第3話 お祭り騒ぎ、戦争がどうあれ僕は猫なんかじゃない

 休日の朝はひどく静かでどこか騒々しい。 平日の朝とは違うのだ。

……にしても、今日の朝は違い過ぎる。

早い時間からやたらと威勢の良い声がガンガンと響いて、僕の目蓋をこじ開けた。

目をパチクリと開いて窓から顔を出すと、手に旗を持った人達が通り過ぎた。

「一体何の騒ぎなの?」

僕が階下に降りると、母親は苦笑気味に

「勇者様の御到着ってとこね。もう大騒ぎよ、大人達はこぞって病院に向ってるわ」

はあ?

良く冷えた水出しコーヒーに口をつけると、脳がくるっと回転するのを実感する。

朝の冷えたコーヒーは世界で最も有能な馭者だ。

僕は鼻をうごめかす。

そうだ、あのナントカっていう将校殿がやってきたのか。

「なんか騒ぎを避けるためにこっそりやって来たらしいんだけど、全然。効果なし。もうお祭りね」

「作戦失敗ってわけか、将校殿もまだまだだね」

「なぁに生意気な事言ってんのよ。そんな事言う前にコンツェルトをお風呂に入れなさい」

「あ」

しまった、昨日やるはずだった事すっかり忘れてる。

まるで一つもやっていない。

例えば、フィーネから借りた『リュート宮廷小話集』とかいう古典のけったいな本だとか……(別に僕が読みたくて借りたわけじゃない。なんというか、話の流れでつい。良くあることでしょう?「ああ、それおもしろそうだね」とか言ってしまうことって。「あれ、読んだ?」ってしつこく聞かれる事って。)……も、読まなけりゃならないし。

まあ、とりあえずは何よりも、コンツェルトを風呂の中にぶち込まないといけなかったのだ。

朝飯はミルクとポタージュ、オリーブオイルを塗ったパンだから、あっという間になくなってしまう……要するに起きてから十分足らずで僕はコンツェルトとの格闘にもつれこんだわけ。

この猫は、毎度の事だが風呂を嫌がる……と言って、本当に嫌なわけじゃないらしい。

僕が金だらいにお湯を注いで準備していると、目ざとくその様子を盗み見しているのが常で、気付いて振返るとヒゲを、ぴくっ、と動かし、ゆっくり後ずさる。

「まぁまぁ、今日の所はいいじゃないか」とでも言わんばかりに情けない媚態を作って、二本の尻尾を振ったりする。

それを追い詰めるのが中々大変で、さりげなく回り込まなければならない。

じりじりと隅に追いやって、退路を断つのだ。

「さあ、暴れるなよ。お風呂大好きな平和主義者だろ」

大体、左右に逃げようとするから、そこをふん捕まえる。

と、まるでこの世が終るかの様な絶望的な鳴声を上げて、手足をバタバタさせる。

「ほら、わかったから暴れるなって!」

で、金だらいのお湯につっこむと静かになる。

まるでこの世の幸福を一時に集めたかの様な恍惚の鳴声を上げて、湯舟につかって目を細める。

気持ちいいのがわかってるなら最初から落着いて入ってくれよ、と思うのだが、何故だか抵抗したいらしい。

身体を洗って、僕がタオルを広げると自分から飛び込んでくるくらいにホクホクしているのが、またなんとも憎らしい。

僕が身体を拭く前に自分からタオルに戯れるのだから、世話はない。

まったく、いい気なもんだ。でも、タオルが痛むから程々に。

「ソロ」

僕がシッポを掴んで、コンツェルトの興を幾らか削いでいると、台所から母の声が飛ぶ。

「買い物行って来て」

「ええ、だって……」

四の五の言う間もなく、僕の方に財布が飛んで来た。

いやだな、あんなに騒がしいのに。

表に出たい気分じゃない。

「ほら、さっさと行きなさいよ」

「はあい」

結句、僕は自転車に 跨がらざるをえないのである。


 それにしても、一体世の中はどうなってしまったのか。

お祭りじゃあないんだよ、一体誰が来たのか僕なんて名前さえ覚えられないのに、この大騒ぎ。 赤い旗に紙吹雪。

往来にまで騒動は波及しているらしく、政治結社だの何だのが演説までする始末。

僕は、そういう人々をすり抜けて自転車を漕ぐ。

普段は街の通りを突っ切って、ささやかなオベリスクの立っている広場の行き付けのお店で用をすませるのだけど、この騒ぎの中を行くのはちょっと気が引ける。

と、なると……

「海岸線にある店か」

僕は自転車を切って反対側に漕いで行った。

途中で行き会った八号線は人だかりになっていて、相変わらず封鎖されている。

多分ここを行列の御輿が通るんだろう。

まあ、どのみち件の雑貨屋兼食糧屋は海岸線を行かなければならないから、関係は無いのだけれど、あんまりの大騒ぎにフィーネの事が少し心配になった。

あとで、ちょっと顔を見に行こうかな……人がいなくなったら。

さて、海岸線を気持ち良く滑っていると、不意に買い物の内容が気になって、途中で止まり財布の中につっこまれたメモを確認した。

財布の中の貨幣とメモを比べると、ちょっと余るかもしれない。

じゃあ、駄賃代わりに炭酸水くらい買ったって文句は無いだろうな。

「おい、小僧。早く行けって!」

「え?」

僕の後ろには、国旗の刺さった三輪バイクが止まっていて、ゴーグルをつけた男が喚いていた。

「ほらぁ、早く行けよっ! 後ろがつかえてるぞ!」

「は、はいはい!」

僕は慌ててポケットにメモをつっこんで出発した。

景気良くクラクションを鳴らして、バイクが僕の横を抜けて行く。

何処からやって来たのか、なんで歩道を走っていたのか知らないが、まあ、迷惑な大騒ぎだ。

まったく……このところ騒々しいったらない。

そうこう言っているうちに、赤いレンガ屋根と看板が見えた。

ちょっと久し振りだな、この店。




「こんにちわ」

「や、いらっしゃい」

威勢の良い声が響くと恰幅の良いおばさんが奥から飛び出して来た。

「タイミング良かったよ、今ちょうど店開けたところなんだ」

「あれ、随分遅いですね」

「あははっ、この騒ぎだろ? あたしの旦那もすっかり鼻息荒くてさ、ケツひっぱたいて問屋まで走らせるのに時間食っちまったのさ」

「はあ、なるほど」

「君はいいのかい? 学生なんかはみんな意気軒昂って言うか、すっかり戦争気分になっているじゃないか。伯爵中佐殿に挨拶に行こうなんてね」

僕は肩を竦めてみせた。

「僕には関係ない話だから」

「そりゃ、賢明だ。どいつも上を下への大騒ぎだけど、その実何にもわかっちゃないんだからねぇ……っと、買い物に来たんだろ。何が御所望?」

「えっと……あれ、あ、れ?」

ポケットの中には財布がある。

財布だけ。

それ以外は、紙切れ一枚だって入っていない。

「どうしたい?」

「あ……ええと」

しまった。

どっかでメモを落したらしい。

きっとあの時だ、後ろから追い立てられた時ちゃんとポケットの中に入ってなかったんだ。

まずいなあ、と思いながら、僕は頭の神経回路を必死に頼って落した言葉を拾い集める。

それで幾つか思い出しつつ

「と、ローリエ、ジャガイモ、あと……牛肉?うーん、それから……」

「マッシュルームとブイヨンスープだね?」

「そう、それ!……あ、でも、どうして?」

「なあに、うちの夕飯と一緒だもの」

にっとおばさんは笑った。


 茶色い紙袋いっぱいにつまった品物、まだ切り分けてないパン・トラディシオネルが飛び出して良い香りがする。

今さっき焼き上がったのだろう、まだ温かくて柔らかい。

僕は、ちょっと生唾を飲み込んだりもするけど、まあ、つまみ食いはやめておく。

さっさと自転車に乗り込んで、一路帰宅。

と、またもや信号に引っ掛かり、またもや声をかけられたが、そこは僕も慣れっこだった。

「後ろ、乗せて」

「あ、オッシアさん。だめです」

「こんにちわ」

「どうも」

何だか変な挨拶だ。

でも、昼間に見る彼女は穏やかで、むしろ好感が持てるし、なんだか親戚でもある様に気を置かないところがある。

それで、僕も前みたいな失敗をせずにすんだわけだ。

「今日は、騒々しいわね」

「まあ、そうですね。何処に行ってもその話題みたいです」

「ヒマ?」

「忙しくはないですね」

「じゃあ、少し話相手になってくれない?」

頷いて、僕は自転車を止めて、浜の流木に腰をかけた。

遠くで一声歓声が上がった。


「オッシアさんは何処に住んでいるんです?ここらへん?」

「呼び捨てでいいわ。わたし、そこに住んでるの」

と、指が海の向うの方を指した。

海?

いや、外国ってことか、じゃあ旅行客なんだ。どおりで言葉が少し変なわけだ。

ここらへんは、僕の住んでいる田舎の漁村と観光街に別れている。

景色が良いことは請け合うし、温泉も最高、魚だって恵まれているから、観光地としてはまずまずってとこ。

まあ、しかし温泉が出て人が集まるのは半島の反対側、こっちは田舎も田舎だ。

だからこっち側に旅客が来ることはあまり多いとは言えないのだが。

「今は、こっちにいるんですか?」

「やあね、敬語いらないわ」

「あ、ええと……はい……うん」

「うん。こっちにね。面倒な用事があってどうしてもこっちに来なきゃならなくて」

「面倒な用事?」

オッシアさん……オッシアは膝を叩いた。

「私の運命を決める大事なことなんだって、お父様、鼻息が荒くて」

僕は真意を計りかねて、なんとも答えなかった。

あんまりそういう話に乗ってしまって軽率なことを言うのは気まずい。

僕は紙袋を探って、炭酸水を取り出した。

瓶詰めの炭酸水は栓を抜くとシュウシュウ音を立てて、泡を弾けさせる。

「どうぞ」

二本買っておいて良かった。

とりあえず、会話が面倒な方向に行くことだけは妨げられそうだ。

「なあに?」

「え」

「これ、なあに?」

オッシアは、矯めつ眇めつガラス瓶を眺めたり、炭酸の弾ける音に耳を傾けたりして不思議そうにしている。

「知らないの?」

「しらない」

「ただの炭酸水だけど」

「どうするの?」

「どうって……」

僕は、それを飲んでみせてから

「飲み物だけど」

オッシアは眉と鼻を動かして、にやっと笑うと瓶に口を付けて一気に口の中に流し込んだ。

けぷっ。と声を上げてから

「変な感じ」

変なのはオッシアの方だと言いたいんだけど、まあ、それは炭酸水と一緒に飲み込んでしまおう。

人それぞれだから……それとも外国では炭酸水って飲まないのかな? そうだとしたらちょっと面白いね。

その間にも、オッシアは興味深げに紙袋の中味をごそごそと覗いていた。

「ふぅん……」

「なに?」

「タマネギ、忘れてる」

「あ」

そういえば、タマネギもリストの中に入っていた様な気がする。

で、なんでオッシアが知っているんだろう?

彼女の家でも今晩同じメニュー?

僕が問う前に彼女はポケットから一枚の紙を、ぴっ、と差し出して楽しげに笑った。

「落とし物、でしょ?」

それは、僕が無くしたメモに違いなかった。


「いいの?」

と、急にオッシアがきりだした。

「買い物に出て来たのに、ちょっと道草しすぎじゃない?」

何を言ってるんだか。僕は当のオッシアに誘われたってのに。

とはいえ、その意見は正解なわけで、僕は自転車に飛び乗って、紙袋をカゴに突っ込むと別れの挨拶もそこそこに、慌てて道を進んで行った。

もう昼だ。

流石に時間を食い過ぎたな、なんて思って家に着くと案に相違して母はあんまり関心なさそうだった。

その分、父と何かを話し合っていたのだけれど。

「もう!」

と母の苛立った声が聞こえた。

「あなたまでなんなの! 急に政治っ気づいちゃって!」

「成人男性としては当然のことだろ! それに、上司からも是非会いに行ってみろって言われてたんだよ」

「で、結局何時間も並んでちらっと顔を見てわぁわぁ言って来ただけでしょ! なんなのよ、それ」

「しょうがないだろ、そういうもんなんだよ!」

まったく、やれやれだ。

……ここのところ、毎日“やれやれ”と思ってる、どうもやれやれな世の中になったらしい。

たまったもんじゃない。

「お、ソロ。お前も行ってきなさい」

「何言ってんの、この子は関係ないでしょ!」

「バカ言うな、これから俺の跡を継ぐかもしれないんだから! 社会勉強だよ!」

「なにが!」

なんだか、結局父の中では僕は跡継ぎになるらしい。

うんざりだ。

僕は、適当に相づちを打って再び表へ出た。

馬鹿馬鹿しい、どうしてこんなに皆興奮しているんだろう。

会いになんて行くもんか!

