第4話 魔狼は、あたしたちを追ってこなかった。
ふたりめは森に行った。狼に追われて、喰われて死んだ。
数え歌があたしの頭の中で木霊する。
二匹目の黒猫は『狼に喰われて』死んだのだ。あたしたちはその狼の姿をチリとヤヨイの『
けど──まさか、こんなに大きいなんて。
セントバーナードの倍はあるよ!
唸り声をあげ、警戒しつつ近づいてくる。魔の狼と呼ばれるだけあって、そいつは地球の狼とはずいぶんと違っていた。
まず、大きさがちがう。牛か馬かってくらいの大きさがある。少なくとも横幅だけであたしの倍、いや三倍はある。
さらに、目だ。薄暗い地下道の中で青白い光を放っていた。
全身を覆う硬そうな毛は焦げ茶色で、背中のあたりだけが赤くて、たて髪のように逆立っていた。
「あ、あの拷問の光景って百年前、なんだよね……。なんで、こいつ……」
「生きてるのかって? そりゃ、怪物だから──と、言いたいところだが、ちがうな。生きてるんじゃなくて、生かされてるんだ……」
生かされてる? 誰に? あるいは何に?
あたしの肩の上、レモンが身体を低くして、うう、と唸る。毛が逆立っていた。尻尾なんて倍くらいに膨らんでいる。
「わかった。すべてわかったぞ、ユズハ!」
低い声でレモンが言った。
あたしは明かりの点った杖を左右に振る。こっちに来るなというように。魔狼はそれを見て、歩みをすこし遅くした。警戒してるのだ。……こいつ、なんて用心深い。
「ナ、ナニが……わかったの?」
「真相だ。答えだ。なぜ、呪いがいまだ続いているのか、だ」
あたしはレモンの言葉の続きを待つ。
「なぜ、王女の幽霊は黒猫たちに会えない? なぜ、猫たちは王女に会いに来ることができないんだ? 出会えていれば、願いは成就して呪いは解けているはずなんだ」
「……出口が見つからない、のでは?」
「幽霊だぞ。関係あるか。床を突き抜けてくりゃいいだろ!」
「じゃ、猫たちが怖がるもので逃げないようにしてある、とか。ほら、ペットボトルでずらりと囲んである、とかさー」
「そんなの百年前のこの世界にあるわけない、ばかユズハ!」
む。バ、バカはないんじゃないかな?
あたしは緊張をほぐそうとして、ですね……嘘です、ごめんなさい。
だって、怖いよー。いま、こうして話している間にも、魔狼はよだれみたいな何かを口元からだらだらと垂らしながら迫ってきている。
怪物との距離は縮まっていて、もう五歩もなかった。二メートルくらいか。身を低くして唸っていて、今にも飛びかかってきそう。
「この奥」
シィがぽつりと言った。
「いますね、猫たちが」
ブランシュが後を続けた。
あたしがその言葉に驚いている間に、シィは持っていた光る杖を魔狼の背後へと放り投げた。
くるくると杖は回って飛んでゆく。狼の背後、五メートルほど向こうでからんと音がした。床に落ちた杖から、ぼうっと明かりの輪が広がって、その明かりの輪の中に浮かびあがったのは、牢屋みたいな鉄の格子がはまった部屋と──、
うずくまる猫たちの姿が九つ。
「猫だ!」
黒猫たちはみな耳を伏せ、尻尾を丸めて、怯えたように縮こまっている。さっき、あたしが近寄ったときの大臣猫たちのよう。あたしの脳裏で閃光が走り抜けた。
わかった!
「この狼が怖かったから、逃げられなかったんだ!」
「あたり! っと、避けろ、ユズハ!」
魔狼が跳ねた!
