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それから母は、医者が言った通りに肢体の自由が奪われ、動く目玉をギョロつかせるだけの生き物となった。
母は市民病院にそのまま入院することになったので、私は兄と共にオムツやらタオルやら、必要な物を買い揃えたり、役所に手続きを済ませに行ったりと、とにかく忙しく動き回った。有給休暇を消化して会社を二日間欠勤したのだが、普通に働くよりよっぽど疲れてしまった。また、母は国民保険を長いこと滞納しており、市役所にて数十万の支払いをしないと重度障害者の保証が受けられないと告げられたときは発狂しそうになった(兄弟全員支払い能力がなかったので祖母が自身の葬式代から捻出してくれた)。
そんな中驚いたのは、母が倒れてから数日の間にやたらと宗教の勧誘広告がポストに入るようになった事であった。どこで話を聞きつけたかは知らないが、そんな広告を配るような輩は、他人の不幸を飯の種にする下賎な連中であると私は断言しよう。神だか仏だかを信じれば救われると奴らは謳っているが本来は順序が逆で、信じた人間が救われるのではなく、救われて初めて信じるに値する奇跡と、その宗教の主を仰げるのではないか。舌先三寸で信者を集め、弱者に洗脳を施すような宗教を私は信じる気になれない。私に必要だったのは、救済してくれるかどうかも分からぬ神よりも、一枚の紙幣だった。兎にも角にも、金が欲しかった。
そんなものだから母の知人達から頂く見舞金は大変ありがたかった。一人につきせいぜいが五千円程度ではあったが、全て合わせれば一月分の入院費が賄えたのである。これは、貧困に喘ぐ私達にとってはまさに天恵であった。なにせ母には数百万の借金と住宅ローンがあったのだ。その支払いを考えると、得られる金は得たいと思った。
家の売却なども考えたのだが、土地代込みでもローンは完済できそうにない金額だったし、どうせ月に幾らか金を払うのではあれば持ち家の方が良いだろうという事となり、私は長男と二人暮らしをするという運びとなった。母のいない日常に、私は思ったよりも早く順応できた。美味くはないが自炊生活の経験はあったので食事には困らなかったし、掃除も空いた時間に済ませる事ができた。近所付き合いは億劫だったが皆同情をしてくれ、町内会やらの厄介事は免除となった。そういう風にして、不安ながらもだいたいは平穏な日常を取り戻しつつあったわけだが、母の見舞いだけは、どうしても慣れる事ができなかった。
土曜の休日に、私は必ず母を見舞いに病院へ行く事にしていた。バスに乗り、山の方へ進む事十数分。停留所は丘の上にあり、歩けばすぐに病院へと辿り着く。巨大な病棟の造りは古く、無機質で、中に入るとあのアルコールと消毒液の臭いが鼻につき、母が倒れた日の事を思い出させた。
術後一週間で集中治療室から大部屋に移った母は、多くの人間に不自由な身体を晒していた。その醜態は、元来プライドの高い母にはさぞ屈辱だったであろう。しかし抗うことはおろか、眉の一つも動かす事ができない様を見ると、なんともいえない虚無感が私の情緒を掻き乱すのであった。死んでいれば、こんな地獄を見ないですんだのに。
私は病院にいる間、目に映る物は全てが虚構で、どこか架空の世界の一端を、幻覚的に体感しているような気分になった。だが一方で、これこそが紛れもない現実であるという明確な認識が、私の背中に冷や汗を生じさせた。その汗が額に移る前に私は帰るようにしていたのだが、その際に物惜しげな視線を送る母の目が辛かった。
見舞いの帰りはバスを使わず歩いた。徒歩の方が、心が落ち着いたのである。道中の見晴らしはよく、遠方にそびえる山々の、見事な紅葉化粧が伺えた。
四季は秋。少し前まで夏の熱気を帯びていた植物の魂が俄かに色彩を
すべてが美しかった。だが、悲しかった。そして、儚かった。
先まで見ていた母を思い出し、重ねる。
母はもはや美の一片も見出せない木偶であったが、眼前に広がる自然と同じく、命の灯火が消えていく過程を辿っているのだ。死にゆくだけが残された生きた骸に、私は落葉の朱を、田の黄金を、花の散り様を重ね見たのであった。