……と思ったが、病院のことを思い出すとどうしてもフィーネのことがちらつく。

心臓と血が悪いらしいから、あまり強いショックは身体に悪いだろう。

白い肌が時々青くまでなるのを何度か見ている、このところ瞳まで空の様に青くなっている時がある。

変なことがあったら、流石に僕だって落着いていられないな。

フィーネに会いに行こう。

混雑や人込みは死ぬ程嫌だけど、それでも実際に取り乱しているかもしれないフィーネを想像すると行かずにいられなかった。


 自転車はまだ八号線からは入られそうにないので、結局、海岸一号線を再び通って、坂を昇ることになる。

やっぱり途中までは空いているけど、病院への上り坂になると混雑は大変なもので、僕は降りて自転車を押しながら昇る。

院内へ入りたがっている人達が玄関でがやがややっているのを分けて入って受付に潜り込むと、見慣れた看護婦が汗を拭きながらキンキン声で僕に怒鳴った。

「ソロ君、ダメ、とんでもないわ、あんた帰った方がいいわよ」

「フィーネは?」

「ああ。あんたはフィーネに会いに来たのね。わたしはてっきりあの将校殿に会いに来たのかと」

「ううん、僕は興味ないね」

「じゃ、さっさと上がって行きなさい。運の悪いことにフィーネの隣の病室が例の将校殿の部屋だから、もみくちゃにされて踏みつぶされない様にね」

「あながち冗談に聞こえないよ」

「あながち冗談でもないのよ、これが」


 よくもまあ、詰めに詰めたと言う様な人込みに僕は決死の覚悟で割り込んで、ほとんど息も止まる程だった。

ようやく息が着いたのは、フィーネの病室に飛び入った時だった。

「ああ、ソロ! よかったぁ」

フィーネは顔を赤くしながら僕の方に両手を伸ばした。

ベッドの脇には積まれた本と点滴があるだけで、今日は果物の一つもない。

「もう、大変なのよ。お昼もまだ食べてないんだから」

そういえば、僕も昼ご飯はまだだ。

いつもの椅子に腰掛けながら、廊下のざわめきが病室の中まで流れ込んで波の音も聞こえない。

「大変だね、こりゃ」

「頭が痛くなっちゃいそう」

「大丈夫?」

「うん」

笑ったが、その笑顔はやっぱり混乱や疲れが垣間見えていた。

思った通り、こういう騒ぎはフィーネの身体には良くないのだろう。

「でも、しょうがないわね、国の英雄が来ているんですもの。私みたいな厄介者と違うんですものね」

「そういう言い方は好きじゃないな、厄介なことなんて何にもないよ」

「ううん、いいの。私は厄介者。外にも出れず、病室で暮らすことしか出来ない。お金を食うばっかりだもの」

「生きているんだから金がかかるのはしょうがないよ、みんな一緒さ」

「ありがとう」

「え……あ、いや……」

いくらフィーネでも改めて礼を言われると恥ずかしいものだ。

にこにこしながら悲観的な言い方をするから、僕もついそういうこと言っただけだ。 なんにも意味は無いさ。

僕は頬を掻きながら、なにか別の話題を必死に探した。

「えっと、あの……今日は大変だね」

で、無理だった。

急に出てくる話題なんてのは最新時事くらいしかないものだ。

誰だって、とりあえずは“最近どう?“なんて話はじめるんだから。

しょうがない。

「ナントカって人はどうなの? 重傷?」

フィーネはくすりと笑って、首を振った。

「もうさっきから声を張り上げっぱなしよ。腕の一本、足の一本、肋骨、いや、どの頭蓋骨が割れようが腹に穴が空こうが……って。大分ボロボロみたいだけど、そんなの気にもならないみたいね」

