hay que caminar

@kurayukime

第1話 夢、猫、幸運、遠くの銃声、ちょっとした出会い

青白い風が潮の匂いを乗せてカーテンを叩くと、隙間から太陽が零れ落ちる。

それで僕は起こされる。

シーツを被って二度寝をすると、夢は続きを——とても浅くだが——続きを始める。

もっとも、それも母親の声で追い立てられて、猫に餌をやってるうちに、いつのまにか空の向うに消えてしまうのだけれど。

夢は夢、僕はベッドから降りる。

今日の夢は何か大変な夢だった気がするから、まだ猫に餌はやってない。

「コンツェルト?」

僕が問うと母親が視線を投げた、その視線を追えば二本の尻尾がゆらゆら揺れる。

餌の時間だよコンツェルト、僕が一人で呟くと猫も密やかな声で答える。

僕は夢を忘れないため、この猫に夢を話したりする……勝手なジンクスだけど、まあ、それなりに効果はある。

夢の話を聞いているのかいないのか、コンツェルトは耳を立てて二本の尻尾をゆうらゆうら、目は餌の方しか見てないし口の周りは餌でべたべた。

「もうちょっと行儀良く食べられないのか、おまえ」

いつもの素知らぬ顔、それから意味深なヒゲ。

さて、そういった様子でこの二股猫のコンツェルトが、あまり上等ではないのがわかるだろう?

尻尾が二本しかない、胴が長い、鳴声が低くて小さい。

飼い主に似る?

僕に尻尾はない。

喰うなりアクビをする猫の頭をトンと叩いて、薄い鞄をひったくると僕は玄関に向う。

母親が後ろから何か言っているが、時間がない。

「気を付けなさいよ」

「なに、なに?」

「八号線とまってるからね」

「え、なんで?」

八号が止まるとフィーネの所まで海岸線を通らなければならない、これは面倒だ。

「将校のなんとかって人が転院してくるんですって。転地療養?」

「ふーん」

じゃあ言ってくるねと声を出しざまに自転車に飛び乗り、僕はペダルを思いきり踏む。


 建物を飲み込むような青空と果てのない海が広がる。

どこからどこまであるのか知らない道路が延々と続く。

僕はその中を静かに自転車で滑る。

空と海の間に引かれる長い描線の様に。

慣れた潮風が顔を撫でて、耳元でうなりをあげるのが気持ちいい。

面倒だな、なんて思いながらも足は自然に動いて学校の駐輪場に着いてしまう。

僕は慌てて校内に飛び込んで、いつもの様に少しだけ遅刻して着席した。


 それで、いつもの様に片耳に授業を入れ、もう片耳で波の音を聞くわけだから、当然の様に成績は伸び悩んでいる。

「ソロ、来いよ」

授業が終ると、廊下に人だかりができている……まあ、想像通りなんだけど、悪友の何人かが僕の方に集まってくる。

「面白い事になってるぜ」

「なにが」

「まあ、いいから見てみろって」

と、僕は廊下に放り出されて嫌々ながら人込みの中に突入する。

人込みと言うのは僕の嫌いなものの五指に入る。

やだやだ……。

人込みの先には立ちはだかる巨壁、刻まれた黒い数字の群れ、小世界の黙示録。

試験結果成績順位発表。

僕は……

「なにが面白いもんか」

僕等、真ん中より少し下でうろついてるグループで一番下なのは僕だった。

「どうだよ、これ。おもしろいだろ」

「おもしろくない」

「そうかなあ?」

「なに、プレスト。君は僕が傷付かないとでも思ったわけ。あぁーあ、あまつさえメーノの下なんて」

「あん?お、本当だ。メーノにもセッコにも負けてるじゃん」

「何だよ、それで見せたんじゃないの?」

プレストは得意げに僕等グループ3、4人の名前を指差して、点数を述べる。

「な、すごいだろ?」

「だから、なにが」

「みんな誕生日と点数が一緒なんだぜ」

「あ、そう」

それで、僕が一番下なわけ?

