逃避
ボロボロになって帰った僕を見ても母さんは心配しなかった。でも、ただ転んだだけとは思っていないだろう。それほどに、顔は腫れ上がり、至る所に擦り傷をつくって帰ったのだから。
もしかしたら、いじめには気づいているけど、あえて無視しているんじゃないだろうか。いじめが原因で死ねばいいなんて、都合のいい事を考えているのかもしれない。
リビングにある救急箱を開け、消毒液を浸み込ませたティッシュで顔を拭き、慣れた手つきでガーゼを貼る。簡単な処置を済ませた後、冷蔵庫からレトルトのカレーを、茶箪笥から買い置きのパンを取りだして温めて食べた。
いつになれば、生まれた罪は償えるのだろう。生きていれば生きていくほど状況は悪化する。この世に望まれていない僕に対する罰は一体どれだけ増え続けるのだろう。
カレーを塗ったパンの最後のひとかけらを口に放り込んだ時、ふと、思った。
なんで生きなきゃいけないんだっけ。
なんで痛みに耐えなきゃいけないんだっけ。
望まれてないなら死んでもいいよね。
それから、我慢という僕の中の感情のダムが決壊するまで、それほど時間はもかからなかった。
食事を済ませ用済みになった食器を下げようとした時、手を滑らせて皿を割ってしまった。その音を聞きつけて飛んできた母さんが鬼の形相で一気に間合いを詰め、僕の頬を打った。せっかく貼ったガーゼが弾け飛ぶほどの衝撃だった。
「まともに飯も食えないクソガキが!」
そう言って母さんは再び右手を振り上げた。
いつもなら恐怖に怯え、ただ殴られていただろう。でも、生きていく理由を見失った今、僕はひどく冷静だった。振り下ろされた右腕を掴み、思いっきり母さんを蹴り飛ばした。何が起こったかわからない、といった表情のそれの髪を掴んで顔を上げ、僕は優しく微笑んだ。
「飯もまともに作れないクズが言えたことかよ。快楽の末に誤って望みもしない僕が生まれたなら、望みもしない親なんか僕の方から捨ててやる」
涙を溜めたそれを見て、ちょっと前の僕がいかに惨めなものであったかを知った。
放心状態のそれの髪を離し、台所で手を洗う。汚い僕を生んだ女だ。きっと僕より汚い。納得いくまで石鹸を濯いだ後、母の財布から金を抜いた。七万円、まぁ充分だろう。父のクローゼットから着られそうな服を盗り、身支度を整えていまだ動けずにいるそれを一瞥し、家を出た。
夜風が気持ちいい。全ての苦痛から解放された気分だった。父が帰ってくる前に、どこか遠くへ行こう。今ならなんでもできる気がした。弱かった僕は、もういない。
足に羽が生えたような、そんな錯覚に陥るほど軽い足取りで僕は名古屋駅へと向かった。駅に向かう途中、母親に手を引かれた子どもが僕の横を通り過ぎた。その幸せそうな光景に、石を投げつけてやりたくなった。
賑やかな構内を歩き、路線図を見上げる。どこに向かおう。売店で買ったお茶で喉を潤しながら考える。人目につかない場所、目立たない環境……。都会。東京。あそこなら上手く身を隠せるかもしれない。名古屋からなら、新幹線を使えば行けないこともない。
すぐさま僕は窓口で東京までの乗車券と特急券を買った。もう、この街に戻ってくることはない。この街ごと、過去の僕を捨てるんだ。
十九時二十二分。自由な未来を勝ち取った者を歓迎するかのように乗車口が開く。僕は満足げに、ゆっくりと車内に乗りいれた。
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