あたしに向かって飛びかかってくる。
「くるなぁあ」
あたしはわめきながら思いっきり狼めがけて杖を振る。でも、怖くて目をつぶってしまったものだから、当たるわけもない。ぶんと空を切った。床にあたって杖は砕け散り、あたしは反動でバランスを崩してしまった。
うつぶせに倒れかけたけど、なんとか身体をひねって背中から落ちた。
「っう!」
息が肺から出てしまって、一瞬、呼吸が止まる。く、苦し……。
目を開くと、岩の天井が見えた。視線をめぐらせると、あたしのいたところに魔狼がいて、その向こうにお城の兵士たち。一番前には、ブランシュを抱いたまま、シィがあたしを見ていた。
「に、逃げ、て!」
掠れ声でシィに向かって叫ぶが、彼女はふるふると首を振った。あたしの声に反応したのは魔狼のほうで、くるりと振り返った。
「こっちのほうが気になるとさ……」
レモンの声。身体を起こしたあたしの脇にぴたりと寄り添ってくる。
魔狼がじりっとあたしのほうへと歩を進めた。
「ひっ……」
むちゃくちゃ怖い。喉がからからに渇いてた。後ろ手をついて、尻もちをついた体勢のまま、あたしは下がろうとして──。
「いっ!」
ついた手を、転がっていた尖った石の先で切ってしまった。あわてて傷を口許にもってくる。舐めると鉄錆の味がした。血の味だ。床を砕いても平気だった手のひらに、深い切り傷ができていた。
「落ち着け。根本的に鍛えてるわけじゃねーんだ。気を抜くと、魔法の効果が消えるぞ」
あくまで一時的に魔法で強化してるだけってことか。魔法の助けがないあたしの身体は別に鋼でできているわけじゃないから、こうして容易く傷ついてしまう。まずい。恐怖に負けそうだ。
身体が震えてきた。わきあがってきた恐怖心があたしの身体を縛りつける。
こわい。誰か助け──。
「来るぞ!」
「きゃああ!」
魔狼が身体を低くたわめてから、跳びかかってきた。
狙っているのは、あたしの──首筋!?
だめだ。怖くて身体が動かない。
避けられない!
そのとき、目の前に迫ってくる牙に、大きな塊が飛び込んだ。
くぐもった悲鳴と、目の前に散る赤い──血。同時にあたしのお腹に激痛が走る。
「か……はッ!」
喉元に血がこみ上げてきて、あたしは吐いた。口許を押さえた手が真っ赤だ。あわててお腹をさわってみるけれど、そこには傷ひとつない。つまりこの痛みは……。あたしは顔をあげる。
脇を駆け抜けていった魔狼の後に残されたのは、倒れた──、
「レモン!」
あたしは這うようにしてレモンの元に辿りつく。
「レモン! レモン、しっかりして!」
「逃げ……ろ」
それだけ言って、レモンが目をつぶる。黄色い毛並みのお腹のあたりが血で真っ赤になっていた。
狼の牙に引き裂かれたのだ。あたしをかばって。
あたしのお腹の痛みはレモンが傷を負ったからだった。魔法使いと使い魔は繋がっている。
あたしはレモンを抱きあげる。
呼吸が弱々しい。
うなり声に顔をあげると、狼が再びあたしたちを狙って、飛びかかってこようとしていた。闇の中で煌々と両の目が光っている。
背中からブランシュが、「ユズハ、こっちへ!」と声をかけてくる。
魔狼とは位置を入れ替えたから、後ろに猛ダッシュすれば逃げられるかもしれない。
ここからは誰も……出てはならぬ……。
声がした。
最初は狼がしゃべりだしたのかと思った。
けれど、その声は魔狼のすこし上のあたりから聞こえてきていて、目をこらすと、狼と重なるように、ぼんやりと人の姿が見えてくる。
透き通った身体はまるで狼の背中から生えているよう。
猫は我が虚ろのなかより外には出さぬぞ……。
ひどく年老いた顔をした男の姿だった。
王様のような立派な服を着た。ちがう!
「ような」じゃない。
王、だ。
ユグラリア王国の最後の王。『
あたしはようやく理解する。こいつ、だ。百年も怪物を生きながらえさせていたのは、こいつだと。
この王の幽霊なのだと。
レモンを抱えたまま、あたしはじりじりと下がった。
逃がさぬ……。ここからは誰も……。
地の底から響いてくるような声はあたしたちの背中に留まり続けた。
魔狼はあたしたちを追ってこなかった。
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