そんなわけあるか(あってたまるか!?)。

僕はすごすごと人込みを掻き分けながら外に出ようとした……と、なにかもやっとしたものが顔にかかって、腹に鈍くぶつかったものがあった。

「きゃっ」

危うく倒れそうになりながらも、人込みに支えられて倒れずにすむ。

「ご、」

顔にかかったのは、髪だ。良い匂いがする。

「ごめんなさい」

僕がよろよろしているうちに、女の子は立ち上がってスカートをはたき、きまり悪げに微笑んだ。

「あ、いや……」

しかし、本当にきまりが悪いのは僕の方だった。

彼女を前にすると舌がこんがらがる。

大体、僕は美人とか可愛い子がなんとなく苦手なのだ。それも微笑みなんて……。

どうしても気後れしてしまうから、こんな情けない返事になってしまうわけだ。

「えへへ。……あの、ソロ君、見た?点数」

「うん、まあ、その話は……しないで」

情けないぞ。

先に言う事があるだろう「大丈夫?」とか「怪我はなかった?」とか。

「私、自分の点数も見れなかったわ。人込みは苦手。足がもつれるの。いっつも」

「うん。あの……僕も」

と、いきなり

「トランクィラさん、大丈夫ですか! お怪我は!」

僕を押し退けてセッコが彼女の前へ飛び出した。

トランクィラ嬢も流石に驚いて目を剥いているが、再び人込みの中に押し戻された僕の方が多分ひどい表情だったろう。

あれよあれよと言う間にまたもや憎き番付表の前まで押し戻されたので、もののついでにトランクィラさんの成績を探してみる。

案の定、顔を仰向けないと見れない所にある。

僕は激流に逆らう鮒の様に人込みを掻き分け……(まあ、何度か押し戻されはしたが)……どうにか陸に辿り着くと、いまだにセッコは話しかけている。

それに加えて、プレストもメーノもいつにない勇気を出してトランクィラさんを取り囲んで話しかけていた。

ちょっと、ちょっと?

僕等、何事においても中の下を維持している階級にはトランクィラさんはちょっと高嶺の花じゃない?

僕が戻って来たのを見て、その美少女が目線をくれた。

その目線に釣られて連中も僕を注視するから、僕はなんとなく気まずくなった。

「あの……なんでしょう」

なんでしょうって、なんでしょう?

