6

 居酒屋でのアルバイトは三年も続いた。何度も辞めようかと思ったのだが行動に移すのは億劫だったし、また面接で恥を晒してしまうのではないかと怯えていたのだ。

 しかし店長が若い男に変わって、どうにも彼とはソリが合わなかったのでとうとう地元の工場に就職したのだった。私は二十五歳にして、ようやく正規社員として労働する事が許されたのである。


 新しい職場の人間達は、役職を持つ者以外は随分と呑気に、覇気なく生きているように見えた。

 一日中眠たそうに与えられた仕事をこなし、暇があれば会社の文句を言うだけで自らはどんな行動も起こそうとはしない。全てが他人任せで無責任な中年ばかりだった。反面、現場を見て回りながら作業をする係長は苦労が絶えないといった顔つきで一日中汗を流しており気の毒だった(本人の要領が悪いのもあるのだが)。他の従業員がほんの少しでも係長に協力的であったのなら、彼の発汗量と悩みが幾らか少なくなっていたのであろうが、肥溜め然とした環境でそれは叶わぬ事なのであった。


 その会社での作業は、派遣時代よりはるかに単調で面白味のない内容で退屈きわまりなく、機械を使ってボルトやナットをひたすら溶接して箱詰めをするだけのものだった。

 私は欠伸を噛み殺しながら、時には睡魔に呑まれながらも、やるのであればと一所懸命となり働いた。

 残業や休日出勤にも二つ返事で了解し(無論生活残業など一度たりともしなかったし極力定時退勤できるよう心がけていた)、大変そうな上司を手伝ったりしてやたらと感謝などをされていると、二年目には自分が係長になっていた。

 しくじった。いらない気苦労を背負い込むつもりなど毛頭なかったというのに、気が付けば、私が頭を悩ませる立場に立たされていたのである。前任の係長は辞めてしまい、「責任をおしつけてしまったようで申し訳ない」と詫びを入れられたのだが、謝るくらいならば他の候補者を擁立して育成するくらいの事はしてほしかった。いったいなぜ経験の浅い私が中間管理などしなくてはならないのか。評価が高い事に喜びはあったが、それ以上に不満だった。就任する際、せめて一年学ばせてくれと言ってはみたがお茶を濁され、結局体当たりで仕事を覚えていくしかなかったのが大変だった。


 それでも、私の人生の中で最も穏やかな時間が流れていたのはこの時期かもしれない。仕事では、不親切ではあったがサポートもあったし、実家の暮らしはマンションや寮より快適だった。金はなかったが、娯楽のない田舎で使う額などたかが知れている。酒の量も落ち着いていて、日々の支払いを引いても、微小ながら口座に蓄えていく事ができていた。

 私はこのまま指の一本分でも貯金額が増えていったら、どこか遠くへ引っ越して、自らの力だけで生きていきたいという、半ば逃避のような願望を持つようになっていた。

 東京がいいだろうか。神戸も洒落ている。いっそ、北海道まで行ってやってもいい……そんな妄想を繰り返しながら平日は働いて、休日に惰眠を貪る生活は、静かな充足感を私に与えてくれていたのだが、やはり早く一人になりたいと思っていた。


 地元は嫌いだった。山と川と田畑があるばかりで、何の変化もなく同じ時間が過ぎていく。何も成し得ない退屈な人間ばかりが集い、私もまたその一部となっているのが、堪らなく屈辱だった。

 また、母親には恋人ができていたのだが(父は元の家庭へ戻った)、この男の存在も家から退去したいという気持ちを強くさせていた。彼は下品で図々しく、脂ぎった肌と肥えた腹を持った俗物であり気に入らなかった。おまけに私をろくに稼げぬ惰弱者として見下していたのだ。その見方は正しいが、俗人にそう思われるのは腹が立つ。しかし甲斐性も気力もないのは事実である為どうしようもなく、歯がゆい想いをしていた。