「なんだかなぁ」

「あら」

と、フィーネは些か心外そうな顔になった。

「ソロは興味ないみたいね?」

「うん。まあね」

と、隣から、ワァッ、と言う歓声が上がった。

うるさいな。

“院内ではお静かに”って張り紙を見なかったに違いない。

「僕にはやっぱり理解が出来ないね、こういう騒ぎ」

膝を組み直して、仕様がなさそうに笑ってみせるが、フィーネは更に首を傾げて

「そう? 私にはわかるけどなぁ」

「どうして?……まあ、英雄がやってきたってのはわかるよ。それに戦争をしてるって事も。けど、突然こんな騒ぎになるのはわからないな」

「新聞を読んだりしないの? 毎日毎日、戦地のお話が紙面を踊ってるわよ、フォルツァンド伯中佐の活躍だってみんな知ってるわ」

「いや、だからそれはわかってるってば」

「じゃあ、なんでソロは騒がないでいられるの? 国が勝つか負けるかって時に重要人物がやってきたら、誰だって騒ぐものじゃないのかしら」

「そうかな」

「だって、大事なことでしょう? 戦争って、ね?」

「戦争が? 大事? なんでさ?」

「なんでって……ううん、勝てば賠償金を手に入れたり、何かの利権が手に入るわね。今回の場合は海峡路を手に入れるためだから、そこを手に入れたら商船が安全かつ迅速に荷物を運べるわけでしょう? そうしたら、経済が向上するんじゃないかしら」

「ちょっと待ってよ。それって大事なことなわけ? 僕は今まで生きて来て何か特別に困ったことってないよ? とりたてて経済が向上しないと困るなんて事は、特にね」

「ソロはそうでも、シティの人達はそうじゃないのよ」

「どっかの誰かが僕に関係ない遠いところで、戦争をやっていようが舞踏会をやっていようが同じってこと。シティの連中の為にあっちの方で戦争なんかしてたって、僕は誉めてやらないよ」