三ヶ月が経った。母の容態は変わらず、虚ろな目をして壁のシミを眺めているだけだった。私や兄の姿が見えると何か言いたそうにするのだが、歪んだ顔からは、何も伝わることはなかった。
そんな母の転院が決まった。市民病院では入院していられる期間が決まっていたのだが、それは初めから説明されていた事であり、話を聞いた日から私は兄と、死ぬまで母の面倒を看てくれる病院を探していたのだった。
住宅介護という手段も可能であったし、母の事を思えば、そちらの方が孝行となったであろう。しかし、私も兄もそんな覚悟はなかった。自らの人生を犠牲にして親の世話をするような、慈しみのある、できた子供ではなかったのだ。
転院当日。担架にベルトで固定された母は、専用のタクシーで運ばれ隣県の病院へ移された。そこは比較的新しい建物で小綺麗だったし、市民病院より余程よい環境だったのだが、母の目はどこか悲しそうで、「家に帰りたい」と言っているように思えた。
私はこの日、部屋にあったノートに言い訳がましい一文を書いた。それを、ここに記す。
ごめんなさい。
お母さんごめんなさい。私は親不孝者です。できの悪い子供です。あなたの為に、何もする事ができなかったのですから。私は、あなたの苦しみを、たった一握も掬い上げることができません。本当に申し訳なく思います。情けなく思います。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。私はあなたを殺すことも、生きている喜びも与える事ができませんでした。許してください。許してください。そしてどうか、早くに死んでください。早く楽に、苦しみのない世界へ旅立てる事を願っています。どうか早く。どうか、どうか……
私は転院以降、母の見舞いに行くのを止めた。兄は定期的に足を運んでおり、それ故に罪悪感を覚えるのだが、もう母の顔を見たくなかった。
一年が経った。祖母が死んだ。祖父はとうに死んでいたので、葬式の手配は兄弟で行なった。その際に、誰も言わなかったが「母がいたら」と、誰もが考えたに違いなかった。
この世の全てが空虚に思えた。この世の全てが無価値に思えた。中でも、一番に無意味な存在は私であるように思えた。何もできず、何も成し得ない私は、生きている意味がないように思えた。
胸の中で誰かが言った。「死んだらどうだ」と。
恐怖。いや、困惑だった。明らかに、だが不明瞭な声で、私にそう語りかけてきたのだから。
死。
それは何度も望み、何度も挫折した願いであった。しかしここにきて、その途方もない願望が、急に実現できるような気がしたのだ。
薄志弱行で到底先の望みがないから自殺する。とは、こゝろだったか。私はまさにそんな心境で、真っ当に生きていける気がしなかったのだが、それ故に、無限の無を受け入れられるような気がした。それは、救いだと思った。
そうして今日、私はこうして女々しい手記めいた雑文を記している。意味も目的もないのだが、過ぎ去った記憶が私に無益な追憶をさせ、筆を走らせたのである。
それでいざ書いてみると、改めて自身の半生が陰気で救い難く、楽しい事など何一つとしてなかったように思える。だが、実際はそうではないはずだった。私にも確かに、笑ったり喜んだりした時間があった。家族で旅行もした。数少ない友人と朝まで飲み明かした。そういった経験は、私にも確かに存在していたのだ。しかし、そんなものは綺麗さっぱりと忘却の彼方へ消え失せてしまっていた。それらの記憶が、楽しかったと感じられなくなっていた。
一切合切が、不幸に呑まれてしまった。頭の中の全てが悲運に上書きされ、大切な過去が黒く染め上げられてしまったのだ。
私はもう、世を嫌悪し、憎む事でしか自らを保っていられなくなっている。だが果たしてそんな生が幸福であろうか。いや、幸福であろうはずがない。人の道とは、如何なる障害があろうとも喜びが勝り、祝福されていなければならないのだから。私には、それがない。ただただ、自身は不幸であると決めつけることしかできないのである。では、どうするか……
答えは、もう決まっている。そう、決まっているのだ。
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