第2章 猫の王
第1話 静まり返った城の中に女の子の声が聞こえる。
窓の外は夕暮れを通り越して暗くなっている。
窓、といっても、見慣れている窓とは随分と違う。石の壁に開いた穴に過ぎない。窓ガラスのようなものはなくて、風が直に吹き込んでくる。寒いときは、跳ね上げている木の板でできた覆いを降ろして風を防ぐ仕掛けだった。
窓の下に椅子を寄せ、黒々とした夜空にきらめく星たちを見上げている。
「何か、見えるか。ユズハ」
レモンの声だ。
振り返ると、毛足の長い絨毯を踏んで黄色い毛並みの猫が部屋に入ってくるところ。
レモンに従っていたらしき若いメイドが、一礼をして、あたしが開け放したままだった扉を閉めてから出て行った。
ほんとに猫が主人の世界なんだなぁ。
「もう、用事は済んだわけ、王様?」
王様、という単語に少しからかいを込めたつもりだったけど、レモンときたらその言葉を当然のような顔をして聞き流した。
「いちおうな」
言葉の通り。マタタビ飴騒動は収まりつつあった。
庭や、窓から降り込んだマタタビな飴はあらかた掻き集められて片付けられ──氷じゃないから、放っておいては溶けないのだ──酔っ払い猫たちも平静になっている。
もっともお城の屋根とかに落ちたものまではさすがに取れないようで、次に本当に雨が降って流れ落ちるまでは、お日様の熱で溶けてしまった飴のために、お城は七色の飴色のままだ。サイケデリックな眺めになってた。
そこまでは夕食のときに、ハナコさんから聞いた。
レモンはその間、昼も夕も食事をとらずに、城や街の猫たちをマタタビ漬けにしないために頑張っていた、らしかった。酔っ払いの世話も王様の役目とは大変だ。
「あたしもレモン様って呼ばないと、マズイ?」
「無理はやめとけ。できねーだろ?」
う、見抜かれた。どうしても、あたしには目の前のレモンイエローの猫が町内をうろついているかわいい子猫、という意識から切り替えられない。
「ま、まあ。でもほら、あ、あなたにも、世間体ってものが」
「なーにが世間体だよ。柄にもねぇ」
「む。なによ」
「大丈夫だって。魔法使いと使い魔は一心同体って見なされるからな。ここじゃ、ユズハのことを不遜だと言って怒るヤツはいねぇよ」
それはそれでどうなんだろう。使い魔になったのは偶然なのに。いいのか、そんなんで?
「で、何か見えたか?」
暖炉の傍のソファにひょいと乗ってレモンが言った。肘掛けに前足を乗せて、あたしのほうを見てる。これが王様かぁ。やっぱりちょっと威張りんぼの子猫にしか見えない。かわいいんですけど。
「……星が」
「星、ね」
「北斗七星が見えるよ」
レモンが感心した、という表情をする。
猫ってこんなに表情豊かだっけ?
キャッティーネに来ると、猫たちが変わるのは毛並みだけではない、とあたしは思う。言葉をしゃべることもそうだし、なんだか人間と変わらない表情を浮かべるのだ。
「そうか。星座に気づいたか」
「うん」
始めは星が多すぎて圧倒された。田舎というものがない都会育ちのあたしは、文字通りに満天の星なんて見たことがなかったのだ。
でも、しばらくして見慣れた星座があることに気づき……。ひとつの疑問が浮かんだ。
「ここ……地球なの?」
「正確に言えば、違う。平行世界ってやつだな」
「へいこうせかい?」
「分岐の果てのもうひとつの地球だよ」
平行世界という概念を、レモンが解説してくれた。
それによると──。
例えば、1から6までの目があるサイコロがひとつあったとする。
振ったら、1が出た。これがあたしが元々いた地球だとしよう。
でも、ひょっとしたら2が出たかもしれないし、6が出たかもしれない。どれも確率は六分の一で、そういうことがないとはいえない。
そんな、サイコロで2が出た世界とか、6が出た世界というのが、実はどこかに本当にあったとしたら?