「なにもソロに誉めてもらいたいわけじゃないわ」

「……とにかく、こういう騒ぎになる必要はないんだからね」

思わず立ち上がっていた僕は、椅子に座るのも躊躇われて、足をぶらぶらさせながらベッドの周りを歩き回った。

フィーネはそんな僕を眺めながら、こめかみに指を当てて言葉を選びつつ

「ソロってば、妬いてるのかしら、それとも単に、気後れ?」

うーん、と微笑んでいる。

僕は些か面喰らって、口を尖らせた。

「まさか! そんなわけないじゃないか」

「だって、なんだか騒ぎに乗り遅れてウロウロしてるみたいなんだもん。迷い猫みたいよ、ふふ、そうね、コンツェルトと同じだわ」

僕はますます唇を尖らせる。

というのは、以前フィーネに話して聞かせたコンツェルトの話に僕が例えられているから。


 ……秋口の事だった。

僕が自転車に乗ると既にカゴにふんぞり返っていた猫がチラリと眼で合図する。

ちょっとそこまで乗せて行けって意味だ。

別に僕も然程面倒でもないし、コンツェルトをカゴに乗せたまま町の方に自転車に乗っていた。

漁港の近くまでさしかかると、片方のシッポで僕の鼻を突つく、降車の合図である。

僕は猫の頭を叩いて自転車を止めると、彼はぴょんと跳んで港の方まで下っていった。

で、僕が必要な用事を済ませて帰る途中の事である。

コンツェルトはどこからくすねてきたのか、小魚を口に咥えてニヤつきながら歩いていた。

こいつめ、と思って自転車を止めた直後に突風、どこかで干してあったイワシが煽られて飛び散ったのだ。

もともと、漁港には有象無象の猫がたむろしているから、こういうチャンスはあっという間に嗅ぎ付けて、十や二十の猫なんてすぐに集まってくる。

もうお祭り騒ぎで、煮干しをパクついている連中を余所にコンツェルトはおたおたしている。

群れの周りをうろうろ回っている。

煮干しを取ろうとすると、小魚を離さなければならない(しかし、それは出来ない相談だ!)。

結果、事態が収束して行く時には「あれは酸っぱい煮干し」というしかなくなっていたというお話……。


「ね?」

ニコニコされても、僕はなんとも答えにくい。

僕がそういうのに例えられているのは心外だった。

僕が、“本当は見に行きたいんだけど”、っていう前提じゃないか。

どうもフィーネは誤解している。

本当にそんなつもりはないんだけどな。

「ところで」

こういう時は、話題の鉾先を変えるのがいつもの手段。

成功するかは別として。

「今、何読んでるの?」

フィーネはますますニコニコしながら、細い指先で薄い本を取り出した。

純白紙に負けず劣らず白い指が、やけに眼に入った。

元々、外に長時間でていられる体質ではないから色は白いのだけど、この頃は輪をかけて白い。

僕が思っていたよりも、よほどだ。

「これ」

「ふぅん」

受け取ったその文庫は、新刊本であった。

タイトルは……

「『この二本の足さえあれば』ね、犯罪小説だったっけ?」

「うーん、難しいところ。犯罪の話は出てくるけど、主人公は冤罪で捕まってしまうんだから、そうとも言い切れないの」

「おもしろい?」

「おもしろかったわ! あのね、主人公は冴えない……」

普段外に出れないだけ、フィーネの読書欲と言うのは底知らずである。

で、濫読者でもある。

ロマンスもの……(王子様がやってきて私を連れ出してくれる、ってやつ)……をぽわんとしながら読みふけるくせに、僕が今借りている様な難文の古典、それから学術文書や哲学書も読みたがる。

いわゆる活字中毒なんだろうから、内容を理解しきっているかは些かあやしいものの時々吃驚する様な知識が出てくることもある。

しかも、本の話になるとさも楽しそうに良く喋ること。

「……突然、冤罪で捕まってしまうのね。裁判に引き出されても何が何やらわからないうちに牢屋に入れられてしまうの」

こうやって景気良く喋っていると、本当にうまれつきの病人なのかと思ってしまう。

「……で、裏切られた男が出てきて、思うのね。ね、こう言うの『これからはどこへだって歩いて行ける、この二本の足さえあれば』、それで……ううん、これ以上言うことはできなわ。だって、結末まで聞きたくないでしょう?」