どうも、ダメである(あきらめろよ、そういう性格を天から授かったんだ)。

「え、ううん」

なにがおかしいのか彼女は吹き出した。

「あ、あ、ええと……912です」

僕はどうにか状況を打開せんとして、口走ってみた。

直後に気付く。

失策。

「ええ、あああの、点数。あ、ええと」

「わたしの?」

「そ、そうです。……上から三番目で912点……でした」

声が尻すぼみに消えていく。

「あら、ありがとう。でも、それ本当?」

「え?」

「だって、それって、私の誕生日と同じ」

僕等は些か間の抜けた顔を見合わせた。





「かわいいよなぁ」

すっかり腑抜けになった僕等は……といっても、僕は後悔しか感じてなかったんだけど……校門を出ながら、彼女の話題ばかりをしていた。

「ソロは、どーもダメだなあ」

「大体、先に言う事があるだろう『大丈夫?』とか『怪我はなかった?』とか」

「そう。ああいうおいしいチャンスをモノに出来ないのが、ダメ」

「大体お前は精神年齢が大幅に足りないんだよ」

「なんつうかな、あの運命を感じさせるアレ。なんていうか、アレだよな」

「何言ってんだよ、トランクィラさんの身体に触れただけでもラッキーだぜ」

「この果報者め!」

ぱこん、と僕の頭を例によって薄い鞄で叩く。

ぶちぶち言いながらも、僕は駐輪場に入り、彼等はバス停留所へ向う。

キーチェーンを外し、僕はペダルに足をかける。

多分、その瞬間に僕の後悔やくだらない事どもは雲散霧消した。

で、バスを待っている彼等の後ろに回って

「ねえ、八号が閉鎖だって?」

「うん? ああ、通れないぜ」

「なんで?」

「なんでも、将校のナントカってのが転地療養するんだってさ」

「ナントカじゃあないだろ、ナントカじゃあ!」

「セッコ、お前の趣味を俺におしつけるんじゃあないぜ」

「うっるさい。お前ねえ、我が国の英雄だよ、フォルツァンド伯中佐は!それを、お前ナントカっつうのは違うんじゃないの!」

「伯爵中佐のことは知ってるけどさ。あっちの方の戦争だろ」

「あのねえ、一応我が国は戦争してんのよ! 戦地があっちだからって……」

「俺、戦争嫌いだし」

「平和が一番」

「どこか遠くで戦ってんだから、僕等は知らな……あ、ほら、バスが来るよ」

僕の声に彼等は振り返って視線でバスを迎えた。

セッコはまだ何か言っているが、メーノに尻を蹴飛ばされてバスの中に押し込められた。

バスが去っていく方とは反対に僕は自転車を漕いでいく。

あのバスの終着点では戦争は起こってるだろうか?

僕がずうっとこの道を行けば、戦争が起こっているんだろうか?

どこかで何かが起きているらしいが、僕の世界にはやってきていない。どこにある? あの鳥は見て来た? 花粉や埃は知ってるか?

一体、どの世界でそんなことが起きてるっていうのだろう?


 本当に八号線が封鎖されていて、僕は天を仰いだ。

まだ陽が高いから海岸線を通るのは気持ちが良いが、如何せん僕は丘の上まで昇らにゃならない。

遠回りして更にあの坂道を昇るのか、体力持つかしら?

ぶっ倒れてフィーネの隣にベッドを並べるなど冗談にしかならない。

結局、僕は愚痴をこぼしながら……(どうせ回り道するしか手が無いんだから愚痴くらいいいだろ)……海岸線を突っ走っていた。

この海岸一号線は、一度シーサーペントが乗り上げてるし、嵐になると海の一部になってしまうし、潮の加減で鯨とか小魚がしょっちゅうあがってくる……どうしようもない難所ではあった。

まあ、普段なら何も無いのだけど、海沿いを走るから丘の上まで行くのに岬を半周近くする事になる。

八号を通ればそのまま直に丘を登れるのに。

海沿いに住んでる人間の苦労ってやつかな。

で、どっちにしても丘は丘だから、僕は歯を食いしばって坂をかけ昇ることになる。

昇り始めのうちに勢いをつける。

中盤でペダルが重くなり、タイヤがふらつく。

最終的には額に血管を浮かして、この急坂を踏ん張り抜くわけだ。


 リノリウムに消毒液、何かツンと鼻を突く臭い、玄関に着くなり僕を刺激する。

息を整える時間も惜しんで受け付けを突っ切り、階段を駆け上がってフィーネの病室に行く。

いつもなら、それでようやく僕は息をつくのだが

「いらっしゃい」

今日はそうもいかないらしい。

パセリやニラや種々の香草の臭いが鼻に纏わりついたからだった。

その臭いが強烈なのなんのって。

ありったけの薬草や香草を入れたみたいになっている。

これ、鼻を通して目にしみる。

汗水漬くでやや覚束ない足取りをしながら窓辺にもたれて丘の風に顔を晒す。

僕が横目でチラリと見遣るとフィーネは我関せずにスープを飲んでいたりする。

「すごい」

僕は切れた息の間からようよう声を出した。

「何が?」

「臭い、香草の臭いが強いよ、フィーネ。大丈夫なの?」

「なんで? 平気よ?」

「あんまり香りの強いのは、胃に悪い。あと鼻にも」

「あら。私、胃は丈夫なの」

「僕より健康らしい」

僕はようやく息を整えて、箱椅子に腰をかける。

潮風が病室の中を掻き混ぜて涼しい。

今年の夏は、風が涼しいのだ……どうりで釣果が悪いわけだ。

「どう、学校」

僕は苦笑する。(他に手があるか?)

