第2話 未来、過去、再びの出会い



「んあ」

涼しい朝日を切り裂いて、僕の顔に何かが降って来た。

何かは機嫌良さそうに二本の尻尾を振ったり、喉を鳴らしてみたりする。

「退けって」

僕は猫の首根っこを掴んで放り投げた。

うん、と僕が背伸びをすると、改めて朝の風が空からやってくる、これぞ目覚めと言う様な爽快な朝日だった。

結局、思い出せないまま寝ちゃったらしい。

まあ、いいか。

僕はいつも通り、居間で朝飯をつまんでから学校へ向った。


 どこでも人が集まるところはそうなんだろうけど、ある人数の集団は自然と個々の小グループを持ち出すらしい。

友達の輪っていうのは意外と狭いらしく、精々五六人、多くて七八人で十人も集まってつるんでる奴等は少ない。

僕等も多少飽き飽きしながら、朝の教室で一グループを形成していた。

昨日以来セッコはすっかり興奮してプレストに政治論……戦争論か?……を説いている。

その様子に、メーノは肩を竦めて僕に言った。

「どうも朝から鬱陶しいことになったな」

僕が苦笑いしたのを目ざといセッコが見つけたらしくて、ずい、と僕に詰め寄ると

「そんな間抜けな顔してる場合じゃないよ、ぼうや、ソロちゃん? 国の進退がかかってンだから」

「はは、まあ、そう、うんうん」

「あ。なんだ、わかってないね?」

「いやあ、うーん、そうだよね、あは」

「やっぱりわかってない!」

と、メーノの膝がセッコの尻を小突いて、セッコは口をすぼめた。

「国の進退もいいけど、お前の進退はどうなってんだよ?」

「あ、俺? メーノに心配されたかぁないね」

「なに言ってんだよ、メーノは結構腕がいいんだぜ? お前みたいに進学しないとなんともかんともならん奴と違ってな」

と横合いから口を入れたのはプレスト。

「セッコよう、お前だってメーノの親父は知ってるだろ? えらい腕利きだし、その息子だぜ? お前みたいに漁師の息子のクセに海に出ないっつうのとはワケが違う。メーノはみっちり叩き込まれてるんだからな。職人だよ、職人」

「それを言うなら」

といささか嘲笑的に顔を歪めて

「プレストだって飯屋を継ぐ気はないんじゃないの?」

甘い。そんな嘲笑にやりこめられるプレストじゃない。

「無いね。俺は進学して徴税官になって懐をあっためるんだから」

「あ、汚職っぽいなぁ、徴税官なんて。袖の下が重いじゃないの。良心を疑っちゃうね、オレ」

「馬鹿、良心と金を天秤にかけてみろ」

「うーん」

と、両手を天秤代わりに動かして、結果、左手が重くなっちゃうわけ。

「な?」

「金は重い」

「ソロはどうするんだ?」

メーノが急に問うたが、僕はなんとも答えられずに曖昧に笑ってみせた。

「まあ、わかんないかな……」

「なぁに言ってんの。公務員継げばいいじゃん」

「そうだな、ソロはいざとなったら親父の下につけるから、とりあえず進学ってとこか」

ああ、そうだった。

役所勤めの特権として、一親等内の男子は——要するに息子は自分の下で働かせていい事になっていたんだ。

どうして僕が忘れていたのに彼等が覚えているんだか。

「まあ、そうなるのかな」

実感がないし、なんだかどこか遠くの話の様に聞こえる。

「それにしても」

始業ベルを聞きながら、セッコは一足先に席に戻りながら呟いた。

「なぁんか、めんどくさいし全然イメージ湧かないわ。わけがわからない」


 授業がどんどん進んで行く。

時期が時期だけに、上を目指す人達はカリカリ鉛筆を動かしてノートを埋めていく。

大概はシティの大学か何かを目指しているのだろうけど、それは空とぼけた事の様に思えた。なんかのジョークのように。

僕のクラスは優等進学クラスじゃないし、大学へ入るとしても一流どころは難しいだろう。

とはいえ、将来の事を考えてみんな必死だった。

将来、ね。

それは、どこか虚ろで嫌な響きの言葉だと思う。

彼等はよくわからない世界にどうして平気で生きて行けると思うのだろう、僕にはこの先に待ち受けている事は全然わけがわからないのに。

未来なんて、ぼんやりしているじゃないか?

そのぼんやりしたものが、少し怖い。

上手く言えないけれど、櫂の無い船みたいに、怖い。

僕は、また波の音に耳をそばだたせた。

僕らは何でこんなに未来のために退屈なことをし続けなければならないのだろう。

波の単調なリズムに乗って平々凡々に生きて死ななければならないのだろう。

それでも時間はどんどん流れていく。

僕は何もわからない赤ん坊の様な緩い頭で、将来の自分が襲いかかってくるのを待っているだけなのだろうか?

退屈な授業は進み、退屈な会話が飛び交う。

僕は、海の向うや、空の果てや、道路の先を考えながら、次第にうとうとして来た。何も見えない青白い色に溶けていく。

ここを抜け出して、どこか遠くで生きている自分が少しだけ見えた気がした。僕には少しも似ていない。

「こら」

ハッとしておもてを上げると、プレストがニヤついて顔で見下ろしていた。

「授業終ったぜ、堕落もの」

「えっ?」

「今日は半日授業だってさ」

「あ、そう……」

やれやれだ。

まったく、どうにもやりきれない。

僕は頭を振って立ち上がった。

散り散りに帰っていく退屈な人達の最後尾に着いて教室を後にした。


 雲のない空の青みを裂いて飛ぶ、海鳥の群れ。

鳥の影は僕を追い抜いた。

自転車って結構速いと思っていたんだけど、やっぱり鳥の方が速い。

鳥が行き過ぎてしまうと夏の風は突然強くなった。

それが全身を包んでしまうと僕はもう溶けていく様な気持ちになる。

初夏の空は特別に青くてずっと眺めていると、ちょっと不安になるくらいに果てがない。

僕は、久し振りにあそこへ向っていた。

海岸線をずっと行くと——本当はこれも八号を使った方が楽なんだけど——丘を切り通した人通りの寂しい狭い古道がある。

石畳のその道を渡ってその先に行けば、僕の世界がある。

自転車は信号を通り過ぎ、丘の下を通り過ぎ、古道に入っていく。

この道はずっと古くの移民達が作った遺跡の一部だそうだ。

どこから来たのか知らない、どういう民族かもわからない。

太古の人々が岩を重ねて家々を作り生活していたのだという。

今では全て朽ち果てて、細いこの道と両わきの石壁を中心に、ぐるっと残骸が残っているだけだ。

変な紋様が入った石壁はひび割れて蔦や苔の匂いが風に混ざる、不思議な道だ。

実際、どういう人々がいたのだろう、どうして消えていったのだろう。

でも、この道は良い道だ。

なにより道幅が狭くて車が入れないと言うのが一番良い。

で、僕は古道をガタガタ言わせながら自転車で乗り越える。

すると石壁が急に開けて一本の広い真新しい坂道が広がっているのだ。

この何もない坂道。

ここが僕の世界だった。

古道の所為で車は入って来れないし、何より静かだった。

ここには、人が住んでいない。

のんびりとした潅木と空と海しかない。

ずーっと下まで続いているゆるいくだり坂の下には、エメラルドグリーンのなめらかな海が真っ青な空の境界まで広がっている。

ただ、それだけ。

ここには、果てのない海と終わりのない空しか無い。

風も、波も、眠ったみたいにゆるやかな音。

僕はその坂を、何も乱さないように静かに滑り降りる。

自分の身体が消えていくのがわかる。

空に吸い込まれていくのが。

道は途中で無くなって、白い真砂に埋もれてしまう。

僕はじっとそこから海と空を眺める。


 この綺麗な場所は、開発を中止されて見捨てられた場所でもある。

土地は地区が買っているから勝手に住むわけにもいかないし、かといって無意味な道路をこれ以上作るわけにもいかない。

どうにもならなくなって打ち捨てられた場所だ。

僕はここがとても美しいと思う。

いつまでも変わらない、未来や発展から見放されたのだから……いや、見放されたんじゃなくてこの場所自体がそういうものから逃げて来たのかもしれない。

なんの心配もいらない世界。

僕は何だか胸がつまる様な気になった。

「あれ」

ドキッとして振返ると、見慣れた青い髪がちらついた。

「ソロじゃないか」

「メーノ……どうして?」

「どうしてって、俺の家はこの近くだからさ。それよりも、ソロの方こそ」

「いや、僕は、ええと」

まあいいや、と彼は一人で呟いて僕の横に腰を降ろした。

それにしても、ここらへんは住めないはずなのに。

どうしてだかを聞くとメーノは片眉を上げて

「あんまりロクな話じゃないぜ?」

「え、まずかった?」

「べつに。ただ職人連中でも俺みたいな移民はあんまり厚遇されないんでね。うちは親父の腕一本で信用を支えてのさ」

「どういうこと?」

「要するに、俺達は技術を求められているだけで、人としての付き合いなんて求められてないんだよ。腕が鈍ったら厄介払いをくうだろうな。だから、こうしてあらかじめ端っこで暮らして難を避けてんの」

「でも、僕は別に……セッコもプレストも、誰も別になんとも思ってないんじゃない?」

「まあな。俺も然程気にしちゃいないけど、ま、大人の事情ってとこだろ」

メーノは肩を竦めて立ち上がると

「そんなわけで俺も色々忙しいんだ。じゃあな」

と背を向けた。

なるほど、彼は崖側を降りてここに来たのか。

あそこにぽつんと屋根と車が見える。


 なんだか据わりの悪い気持ちになって、僕はそこを去った。

気持ちの持って行き場がなかったし、自分が何を考えてるのかもはっきりしない。

参ったな……。

こんな気分は引き摺りたくはない。

フィーネの所へでも行こうかな、いや、もう坂を踏ん張って昇る気力はなさそう。

今日は大人しく帰ろう、フィーネから借りた本も読んじゃわないといけないし、コンツェルトを風呂に入れなきゃならないし。

ああ、そうだ。

あいつは、風呂好きだからこの間からせがんでたな。

そんな事を考えていると次第に気分も落着いて、夕焼けの海岸線にまた信号機が見えた。

しまった、また信号に捕まっちゃうな。

そう言えば昨日ここで変な女の人が

「後ろ、乗せて」

なんて言って……

「……!?」

思わず自転車から飛び退いた。

「ど、ど、」

女の人は不思議そうな顔をして、横っ跳びに腰を抜かした僕を見下ろした。

「ど、どど、どうして!?」

「大丈夫?」

僕は自転車を支えながら、よろよろと立ち上がった。

まさか、昨日からずっとここにいたわけじゃないだろうとは思うけど……。

「なあに?」

「え」

「私の顔、なにか付いてでもいた?」

「あ、いや……」

どうも我知らずに凝視していたらしい。

しまった、と思ってももう遅い、僕は耳を赤くして面を伏せ、ごにょごにょと詫びてみたが、まあ、聞こえてないだろう。

自分でもわかってるんだけど、やっぱりダメなのだ、この手の美女は。

彼女は海の様なエメラルドブルーの深い瞳と、同じ色の髪をしている、かなりの……といっても僕はあんまり審美眼はないけど……美女に違いなかった。

「と、とりあえず、あの……御用件は」

「後ろに乗せて欲しいの」

そうだった。

僕は、きっと余程情けない顔をしていたんだろう。

彼女は白い指を口元に当てて吹き出した。

「ねえ、浜に行きましょう」

「えっ?」

「往来の真ん中にいるのは、嫌でしょう?」


 浜は砂まで赤く染まっている。

この女性は、夕陽よりもずっと色が強いのだろうか、やっぱり碧く見える。

寄せ来る波に指先を浸して、彼女は僕の名を問う……こういう場合って答えた方が良いのだろうか? 悪用されたりしない?