平行世界というのはそんな世界だ。
レモンはそう教えてくれた。
「確率的に可能な世界は、実はどこかに本当に存在する。平行世界理論ってのは、そういう理屈だな」
「アドベンチャー・ゲームの分岐ルートみたいなもん?」
「……ユズハ、おまえの例えはゲームかマンガしかないのか?」
「馴染み深いもんで。あ、アニメもあるよ」
レモンがため息をついた。
「わかってくれりゃ、なんでもいいけどな。キャッティーネは地球ではないが、確率的にはすごく近い世界だ。無数に存在する平行世界の中ではお隣といってもいい」
時は分かれて果てもなく、とレモンがつぶやいた。どうやら、平行世界というのはいっぱいあるらしい、とそれだけはわかった。で、猫という生物は、その平行世界の間を行き来できる、と。よし、そこまではOKだ。納得はできないが理解はしたぞ。
「だから地球と似てるんだね」
「似てるが、違う。見慣れない星もあったろ、ユズハ」
「あるはずの星がなかったり?」
北斗七星が六星だったかもしれないってことだ。そうなっていたら、あたしは気づかなかったかもしれない。知っている星座なんて、有名なやつの二つか三つだ。オリオン座とか。でもあれって冬の星座なんだよね。この世界は春で、北斗七星が昇っててくるところだったからなんとかわかった。
「例えば、この世界には死兆星はない。北斗七星をよく見てみ」
「あたし、そこまで目がよくないもん」
窓の外をちらりと見る。大きな柄杓の柄のところ。持ち手のあたり。目が良ければ星が二つ見えるはず。どこかの国では大昔に視力検査にも使われたという。
「アルコル……だっけ?」
ミザールのお隣にある星、アルコル。確か「かすかなもの」という意味だ。
「ユズハは星好きか」
「というか、父さんが好きだから」
あたしにゲームやらマンガやら教えてくれたのも父さんだった。
「ここは、アルコルのない世界で猫がしゃべる世界ってわけ?」
「だけじゃないけどな」
「ねえ」
あたしはレモンのほうへと向き直る。気になって、聞きたかったことがある。
「なんで、みんな日本語をしゃべってるの?」
「このあたりじゃ、みんなそうだぜ」
「えっと。だから、なんで?」
「そりゃ、〈キャイネ〉の猫がみんな日本生まれだからだろ?」
「きゃいね?」
「キャッティーネの中の一部、このあたりを、俺たちはキャイネって呼んでるんだ。国の名前でもある。キャイネ国ってことだな。キャイネの猫は日本産なんだ」
説明は済んだとばかりに言って、レモンは前足の間に顔をうずめて目を閉じた。
って、ちょっと待ってよ。そんなんで説明になるかー!
あたしは慌ててソファに駆け寄り、レモンを揺する。
「ちょっとそれおかしくない?」
「何がだよ……」
ものすごく眠そうな声。疲れているんだな……。そういえば、昼過ぎからずっとご飯も食べずにって言ってたっけ。でも、気になるんだよー。
「だって、名前はみんな日本っぽくないし!」
おばあちゃんメイドのハナコさんを除けば、聞こえてきた街の人たちの名前や猫の名前はカタカナっぽかった。それに、とあたしは思う。このお城とか街並みも。西洋風で、どこにも日本らしいところはない。
「もうちょい西に行けば大陸の言葉をしゃべってるし、東の海の向こうじゃ、英語をしゃべってるって聞くぜ。おかしくないだろ? 平行世界なんだから……さ」
いや、その理屈はおかしい。
あたしはレモンを揺すって起こそうとした。もっとちゃんとした説明を聞かないと納得できないよ。それに、あたしはいつ地球に帰れるのだろう。でも、レモンはとても疲れているらしくて、いくら揺すっても口を開こうとしなかった。無理にでも起こして聞いていれば、もっと早くこの世界の色々なことに気づけたかもしれない。でも──。
暖炉の前は暖かく。気持ちよさそうに目を閉じて喉をかすかに鳴らすレモンを膝をついて見ていたら、あたしのまぶたも重くなってしまった。
うとうと、と船を漕いで。
はっと気づいた時には、たぶん何時間かが過ぎていた。もう真夜中だ。城の中も静まりかえっている。肩に薄い布が掛けてあった。ハナコおばあちゃんに違いない。
ぱちり、と暖炉で火がはぜる音。
レモンが起きていた。
四本の脚を伸ばしてソファの上で立っている。もう寝ていない。彼の瞳が金色なことに遅ればせながらあたしは気づいた。まっすぐにどこかを見ている。
「どしたの?」
まだぼんやりする頭であたしはレモンに声をかけた。
「来たか……」
レモンが言って、ソファから飛び降りる。そろそろと音を立てないように扉の近くまで行って、床の上二十センチほどの高さまで伸びている呼び鈴の紐を咥えた。
なるほど、そうやって呼ぶのか。
猫の足が届くところにドアの取っ手はない。ああやって呼び鈴を鳴らすと、人間のメイドとか部下がやってくるわけだ。
ところが一度は咥えた紐の端をレモンは口から離した。
あたしのほうに顔を向け、それから、くいっと視線を扉のほうへと向ける。
開けろってわけ?
声を出してはいけないことは何となく察せられたので目で答える。
さっさとしろ、とレモンの顔が言っていた。
わ、わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば。あたしは、偉大な王様で魔法使いなレモン様の『つ・か・い・ま』ですからねっ。扉くらい開けてあげるって。
足音を立てないようにして扉に近づく。真鍮製らしき取っ手をつかんだところであたしの耳にも聞こえてきた。
声、だ。
小さな女の子の声。
真夜中の。
静まり返った城の中に女の子の声が聞こえる。
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