「え、うん? うん、そうだね」

「ああ、でも言いたいわ。靴の上から足を掻いてるみたい、うー」

「あはは。でも、面白そうだね」

「だから、おもしろいんだってばぁ!」

「どこへでも歩いて行ける、か。僕は自転車がないとどこに行く気にもなれないけどね」

「あら、ソロなんていいものよ。私なんて二本の足があったって何処へもいけないんですもの」

「あ、ごめん」

「やめて、そんなつもりじゃないんだから、ね?」

右手の人指し指がピンと立つ。

「うん」

「でも、遠くへは行きたいわ。私の夢ね、外に行きたい」

「僕も遠くへ行きたいな、どこでもいいから」

「どこがいい?」

「僕は、まずフロイ島の牛を食べに行くね」

「だったら、そのあとイェースのトマトを食べるわ、たまらないわ、あの甘いトマトを丸かじりよ!」

「そこからなら南下してアトオルでプラスチックの墓碑を……」

僕達は昔みたいに地図を引っぱりだしてまで世界中の名所を旅して回っていたのだった。

時折、大きくなるどよめきをよそに。


「フィーネ、注射の時間よ!」

まだ引ききらない人の波は、看護婦を苛立たせて怒鳴り声を張り上げさせる。

もっとも、廊下の扉を開けると一気に大声がなだれ込んでくるから、看護婦さんの声じゃ飲まれてしまって怒鳴らないでは聞こえないのだからしょうがない。

「さ、ソロ君も撤収」

「ええ、そんなぁ」

「情けない声出さないの。また明日いらっしゃい、フィーネは逃げやしないわよ」

「あら、私だって逃げたっていいんですことよ?」

「まあ。生意気言うわね」

「看護婦さん、そういうことじゃなくって。僕、この人いきれの中帰らなきゃならないわけ?」

廊下の騒動は全然納まっている様子がない。

確かに、と呟いて看護婦は両手を腰に当てる。

「これじゃあ、出るのも一苦労だわね」

「ソロって人込みが大嫌いなのよね、だから、ね? まだしばらくいてもいいでしょ? ね?」

「別に構わないけどねぇ、注射を打つところなんて人に見せるものじゃないわ」

「私は構わないわ」

「僕はちょっと……」

「なに、いい男子が情けないことを」

「そうよ、とくとご覧になって行きなさい。お代は見てのおかえり、でしょ?」

彼女達みたいに慣れっこになってるならいいけど、僕はどうにも、こう、痛いものは苦手なのだ。

自分がされるのも嫌だが、人がされるのもダメ。僕は多分、視神経と痛覚が直結してるんだ。

そんなわけで、僕の目の前で注射が行われることになったが、どうせ見ているこっちの方が青くなったり赤くなったりしてしまうだろう。

小さな点滴が吊るされ、チューブの先端に付いた針の先がフィーネの白い腕に、血管のありありと透ける程の白い腕に、つっ、と刺さる。

フィーネの整った顔が歪み、憂えた様に眉を顰める。

そこからは、もう僕は眼を逸らしてしまったので、気が付いたら、腕には何だか器具が巻かれて点滴までチューブが伸びていたわけだ。

「だらしないわねえ」

看護婦は僕を小突いてドアを開けた。

ドヤドヤ言う騒ぎは幾分か落着いているが、まだまだ人は多い。

「まったく! 底が抜けやしないかねぇ!」

隣の部屋から看護婦が何事かを叫んだ後、良く通る男の声が聞こえてきた。

「みなさん!」

まるで拡声器でも使った様に大きな声である、そういえば、いつか読んだ本に“声の大なるは武人の業なり”とか書いてあったが、まさに武人と言った感じの声。

何でも混乱している戦場においては、声が大きく良く通る者が指揮官に向いているのだとか。

なんだか、運動会みたいな話である。

と言うことは、この声の主こそが伯爵中佐殿ってわけか。

軍隊調の声がきびきびと飛ばされると、さっきまでの騒ぎは整然と隊伍になってしまうから、みんないい気なものである。

伯中佐殿の命令、“帰宅”。

命令は絶対、けっこうけっこう。

なんて思いながらも、本当にありがたい。

ぞろぞろと排出されて行く人々を見ながら、僕等はくすぐられる様な感触に襲われたのだった。


 最後に残ったのは、結局、僕のようである。

フィーネに向って手を振ると、彼女も微笑みを返した。

ドアを開けようと手を伸ばして……

「あ」

扉が威勢良く開いて僕はたたらを踏んだ。

「悪い」

と、声は上の方からした。

ドキッとして振仰ぐと、浅黒い肌に短い金髪の男性が見下ろしている。

でかい。

僕は、なんとなく気押された様になってまた部屋に戻ってきてしまった。

「ソロ?」

不思議そうに声をかけたフィーネに向って僕は無言で合図したが、どうも通じず

「なあに、一体。クジラを飲み込んだみたいな顔して」

と、一人でクスクス笑っているから、僕はなおのこと焦って身振りを振うのだけど、さっぱり通じない。

コン、とドアをノックする音が聞こえた。

「失礼」

開いたドアをノックしているのは無論さっきの男……要するにナントカ伯爵中佐殿だ。

「お邪魔してもよろしいですかな?」

「まあ、お構いなく。フォルツァンド伯爵中佐殿」