「試験の結果が出たんでしょう?」

「それは聞かない方がいいな」

「でも、今回はまずまずって言ってたじゃない」

「う、うん。いや、まあ、僕としては、うーん……」

フィーネは慌てて何かを口走って指を振った。

彼女の癖だ、慌てたり言い繕おうとすると何故か人指し指を立てて宙に振うのだ。

ひゅ、ひゅ、ひゅ……もっとも、僕がそんな情けない顔をしていたのが悪いんだけど。

「ええと、ソロ、ええっと……ね。ほら、ね?」

にっこりと、非常にバツの悪そうな笑顔で小首を傾げてみせる。

フィーネ、それは要するに“かける言葉も見つからないわ”って事なのかな。

別に最下位ってわけじゃないから、そこまで悲観してたわけじゃないのに、これじゃあかえって情けなくなる。

その情けなくなった顔を見てか、フィーネは更に、困った笑顔を浮かべるので

「もういいよ」

と、僕も言うしかなくなるわけである。

「それよりもさ」

「う、うん」

話題を変えて、助かったと言わんばかりにフィーネの顔が和らいだりする。

まあ、ウソをつけない性格と言うのも、場合によりけりである。

「八号が止まったんだよ。なんだか知らないけど将校のファ……ナントカ、って人が転院してくるっていうんだ」

「転院? ここに?」

「多分ね」

「まあ、じゃあソロは海岸線を回ってきたの」

「回ってきた。今日は踏んだり蹴ったりだよ。体育でボールがぶつかるでしょ、成績はメーノより下だし、八号は封鎖される。ホント、踏んだり蹴ったりだ」

で、フィーネは僕の不幸を聞いてニコニコするから、僕が問うと

「だって、ソロってば、いっつもダメじゃない。私が前にいた病院にね、友達が来てくれたんだけど、みんな優秀だったわよ」

僕は眉間に皺を寄せてみせた。

「どうせ僕はバカだよ」

「やあね、変な顔しないで。あのね、続きがあるの。みんな……十人位だったかしら……来てくれたんだけどね、みんな話が違うのよ。本当はみんなそんなに優秀じゃないの。自分を良く見せようとウソをいうのね、でも私は何人もから聞くからすぐわかるの。……で、色んな所を回って来たんだけどね、ソロだけ」

「バカなのが?」

「違うわよ、“普通”なのが。みんなきっと私のために良く言ってくれたり、面白おかしく言ってくれたりしてるんだろうけど、なんだか変わってるのね。とっても楽しそうなんだけど。でも、ね? ソロの話を聞いてるとあんまり楽しそうじゃないんだもの。成績も真ん中よりちょっと下だし、スポーツは出来ないし、音楽もダメ。社会と文学はまあまあで数学が下の方。ね?」

「うぅー」

「だから、ソロの話はとっても楽しい。本当に学校に行ってる感じがするもの。きっと、私が学校に行ってたら隣の机にソロみたいな人いるんだろうな、って思うの。それで、退屈するのね。私もソロも。多分他のみんなも退屈してるの。見慣れた世界に沈んでいる様な気になってどこかに遠くへ行きたくなったりして、ね?」

