ナツノチャミセデ
衣花実樹夜
ナツノチャミセデ
ぼろい校舎の中、僕は一人部室に向かう。どれぐらいぼろいかと言うと、ほぼ築五十年、といえば想像しやすいだろう。『一人』という部分をもう少し詳しく言うならば、誰も仲良くした記憶が残っておらず、僕と一緒の部活をしようと思う人はいない、と言った方が多いに正しい。
部室と言っても実に手狭なところで、僅か六畳程度の広さの地学準備室である。まあ、それが先生方の僕に対する評価と思ってもらって構わない。いや、実際部員は僕一人なわけだし、それでも十分広い。
僕が何部に入っているか聞かれると大変困るのだが、言うならば相談部と言うのが適切だろう。相談を受けてそれの解決に動くという中々面白そうでつまらない名前通りの部活なのだが、意外と訪問者は多い。きっと、成績学年一位という肩書きが大きく影響しているのだろう。
さて、僕はこんな話し方をしているので、面倒臭がりだと勘違いされることが多い。僕は努力が大好きだし、努力している人を見るのもまんざらではない。自分で言うのも何なのだが、成績学年一位を取るのだって惜しみない努力の結果だと思う。まあ、全てのテストで模範解答と一言一句違わずに正解するので、カンニング疑惑がかかって教師からの評価は先ほど言った通りとなってしまっているのだが。というか、面倒臭がりは第一に部活に所属しない。ましてや、相談を受けてその解決に動くなんていう部活に入るわけがない。
とまあ、部室に着くまで誰とも出会わなかったので独り言のように自己紹介をさせてもらったけど、僕の目の前にある扉を開けて誰も居なかったら、この独り言が続いてしまうのでご用心を。次のテストに向けてコツコツと勉強する間、脳内は暇を持て余すからね。
さて、部活を始めよう。ガラガラ。自分で声に出してみると想像以上に恥ずかしい。さて、依頼者は……。と探すまでもなく、いた。そりゃ、六畳程しか広さがないんだから、人がいるかなんて分からない方がおかしい。
本日の依頼者は、どうやら僕と釣り合わないぐらい整った顔立ちをした少女だった。髪は真っ黒のショート。確か名前は
「あの……、
僕が一人、扉を開けたまま動かないのを見て、桐ヶ谷さんの方から声をかけてきた。僕は軽く頭を縦に振る。すると、桐ヶ谷さんは座っていた椅子(この部室には一応、長机が一つとそれを囲むように四つパイプ椅子が置いてある)を揺らして立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。
「お願いしたいことがあるんです!」
桐ヶ谷さんは切実に訴えて来た。そのおかげで顔が近い。僕は男子としては身長が低いから、女子に顔を近づけられるとくっ付いてしまいそうになるのである。
僕は特に桐ヶ谷さんの依頼を断る理由もないので、とりあえず話を聞くことにしようと思った。だからこそ、僕は言った。
「じゃ、詳しい話を聞きますから、座りましょうか」
僕が若干困惑気味で言ったからだろう。桐ヶ谷さんはハッと自分が僕に近づきすぎているのに気付いて少し顔を赤くし、椅子へと戻って行った。僕はというと、長机を挟んだ向かい側に座った。顔色を伺いながら話を聞く方が、感情や何やらを読み取りやすいのだ。
さて、一旦脳内にある桐ヶ谷彩乃の情報を寄せ集めて、桐ヶ谷さんの悩み事を推測してみる。眉間に右手の人差し指を当て、考えてみる。確か、桐ヶ谷さんの得意科目は数学。テストで満点を取っていたことがあったはず。逆に、苦手科目は科学。テストで赤点を取っていたことがあるはずだ。加えて、極度の運動音痴だったと思う。去年同じクラスだったから分かるのだが、体育の授業を見ていて何度もひやひやさせられた覚えがある。嘘だけど。でも、一番ひどかったのは水泳の授業だ。なにせ溺れて保健室送りにされたぐらいだ。しかも二度。一・二年は必修だから、今年もやることになるんだろう。
ということは、桐ヶ谷さんの依頼は泳ぎを教えて欲しい、ということになるんだろうか。もう六月の頭だし、来週から水泳の授業が始まってもおかしくない。それまでもちょっとでも泳げるようにしておきたいのだろうか。僕はそう頭の中で推測した。