「ねえ、名前は?」

「あ、ええと」

「私、オッシアって言うの。あなたは」

こうなると、流石に答えないと無礼って事になる。

「ソロ、って言われています……」

何だか歯切れが悪い言い方になってしまった。

けど、それはしょうがないだろ?

だって、こんな状況だし(ったく、与えてくださったこの遣る瀬無い性格を天に感謝します)。

「ソロ、私を乗せてはくれないの?」

「いやあ……」

よりにもよって、何で僕なんだろう。

ヒッチハイカーなら車を止めた方がよっぽど効率が良いのに、何を好き好んで自転車なんてとめるんだろう?

「あの。なんでそんなに乗りたいんですか? 自転車に?」

「だって、遠くへ行きたいんだもの」

「なら、自動車の方が良いですよ。自転車なんて、そんな遠くまで行けないから」

彼女は複雑な顔をしながら、少しだけ微笑んだ様に見えた。

「なんでだろうね?」

そして、両足を海に浸す。

「怖いからかな」

夕陽が沈む。

「どこかへ……。怖いのかもしれない」





 すっかり暗くなってしまったので、僕は詫びながら急いで引き返した。

オッシアさんは、独特の微笑で手を振って「またね」と言ったから、僕も

「じゃあ、また」

と、返して、夜道を走りながらフと思った。

結局、彼女は何だったわけ?

というか「またね」って、またあそこにいるって事なのか?

僕は単にからかわれているだけなのかしらん?

疑問達が頭の中でパレードをしている間に、僕は無事帰宅。

母親に小言を言われながら、着席して夕飯にかじり付いた。

「お前、そういえば……」

と父は僕に何かを言おうとしたが、雑誌片手に食事をしているのを母にたしなめられて話の腰は見事に折れる。

ありがたい。

大体言う事はわかっているんだ。

昨日の続きをやらかしたいに決まっているが、そうは問屋がおろさない。

僕は一気呵成にシチューを平らげて、オイルサーディンとパンとサラダをまとめてやっつける。

しかし、サラダの堅塁は突破しきれず。

「ん……」

ラディッシュの防衛ラインが僕の喉に引っ掛かって、水で押しながす。

それで、一息を着いちゃったから、父は見逃さずに

「試験結果がでたんだろう、言ってみなさい」

と、こう来た。

僕は観念して点数を告げると、父はさも情けなそうに溜息を着いてみせる。

嫌な演技だ。

「お前は、将来どうするつもりなんだ? 父さんだっていつまでも働いていられるわけじゃないんだから、自分の事くらい決まっているんだろう?」

「まあ、なんとなく」

「言ってみろ。どうするんだ? 進学か就職か? それとも志願兵にでもなるか?」

言えるわけがない。

なんとなく、なんて嘘だから。

何にも決めてない……というか、決められないじゃないか。

「なんだ、黙ってちゃわからんじゃないか」

「まだ、わからないんだ」

「わからない? お前のやりたい事は何だ? 言ってみろ」

やりたいこと?

自転車に乗ってどこか遠くまで行きたい……なんて言ったって、どうせそういう事じゃないってわかっている。

でも、別に僕は働いたり、わけのわからない世界に組み込まれたくはない。

かといって、戦争なんて実感ないし、第一死ぬかもしれないから嫌だ。

「お前はやりたい事もないのか」

と、父は絶望的な雰囲気を作ってみせる。

なんて演出家だろう、そんな大袈裟な絶望されても場違いだよ。

僕は、「ごちそうさま」と言って、自室へひっこんだ。

なんだか、昨日の続きを結局した形になったな。

未来だとかなんだとか、僕はすっかり取り残されている。

きっと、このまま流されていけば、退屈に進学して退屈に父の下に着いていくのだろう。

未来か。

直線道路の様に退屈で……怖いのかもしれない。

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