フィーネは丁寧に胸に手を添えお辞儀してみせたので、僕も慌てて頭を下げた。

「なぁに、お固い挨拶は無しにしましょう。我々は単なる隣人ですよ、お嬢さん」

「もったいのうございますわ。どうぞ威厳を持って接して下さいませ」

「ははっ、“威厳を持って接してくださいませ”とは古風ですね。『ヒルデガルド』風だ」

フィーネは顔を赤らめて面を伏せた、ということは図星だったのだろう。

中佐は僕の方にも目配せしたので、僕はもう一度頭を下げた。

「どうも、こんちわ」

「ソロ、少しは言葉に……」

と、フィーネが肘で突つくから僕は合点し

「はじめまして」

と言い直したが、フィーネは納得いかないらしく肩を怒らせた。

中佐は、噛み殺した笑いに腹を痛めている様だった。

僕は、何だかさっぱりわからなくなってしまった。

「くっくっ……いや、すまんすまん。あぁ……君達は本当に面白いカップルだね。片方はえらい古風で片方はやたらに純朴か、いやあ、最高のカップルじゃないか」

「やだなあ、やめてくださいよ。そう言う言い方。フィーネは遠縁の親戚の友人の兄妹の娘さんで、だから僕らはカップルじゃないですよ」

「だ、か、ら……もう少し言葉に気を付けなさいって!」

「えっ?」

「もう」

と、フィーネは頭を抱えたのだった。


「そうか、はじめましてか」

と、松葉杖をつきながら、彼はフィーネのベッドまで歩いて、僕に開いた手を指し伸ばした。

「はぁ。はじめまして」

僕はその大きな手を握り返した。

「じゃあ、私の病室には来なかったんだね」

「はぁ、すいません」

「いや、なに、謝ることはない。ただ、男や学生はみんなこぞってやって来たものだからね、ちょっと珍しいと思っただけさ」

なんだ、それは。

自分の名前を鼻にかけてでもいるのだろうか?

「君は良いね、そうであって欲しいよ。私を英雄と言ってくれるのはありがたいが、休む間もないってのは流石に耐えきれんもんだ。それに……」

と、笑いを噛み殺して

「私だったら、知らない男の見舞いになんか行きたくはないからね」

「でも、ソロったら今の戦争の事なんて知りもしないんですのよ。私、それはどうかと」

「だって、僕は……」

戦争なんて興味ないもの。と、言いかけてやはりそれは言葉には出来ない。

流石に面と向って軍人にそれを言うのは躊躇う。

が、当の中佐殿が促すもんだから、僕はしどろもどろに

「ああ……ええ、まあ、なんといいますか」

「気にせずに言ってくれよ」

「その、ええと、戦争ってのはどうも……苦手と言いますか、その」

「はははっ、どうぞ率直に!」

「はあ、あの、戦争には興味がないもので、好きじゃないと言うか……あ、いえ、別にその」

「うん。そんな言い淀むことはない。戦争が嫌いなんだろう?」

「はい……」

「わかるよ」

などと、中佐が頷いてみせるから、僕も思わず気を大きくしてしまうのである。

「何かを壊すとか、何かが壊れるとか。人が死ぬとか。そういうのが、苦手なんです。それに遠くで起こってる話だし、僕にはあまり関係ないかなって」

「ソロ!」

「いや、いいんだ。ソロ君……だよね? 君の言ってることは間違いでもないよ」

そう言われると、嬉しい反面なんだかかえって居心地が悪い。

どうしたもんだろう?

僕はからかわれているのかな?

「時々、わけもわからず国益や正義という言葉で戦争を肯定する人々がいる。一面で間違いでない部分があるが、一方で多くの物が消費され、人が死に、あらゆるものが壊れる。でも遠くから見ているとそれがゲームに見えて来る。真剣に憎悪した顔の試合。そういう時、死はよそよそしい。母親の死を同じように話す人はいない」

「ぼ、僕は、その、なんていうか……そういう詳しい話は……」

「ああ、構わないよ。そうだとも。君は純粋に恐怖を感じ、空虚さを感じたんだ」

なんだかそう言うわけでもない気がする。

とはいえ、違うとも言い切れない。

僕は、もやもやを抱えたまま口籠っていた。

フィーネが、こ難しい言葉を二三、中佐に投げかけたのをきっかけに、僕は別れを切り出した。

「じゃあまたね」

「うん、また」

「では」

僕が一目散に病室から逃げ出したのは、フィーネと中佐の会話に入っていけないからでもあった。


 ああいう風なわけじゃない。

僕はそう思っているわけじゃないのだ。

戦争に恐怖を感じる? 空虚さ……? いや、それは違うんじゃないのか。

僕は、何も感じていないだけだ。

遠くから風に乗って爆弾の音が聞こえることが、もし、あるとすれば少しは考えるかも知れない。

しかし、何も聞こえない。

新聞や何かで沢山書いてあるけど、なんだかつまらない小説の断片みたいに見えるじゃないか。 サッカーの結果が書いてある紙のすぐ裏面にさ、ゲーム、そうだよ。

一体、戦争なんて本当に起こっているんだろうか?

夜空は……今日の空は、些か暗いようだ。

明日の天気は悪そうだな。

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