「桐ヶ谷さんの依頼は、来週の月曜日から始まってしまうであろう水泳の授業への対策として、泳ぎを教えて欲しいってことでいいのかな?」
それを聞いた桐ヶ谷さんは、目を丸くして驚いた。無論比喩表現なのだが、桐ヶ谷さんの場合は元々目が大きくてぱっちりとしているため、文字通り目が丸くなりそうだった。
それはそうと、自分の言いたいことを言い当てられた人間がすることなんて、大抵同じなのである。
「どうして分かったんですか?」
まあこの通り、大抵の人は「なぜ分かったのか」と尋ねてくる。まあ僕はそれを教えないなんていういじめっ子の発想はしていないから、さっき僕が頭の中で広げた推理とも呼べない想像を、桐ヶ谷さんに聞かせてあげた。桐ヶ谷さんは大変興味深そうに聞いていた。
「その少ない情報量で判断できるなんて、本当にすごいですね!」
僕をキラキラとした目で見つめてくるので、僕はとりあえず、相談の方へ話を移した。今日は金曜日だから、早く帰って明日や明後日に備えたい。
「えっと、明日と明後日の予定は? 都合が合えばどこかのプールで教えるんだけど」
「本当ですか!?」
僕のその言葉に、桐ヶ谷さんが食いついた。どうやら僕への信頼度は異常なまでに高いらしい。そんなに信用されても困るんだけどな。僕はそんなに教えるのが上手い訳でもないし。それをクラスメイトに言うと、「お前のそれを認めてしまったらオレらは教師を教師と呼べなくなる」と言われたので、絶対に口に出さないが。
その後、桐ヶ谷さんが土曜、つまり明日は予定が入っていると言っていたので、僕は自分の記憶を呼び覚まし、明後日、つまり日曜に使用することのできるプールを検索し、提案した。すると、そこが桐ヶ谷さんの家の近くだったようで、場所はそこにまとまった。待ち合わせ時間を決め終わった時、もうすでに日が傾いていたので、とりあえず下校した。
次の日。日曜日である。いや、一週間の疲れがたまっていたらしく、土曜日は起きることなく一日中寝た切り状態だったのだ。一人暮らしの恐ろしいところである。とまあ、日曜日になってしまったのは仕方がないことなので、十分前行動を心掛けている僕は、待ち合わせ時間の十分前である九時五十分にプールの前に着くように準備し、家を出て、予定の九時五十分きっかりにプール正面入口の前に到着した。
「よし、プールも営業しているし万事OK!」
脳天気な言葉が自分の口から出た。ちょっぴり驚きである。まあ、誰も聞いていないのでどうでもいいのだが。ちょっと首を回して周りを見回してみるとまだ桐ヶ谷さんの姿はなかった。まあ、五分前行動ならぬ十分前行動をとった僕に全責任があるのだが。
直射日光に当たっているのが嫌になり、日陰へと移動をしてから数分後。僕の腕時計の秒針が十二を指し示し、ちょうど十時になった時だった。
「つげるさーん!」
どこからか発せられた、渋い名前を呼ぶ声が当たりの空気を振動させた。その声はメッゾソプラノぐらい高く、透き通っていてきれいである。誰を呼んでいるのかと思ったら、僕だった。告――つげるとは僕の名前である。僕が聞き覚えのある声の持ち主の方に体を向けると、そこには巫女装束をまとった桐ヶ谷彩乃の姿があった。桐ヶ谷さんはとろけるような笑顔で僕に問いかけた。
「待ちましたか?」
こういう場合、どう答えるのがベストなんだっけ。僕はとっさに頭を働かせる。そう問いかけられてから答えが出て、それを口にするまでの時間、わずか一秒。可もなく不可もなくである。
「いや、僕も今来たところです。じゃ、今日は頑張りましょう」
僕がそういうと、桐ヶ谷さんは少し頬を膨らませる。ない胸を反らしながら、僕に訴えてきた。
「せっかく巫女装束で来たのに、何の感想もないんですか? 私ちょっと傷つきますよ?」
