第5話 鯖の味噌煮
少し長い間、彼は来なかった。何やら忙しいらしい事は話に聞いていたから、連絡がない事もあまり気にはならなかった。あの日彼が置いて帰ったワイシャツが部屋の隅に干してある。洗濯した後に気付いたのだけど、柔軟剤の匂いがしっかりとついてしまった。彼に普段使っている柔軟剤を調べて置いて欲しいと言い、それまで部屋に置いておく事にした。しかし、その返事もいまだに無い。たぶん柔軟剤の事は忘れてしまっているのだと思う。そんな風にして、彼に合わない時間は過ぎた。
"今日行けると思う。鯖の味噌煮が食べたい"
久々に来た連絡は、電話ではなくメールだった。よほど忙しいのだろう。
私は、その日会社を早退した。私の職場はさほど忙しくは無く、申し出れば余程の事がない限り帰らせてもらえる。2時過ぎには会社を出て、帰りに商店街で買い物をした。スーパーでは無く商店街で早い時間に買い物をしておきたかった。駅について直ぐに向かったのは、もちろん魚屋だ。魚屋で鯖を選んだ。季節も悪く無いどれも良さそうな鯖だった。その中でもまるまるとした物を2尾選んで買い求めた。「どのように捌きますか」!マークでもつきそうな勢いで尋ねてくる店主に、自分で捌くからと断わると、「若いのに珍しいね」と言って、代金を少しおまけしてくれた。私は財布から現金を出してそれを払った。その後、八百屋でネギと生姜を買い求め、それも現金で払った。今日はカードが使えなくてもよかった。なるべく良い物を選んで買いたかった。
材料が全て揃い、部屋に向う。まだ日も高く仕込みの時間も充分だ。
部屋に着くと玄関の前に懐かしい顔があった。物件数No.1不動産の担当鈴木さんだ。あの時と同じように困った顔をしている。一体どうしたのか。
「やっと会えた。何回も連絡したんですよー。」連絡なんて来てないはずだと思ったが、そもそも知らせてある連絡先が彼のものなので、私に連絡が来るはずもなかった。「どうかしたんですか?」そう尋ねると、鈴木さんは、みるみる顔を強張らせた。「どうしたもこうしたも、家賃。一回も払っていただいていないようなんですが。どうされました?」「え?」今度は、私が顔を強張らせる。家賃は全て彼が支払う事になっている。「ちょっと待ってください。いつからですか?」とぼけないでくださいよ。と鈴木さんはぼやきながら、最初から一回も支払われていない事を聞かされる。顔から血の気が引いた。「すぐにお支払いします。荷物だけ置かせて下さい。」そう言って部屋に入った。荷物を置いて、彼に電話をかけたが出なかった。仕方がなく財布だけ持って部屋をでる。鈴木さんに、これからお金をおろしに行くと伝えると近所のコンビニへ向かった。
コンビニのATMにまず彼のクレジットカードを入れてみる。必要であればキャッシングも構わないとは言われている。でも今までそれはしなかった。あくまでも確認のつもりだ。
思ったとおり、彼のカードで現金を引き出す事は出来なかった。
"ホテル代より安くつくから"そう言って借りた部屋だった。確かに外で食事をしたり、その度にホテルへ行っていては出費がかさむ。私は彼の言葉にそのまま甘えて、何も疑っていなかったのだ。
今度は自分のカードを取り出した。なんとか言われている分は支払える、それと今月分も。私はギリギリまで現金を引き出すとそれを持って鈴木さんの元に向かった。
鈴木さんはそれを受け取るとホッとした顔をしていたが、私がすぐに部屋の解約を申し出ると、また顔を曇らせた。私は構わず、後日お店に行くとだけ伝えると部屋に入った。
鯖の味噌煮はうまく出来た。しかしその後、彼からの連絡は無かった。
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