うん、と僕は微かな声で頷いた。

長年入院して来たフィーネにとっては、学校の退屈さえ憧れになるのだろうと思うと、ちょっと心が痛んだ。

といって、今更に誇張した学校生活を言うのもいやだし、そもそも僕にはペテンの才能がからっきし無い。

一度、ささやかなウソを……(コンツェルトとの主従関係に関しての事だが、詳細は彼の名誉のために省く)……軽い気持ちでついたはずだったのにすぐに見抜かれた。

なんでも、全身にウソが出ているらしい。

こんなことばかり思い出すのも癪なので、僕は話を変え、学校の拙い出来事を例によって退屈に退屈に話して、日暮れを迎えた。

「フィーネ、薬の時間よ。面会時間終り」

背の高い修道女の様な看護婦がドア口から顔を出して声をかけると、僕は立ち上がる、フィーネはにっこりと笑う。

「また明日」

「うん」

僕はそれで退出しようと……いや、一つ言うべき言葉を思い出した。

「ところで、あの香りの強いスープはやっぱりやめた方がいい」


 やれやれ。

僕は汗を風に飛ばしながら坂を下っていった。

太陽が海の向うへ帰って行くから、世界が重々しい赤色に染まってしまう、空気も、風も、道も、等しく夜の準備をしだす。

僕は自転車を重力に任せて滑り、勢いのあるまま海岸線に入っていく。

海や潮風が太陽で染まって赤く光る。

その間を駆けていくのは、とても気持ちが良い。

赤い海。 微睡む太陽。

藍色と朱色のグラデーション。

先走って光る星、夕陽で散り散りになった雲、その空。

家へ帰っていく車達の朧げなヘッドライト。

僕は溶けていく様に夕陽の中を走る。

ああ、涼しい風だ、夏の。

しばらくそうやって単調に走っていると大きな信号にぶつかった。

海岸線に信号はここ一つしかない。

元々、交通量が少なく海の害が始終あるここには信号は必要がなかった。

が、行政的には信号一つ設置すると何か得をするとか言う話で、結局、誰の関心も買わないこの変な信号が取り付けられたのである。

僕は珍しくこの信号にひっかかって、ブレーキをかけることになった。

止まると、なお夕陽が強く感じられ、長い影はどこまでも伸びてぼやける。

僕は、潮の音と夕陽の沈む音を聞こうと耳をすませた。

「後ろ、乗せて」

不意に何処からか声がした。

「後ろ、乗せて」

信号機の柱がゆらっと揺れた気がした。

僕が瞠目しているうちにその揺れは一つの形になっていく、女性だ。

全身がどこか深い海の色をした女性がそこに立っていた。

さっき変に揺らめいて見えたのは、夕陽の逆光で柱の影と同一化していたからだった。

が、僕が本当に目を見張ったのは、そのことじゃない。

夕陽の色に負けないその碧い色に対してだったし、真意を計りかねる曖昧な表情に対してだった。

「乗せて」

「だ、だめです」

僕は潮騒に掻き消される様な震える声で言ったと思う。

彼女は、ちょっと戸惑った様な顔をして僕を見詰めた、それで僕もあんまり吃驚していたのを恥じるような気持ちが湧いて来た。

一時、波の音が高く聞こえて、静かになった。

信号機は音もなくゴーサインを表示した。

彼女は動かず、僕は全速でその場を離れたのだった。


 ドキドキしながら家の中に駆け込んで、母の前を通り過ぎ、コンツェルトを飛び越えて洗面台に突っ伏した。

まだ心臓が脈打っているのがわかる。

「はあ」

僕は凸面鏡に映る紅潮した顔を恥ずかしい気持ちで眺めた。

一体、なんだったのだろう、あの女性は。

見かけたこともない人だった。

突然「後ろに乗せて」なんて。

幽霊かも……。

だって、あんなに青い人なんて?

そういえば、そんな怪談話だって聞いた事あるような……。

いやいや、幽霊とは限らない、人間だったかも。光の加減で?

そしたら、僕の対応はちょっと不躾だったってことになるのかな。

まるで恐ろしいものでも見る様な目をしていたかもしれない。

声だって震えていたかもしれない。

そりゃ、ちょっと奇妙な雰囲気がしたけれど、夕陽があんなに強かったら変な風に見えることは良くある。

だのに僕は嫌な目で見てしまったわけだ。

あの人は多分困っていたんじゃないのか?