そうだった。女子っていうのはこういう時に褒められると調子に……、機嫌が良くなる生き物なのだった。桐ヶ谷さんの普段着を知ってるわけではなく、巫女のアルバイトをしてるということを知っていたから、自然と巫女装束姿の桐ヶ谷さんを受け入れてしまっていたようだ。これは以後の教訓にしなくてはいけないと思う。深く反省。
「似合ってるよ、巫女装束。学校で見るときより、可愛いと思う」
おや、自分の口からとんでもない爆弾がこぼれてしまったみたい。桐ヶ谷さんが顔を真っ赤に染めて目を丸くしているから、結構効果はあったのだろう。次の機会――があったら頑張ろう。
そこからはまあ普通だった。桐ヶ谷さんの水着がスクール水着だったことに噴き出しそうになったことを除けば。まずは基本のバタ足から初めて、次にクロールの手のかき方についてレクチャーをして、補助をしながら泳がせ、十時から初めて二時ぐらいにはクロールで二十五メートルを泳ぎ切れるようになっていた。短時間でそこまで上達したので、一番近くで見ていた僕の衝撃はとてもとても大きい。
そこから一時間ほどは自由に泳ぎ回り、僕らは三時過ぎにはプールを出た。桐ヶ谷さんが近くの茶屋に入ろうと言ってきたので、僕はその提案に乗って、饅頭を頂いた。どうやら桐ヶ谷さんの家のお得意さんだったようで、一個おまけしてくれたのを、僕に分けてくれた。饅頭を食べながら、桐ヶ谷さんが話しかけてきた。
「今日は本当にありがとう。まさか一日で泳げるようになるなんて思ってもみなかったよ」
桐ヶ谷さんはそう、感情を包み隠さず、笑顔で述べた。無論、僕のおかげなどではなく彼女が自分でできるようになったので、僕も自分の意見を述べた。
「桐ヶ谷さんはすごいですね。僕のあんなに酷い教え方でもできるようになるなんて」
それを聞くと、桐ヶ谷さんは少し俯き、何か言ったようだった。その声は小さすぎて、聞きとることができなかった。だが、それを無理に聞こうとするほど僕も愚かではない。どうせ、明日には桐ヶ谷さんに僕と仲良くした記憶など残っていないのだから。
その後、僕たちは別れ、それぞれの帰路につき、月曜日を迎えた。
月曜日、早速水泳の授業があったようで、桐ヶ谷さんが泳げるようになっていたことに、皆驚いていた。昼休み、桐ヶ谷さんたちとすれ違う時、会話が聞こえてきた。
「彩乃、急に泳げるようになったよね。練習とかしたの?」
「え? うーん、やったような気がするんだけど、いまいち思い出せないんだよねー」
「へぇー。でもまあ、泳げるようになって良かったじゃん」
その会話を聞いた瞬間、僕は『やっぱりか』と思ってしまった。これで『誰も僕と仲良くした記憶が残っていない』の意味。僕と一緒に過ごした記憶、話した記憶があいまいになり、消えてしまうのだ。残っているのは、それによって得た結果のみ。
最初はそりゃあ、僕だって戸惑った。けど、小学校に入った二ヶ月後にはもう、いろいろと諦めがついていた。そこからずっと、僕はいろんな人の相談に乗っている。いろんな人の悩み事を解決している。理由は自分のためで、ただ一つ。僕のことを記憶に留めてくれる人を探すためだ。
結局、あの茶屋で桐ヶ谷さんが言っていたことは何だったんだろう。また一人、部室へと足を運ぶ途中、そんなことに頭を巡らせた。謙遜しすぎる僕への嫌みだろうか。それとも、いろいろと気付かない(僕はそんなことないと思うのだが、なぜか鈍感だと言われることが多い)僕への罵倒だろうか。それとも、僕が『推測』することができない、もっと他の言葉なのだろうか。それは、他者の心であり、他者の言葉であるため、僕にはわからない。あの時の彼女の言葉は、いつになっても僕に届くことはないのだ。永遠に、僕は理解することができないのだ。
そんなことを考えていると、いつの間にか僕の目の前には慣れ親しんだ地学準備室の扉があった。この中に、誰かいるのだろうか。その人は、僕のことを記憶に残してくれるだろうか。そんな秘かな期待を胸に、僕はゆっくりとその扉を開いて、中をのぞき込んだ。
ナツノチャミセデ 衣花実樹夜 @sekaihahiroiyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます