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 定職にありつけなかった私は派遣社員として隣県の工場に勤める事になった。同居していた友人が派遣元に勤めていた縁で、私が彼の受け持つ仕事の第一号となったわけである。

 友人は「すぐ辞めるなよ」と脅しをかけたのだが、その友人の方が私より早く仕事に見切りをつけ家業を手伝うために帰郷した時はさすがに呆れてしまった。


 ともかくとして、非正規ではあるが一応の仕事にありつけた。不安は多分にあったが、あの時はここで頑張ろうと思う事ができた気がする。


 工場勤は楽だった。最低限の会話さえできれば、後は黙々と作業に打ち込める現場だったので、孤独に取り憑かれていた私の性に合っていたのだろう。事立てて誇る様な仕事ではなかったがそれも自分らしいと思い、安い賃金を頂きながらひたすらに機械を組み立てる日々が続いた。

 しかし、なりを潜めていた私の不安定な精神は徐々に姿を現し始め、環境に慣れてくると学生の頃以上に飲酒をして翌日まで酒を残してしまう事が何度もあった。先行きが見えない恐怖。大学まで出て派遣の仕事しかできないのかという無能感。それらが無茶な酒の量を要求し、身体はボロボロ。吐き気と頭痛に苛まれ出社などできるはずもなく、有給すらないのに休みを重ねた結果、少ない給金が更に下がり、一ヶ月働いても月に四万ばかりが口座に振り込まれるだけになってしまっていた。

 貯金などなかった。給料は、自動車学校に通う際に作った借金と携帯電話代金。それと家賃と光熱費に消えてしまう。食事さえ、摂れなかった。いや、酒代をまわせば十分とはいえないまでも、日に一食、一汁三菜の膳にありつくことはできただろう。しかし、私は脳の鈍化を望んだ。空腹よりも現実を考えてしまう事が恐ろしかった。

 こうして金がないのは地獄の沙汰と社会に放り出されたばかりの私は実感したのであるが、同時に、金を得る為には自分の能力が著しく欠如しているのではないかと思い始めた。就職活動での度重なる落第を受け、その都度に自信は喪失してはいたのだが、いざ働いてみると大人としての責任や、義務をひしと感じ、それを背負うのに自分の痩せた背中では到底耐えられないと抑鬱に陥ったのだった。

 一人きりの狭い部屋。突然に涙が溢れ、伏せる。胸の奥底からはクスクスと笑う声が聞こえ、心が沈んでいく。私は、私自身の気持ちを、どうにもできなくなってしまった。


 そうして派遣社員を六カ月で辞め(長期契約だったので派遣元から文句を言われた)、実家に帰った。休みたかった。何も考えたくなかった。胸に開いた風穴を、どうにかして埋めたかった。しかし一家の長である母は私を無条件で招き入れることはせず「家賃はちゃんと払いいよ」と労働を強いたのであった。

 無理だとは言えなかった。仕方なしに、私は近くの居酒屋でアルバイトをする事にした。学生の頃の経験が生かせるだろうという安直な理由からであったが、それがまったく甘い考えだったと痛感する事になる。

 チェーン店の広い客席数と無駄に多いメニューを覚えるのに骨を折ったし(学生時代に働いていた店は小規模な個人店であった)、初めて使うオーダー発信用のハンディターミナルを操作するのにも慣れが必要であった。おまけに初日から十二時間の労働を強いられ、足袋一枚で動き回ったものだから足の裏が腫れ、痛かった。


 翌日の昼前に起きた私は早速アルバイトが嫌になってしまっていた。上記したように身体的な疲れもあるのだが、それ以上に精神への負荷が大きかった。というのも、同じく働く店員の態度や目付きが一様に悪く、皆、私の事を使えない新人としか見ていなかったからである。

 酔っ払いにあれやこれやと言われるのは我慢できる。ガラの悪い客に威圧されるのも、さほど気にならない。しかし、長く、多く顔を見合わせる店員に冷遇されるのは、他人が想像するよりも辛いものだ。何をやるにしても、誰かの目を気にしながら行わなければならないのは、神経がすり減っていく。

 だが簡単に辞めるわけにはいかなかった。ローンも家賃も食費も私の懐から捻出せねばならなかったし、来年からは奨学金をもきっちりと返却していかなければならない。何は無くとも、金は必要だった。

 私は毎日のようにいびられ、非難され、悪態の限りを尽くされたのだが、それでも心身に火を入れ働いた。アルバイトとはいえ長時間の労働はそれなりの稼ぎがあった。辛くはあったが、溜まっていく預金通帳を慰めとしてなんとか一通りの仕事を覚えた。そうして人並み以上に働けるようになった頃には、私を悪くいう人間はいなくなっていた。当然だ。その店は、いなければ、店がまわらぬ程に人手が不足していたのだから。

 これは別に綺麗な話ではない。正規、非正規問わず、店で働くものは皆、私以上に怠惰でどうしようもなかったものだから、自分達の仕事が増えないようにするため、私が辞めないよう、ようやく私を人間として扱い始めただけなのであった。ただ、それだけの事だ。


 さて。実家暮らしを初めて数ヶ月。私は母からある告白を受けた。


「あんたのお父さん、実はお母さんと籍入れてないんやて」


 それは一緒に昼食を摂ろう言われ、近くの喫茶店で安いスパゲッティを食べている途中であった。母は僕の嫌いなミートスパゲティをフォークで丸めながら、歌でも奏でるよう軽やかに口ずさんだのであるが、恐らく、意図して平静を装おうとしたのだろう。あまりの軽薄さに、母が似合わない思慮を働かせているのだと、どうしたって察せてしまう。

 正直、その告白に驚きはしたが、私は自分で思うよりも冷静に「そうなんだ」と簡単に返すことができた。なぜかというと、私が名乗っている性は母方由来のものであり、昔から、何かおかしいと感じていたからである。しかし、母から発せられた次の言葉には、さすがに驚愕の悲鳴を上げざるを得なかった。


「あと、あの人、別に家庭がある。子供も二人おるよ」


「……!」


 ふざけた話だ。それでは、私は妾の子、不貞の子ではないか。坂本龍馬を敬愛していた父は、昔から「正しくあれ」と教えてくれたものだが、これでは棚上げも甚だしい。

 しかし、その事実は、私の細切れになって流れていくような人生に、迷信めいた、霊的な納得を与えてくれたのだった。


 血筋の卑しい人間は、何をしたって王道や普及している凡庸な幸福など、得られるものではないのだ。


 私は母が嫌いなカルボナーラを食べながら、表情に出さずに笑った。その笑いは決して愉快であるからではなく、悲観的な自棄でもない。ただ、他にやるべき事がみつからなかっただけである。

 父に対しては怒りも憎しみもなく、また、母に対しても別段怨嗟の念は抱かなかった。ただ、快楽という悪徳を、愛という名で誤魔化して、道理を弁えず、不義理を持ってして私を産んだ事に対し、これまで一切の後悔も後ろめたさも感じさせなかったのは嫌悪の対象となった。どちらか一方に、もう一つまみくらいの良心か道義があれば、私のような不幸を生み出さず済んだのだから。


 私は「余計な不幸を背負ったね」と嫌味を吐いてやりたかったが敢えて口に出すことはせず「分かった」と言ったきりで、母もそれ以上は語ることはなかった。

 ただ、お互い対面している人間が嫌っているスパゲッティを、終始無言で食べる。それだけの時間であり、それ以外は不要で、それくらいの気不味さがちょうど良く、皿が空になると僕も母も、気持ちも腹もいっぱいになっていた。

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