 意志薄弱で怠惰なくせに、人一倍見栄っ張りの私は独立したい欲求が日に日に増していき、不甲斐なさと自尊心のせめぎ合いに苦しい酔い方をしていたのだった。


 しかし、今日まで独立の夢は叶わなかったのである。フラと遊びに行った最寄りの地方都市の歓楽街で夜遊び癖が再発し、あっという間に貯金を全て使い果たしてしまったのだから。

 そうして金がなくなって、私の精神はまた安定を欠き始めたわけだが、今にしてみれば、そのような情緒の不安定など取るに足らないものであった。確かに浪費は度し難い悪癖ではあるが、下手な遊びで使った金などいくらでも取り返せるし、根本的な治癒は可能なのである。

 だが、真の悲劇とは天が与えた無慈悲であり、決して個人の努力で解決できるものではない。狂気に陥る手前まで精神を疲弊させる悲観すべき本当の荒涼は、ここから始まるのであった。







 ある日、兄から私の携帯電話に一報が届いた。


[母が倒れた]


 その簡潔に書かれた文章を読み終えた後に兄へと電話をすると、母は酒の席の途中、意識を失い、救急車で市民病院に運ばれたのだと、母の友人から連絡があったのだという。私は電話を切ると、上司に事情を説明してすぐに病院へ向かった。

 タクシーを呼び、二十分かけて到着すると緊急外来用の入口に行った。すると、兄に連絡してくれたであろう、母の友人という中年女性が三人いて詳しい話をしてくれたのであったが、彼女達が幾ら口を開いても、私の頭の中で言葉が崩れていき、何を言っているのかさっぱり分からなかった。また三人の一人が近くを歩いていた医者に「真中 薫さんの息子さんです」と私の正体を教えてくれたようだが、それについても礼の一言が出なかった。

 気が動転していたわけでも混乱していたわけでもない。まだ母の容態も分からぬし上、私もいい歳だ。この程度で冷静さを失うほど早計ではない。しかし、アルコールと消毒液の匂いで満たされた空間において、理解不能なノイズが私の脳に走っていたのであった。簡単に書けば、不安だった。


 ほどなくして医者に呼ばれたので治療室に入ると、そこには、幾重もの管が刺さっている母が寝かせられており、傍らに座る医者が、淡々と資料を整理していた。

 私が促されるままに空いている椅子に浅く腰をかけると、医者は「どうも」と頭を下げ、今、母が置かれている状況を話してくれた。


「患者さん、脳から信号が送られる部分に出血がみられます。これを脳橋出血というんですが、予後不良がまず起きます。意識は戻るでしょうが、身体を動かす事はもちろん、聴力もほぼなくなるでしょう。目だけは見えますが、それだけですね」


「思ったより、重体ですね」


 言葉はすらりと、簡単に口から出てきた。しかし、この短い文章を発した際には抑揚がおかしくなっていたし、声色も妙であると自身でも分かった。

 そんな私の痴態をまるで意に返さず医者は話を続ける。


「また、このままいくと一時間程度で舌が動かせなくなり窒息しますが、酸素を供給しますか? その場合、気道に穴を開けて、今後は喉にカニューレという呼吸機を付ける事になりますけど」


 延命処置をするかどうかの選択を、医者は迫った。そして私は告白せねばなるまい。この時、母の危篤を嘆くよりも、存命した場合の介護の手間を先に考えてしまったことを!


 金も時間も、母の命より惜しいと思った。我が身の自由が奪われるのが、何より恐ろしかった。齢二十七にして重い十字架を背負いたくなかった。私は、なんとも身勝手で、薄情で、悪辣なる本性を、自身の胸に轟かせたのである。


 まだ楽しい事はあるはずだ。ろくな人生ではなかったが取り返しはつく。私はこれからではないか。それがなぜこのような悲劇に、理不尽に遭わねばならないのか。

 私は誰を恨めばいい! 誰を憎めばいい! まったく無情ではないか! この身に降りかかった不運に対し、無意味に慷慨こうがいすることしかできないのだから!


 私は、医者の前で固まった顔のまま、心の内の己が卑劣漢を存分に、雄弁に語らせたのであった。母の不自由に想いを馳せたのはその次だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る