だとしたら、僕は見捨てて来たことになる。

まいったなあ。

とはいえ、後ろに彼女を乗せるつもりはさらさらない……いや、意地の悪い気持ちじゃなくて僕のささやかなポリシーなのだ。

僕は誰も後ろに乗せないことにしている。

自転車と言うのは、漕いでいる時に絶対に独りになれる。

歩いている人々とも違う速度、車とも違う速度、横に並ぶ者は少ないし、小回りが効くから何処へだって行ける……階段さえなければ。

悪いことに、海へ突き出したこの半島地方では急斜面に建物を林立させているために細かく入り組んだ坂道や階段が実に多い。

だから、自転車を常用する人は結構少ないのだ。

僕は気侭に一人になりたい時、自転車に乗る。

誰も僕の(まあ、大袈裟な言い方をすればだけど)聖域に入れるつもりはなかった。

僕はひとしきり後悔した後で、その後悔を引き摺ったまま夕食のテーブルについた。

ムニエルとキノコのパスタが皿に盛られると、温かい匂いが鼻孔をくすぐる。

アペリティフにサングリア酒を飲み干して、僕はパスタを頬張った。

父はフォークを握ったまま、しきりに何かを話していたが、僕の耳には全然入ってこない、もう僕の頭は今日の事でいっぱいだったから。

なんだか頭の中がすし詰めだ。灰色のゴムがぱんぱんに入ってる。

「ソロ、おい、聞いているのか」

「え?」

「聞いてなかったのか」

僕は肩を竦めてみせた。

父は心外そうな顔をして、慌ただしい威厳で包んでから話の概要をまとめた。

「戦争の話だよ、戦争の。お前ね、徴兵制が無いからって日々のほほんと学校行っているがね、今度の総選挙で鷹派連中が議席を占めたら、お前、徴兵制度が復活するんだぞ」

ああ、そう言えばいつだったか社会科の教師がその事についてくだくだと言っていた様な気がする。

僕は、全然気にもしていなかったので……言っておくが、僕だけじゃなくて、大半の生徒が無頓着だ。

選挙権のない僕らに今の政治がどうなっているかなんて、ほとんど興味のない話だった。だいいち学生デモが功を奏した事なんてなかった。僕らにとって政治は手の付けられない曖昧な機械だった。

だから、僕は

「別に」

とだけ答えたが、父はその答えが何か不満らしく顔を顰めて口調を変えた。

「どうして、今の若い者は政治に興味がないんだ。え、お前の事だぞ。父さんは公務員だから戦闘には従事せんが、徴兵制になったら第一に二十から二十六までの青年が駆り出されると言うんだから。免責試験をパスすれば良いなんて噂があるが、そんなものがあったとしてもそれは奨学生を保護するための仕組みで、お前みたいな……」

「あー、父さん。やめてよ」

僕が頭を掻きながら面倒そうに答えたのは、火に油は注ぐつもりじゃない。

「これは、国の事でもあるんだぞ。いや、生活の事でもあるんだ。ええ、“いい加減”じゃすまされない問題なんだ。お前は何の心配もしないで、のほほんといつまでもそうやっていられると思ってるのか? 本気でそう思ってるのか?」

「だって、しょうがないでしょ。僕が幾ら考えたって政治は変わるわけじゃないじゃない」

「だが、いつまでも無関係でいるわけじゃないんだぞ。いつかお前も大人になって社会の一員になるんだからな」

「わかってるよ、わかってるけどさ」

「いや、わかってない。お前はいつまでも子供でいられると思ってるんだろう! どっこい、そうはいかんぞ。再来年には選挙権も手に入れるんだから、無関心じゃいられないはずだろう。大体、お前はこの先どうするんだ。進学するんだが……」

「ごちそうさま!」

僕は食卓から逃げ出した。

そんな話を聞かされるのはまっぴらだ。


 窓が薄く開いているから、少しだけ夜が侵入してくる。

なんだか、今日は本当に疲れた。

別に気を滅入らせる事なんて無い事ばっかりなのに、夜になって静寂の匂いがすると急に僕は反省的になってしまう。

学校での成績、トランクィラの前で恥を掻いたし、体育も足を引っぱった、八号は止まってるし、フィーネも変なスープを飲んでるし、変な女の人に声をかけられるし、みんな政治っ気づいてるし……

なぁあ……、と間延びした声がベッドの下から聞こえた。

「出て来いコンツェルト」

寝転がりながらベッドの足を叩くと、如何にも気取って這い出して、ぴょんと僕の身体に飛び乗った。

「なんだか、今日は妙に色気づいてるな」

柔らかい身体を抱え上げると、コンツェルトは長いシッポをゆらゆらと操って、僕の鼻先をくすぐる。

これは、手を離せってことだろう。

「なぁあん」

「わかったよ、ほら」

足で窓の隙間を広げると、彼は外に飛び出した。

挨拶もなしに、夜の闇に消えていった。

「あ」

そういえば、今日夢を見たんだっけ。

おかげさまですっかり忘れていたけど、確かこんな内容だった。

盤の上で騎馬兵の駒が城塞の駒に挟まれている。

退路を取るか突破するか?

駒の白い顔が振り向いて僕を見るので、僕は……どうしたんだっけ?

進ませたのか、退かせたのか、肝心のとこがはっきりしない。

どっちだったかな?

まったく、ジンクスなんてどうもいい加減なものだな。

思い出せるかな……。

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