしまった。

 明日、死のう。

 親から逃げ、痛みから逃げ、故郷すら捨てて逃げても死からは逃れられないのだ。なんだかよくわからない絵の描かれたコンクリートの壁に身を寄せて横になり、そう思った。どこでどのように死のうか。エネルギー切れを起こした貧弱な脳みそで考えようとした刹那、視界が真っ白に染まった。

「君、ここでなにをしている」

 威圧的な野太い声が耳に入り込んできた瞬間、頭で考えるより先に身体が動いていた。ライトを持っている手をおもいっきり噛んで、力いっぱい押し倒して無我夢中で走った。

「待て、こら!」

 後ろから叫び声が聞こえるが、振り向いている余裕はどこにもなかった。あの男に捕まったら、きっとあの家に連れ戻される。それは、死よりも辛い。

 明日死ぬんだ! 自由なまま死んでやる!

 今残っている力を振り絞って逃げた。一歩でも遠く、少しでも速くあの家から距離を置くように必死に走った。脚が痙攣を起こし、動けなくなる頃にはもう、声は聞こえなくなっていた。



* * *



 気がつくと、知らない匂いがする布団の中にいた。飛び起きて辺りを確認する。清潔感のある、整った部屋だった。

 難しそうな本が並んだ本棚。

 少し大きめのテレビ。

 参考書が置かれた学習机。

 部屋の中央には、白い丸テーブル。

 すぐに、ここがあの家ではないのが判ると腰が抜けそうになった。僕は、追いかけられた後どうなった? 記憶があるのは、足が痙攣して動けなくなったところまでだ。頭を悩ませていると、おもむろにドアが開いた。

「おはよう」

 咄嗟にドアの方へ目を向けると制服にエプロン姿の女の子がそこにいた。思考は完全に停止し、言葉を発する事も出来ない。そんな僕に向かって優しく微笑んだ彼女は、まるで捨て猫を拾った少女のような瞳をしていた。

「もうすぐおかゆできるから、待っててね」

 彼女はそういうと、鼻歌を歌いながら階段を降りて行った。暫く呆けていると、あることに気付いた。着ている服が、父の物じゃない。上下黒の安っぽいジャージで、下着も真新しいものだった。……下着も?

 一気に顔が紅潮した。停止した思考が音を立てて再稼働し、状況から推測するに、僕は彼女に。布団に顔を埋め狼狽していると、再び彼女が部屋に入ってきた。

「ふふ、なにしてるの? おかゆ持ってきたよ」

 一人用の鍋を丸いテーブルの上に置いて、彼女は微笑んだ。

「私、佐藤里奈。あなたは?」

「僕は……長谷川蓮です。あの里奈さん、僕はなんでここに」

「なんかね、昨日お父さんが家に帰ってくる途中にゴミ捨て場で拾ったって」

 ゴミ捨て場。なんだか僕にお似合いだな。でも死に場所がゴミ捨て場じゃなくて良かった。死に場所くらい、綺麗な所でもいいじゃないか。「それでね」と、彼女は続ける。

「私に、今日は学校休んで君の……蓮君の面倒見てなさいって。勝手よね」

 そう言いながらも、彼女の表情はまんざらでもなさそうだった。

「ほら、おかゆ冷めちゃうよ。食べたら話の続き、しよ?」

 鍋の蓋を開けると、玉子が程よく絡んだ美味しそうなおかゆがぐつぐつと小気味良い音を鳴らしていた。スプーンいっぱいにおかゆを掬い、フーッと息をかけ、火傷しないよう恐る恐る口の中に運ぶ。……美味しい。

 数日ぶりの、いや、生まれて初めてのまともな食事に舌が火傷するのも忘れて搔き込んだ。食事でこんなにも満たされるなんて知らなかった。とても温かい。自然と、涙が零れ落ちた。彼女は、そんな僕をただ黙って見ていた。

 

 それから僕は里奈さんに、自分の生い立ちや、どうして東京にいるか、なんでゴミ捨て場にいたのかを話した。彼女は時折、哀しげな表情で相槌を打ってくれた。嗚咽まじりになんとか全てを話しきった後、彼女はこんなことを言った。

「じゃあ、ここに住めばいいんじゃないかな?」

 僕はそのあまりに突飛な里奈さんの提案に、動揺を隠せなかった。

「そんなの、ダメですよ」

「どうして?」

「迷惑かけちゃいます」

「全然迷惑じゃないよ?」

「僕が悪いヤツだったらどうするんですか」

「大丈夫。そんな風には見えないから」

「人を見かけで判断しちゃダメです」

「見かけどおりだよ」

 里奈さんは一歩も引かなかった。そこまで意地を張る理由が、僕には見当もつかなかった。

「うちはね、お父さんと私の二人暮らしなの。お母さんは私が生まれた時、代わりに死んじゃったんだ。だから、お母さんの部屋が余ってるし、行く当てがないなら、ここに住みなよ。お父さんも蓮君の事心配してたし、きっと賛成してくれるよ」この言葉を聞いて、納得した。

 彼女も、生まれた罪を背負っている。母親殺しという、大罪を。

 だから形は違えど、生まれた罪を背負っている僕にここまで情けをかけてくれるんだ。自分自身が、してもらいたいようにしてるんだ。

「本当に、良いんですか」

 僕は抗うことをやめ、里奈さんの目を見る。里奈さんは、いいよ、と二つ返事で居候として住むことを了承してくれた。また、自然と涙が溢れてきた。出会ってからまだ数時間ほどしか経っていないのに、僕は里奈さんに情けない顔しか見せられていない。男のくせに、とか思われていないだろうか。女々しいと思われたくはなかったが、どうにもあふれる涙を堪えることが出来なかった。

「よく頑張ったね」

 里奈さんが、そっと頭を撫でてくれる。それがとても心地よかった。温かい里奈さんの手で優しく撫でられていると、罪が溶けていくような、そんな感じがした。

 僕は、死ぬ日に生き返った。

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