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大学に通うに当たって私は寮住まいをする事になった。そこは築何十年経つのか分からぬボロの平屋で、暮らすのに、少しばかりの勇気と慣れが必要であった。
私は入寮したその日、とんでもないところにきたなと不安だったが、当てられた部屋に家具を運び込むとなんとか落ち着くことができ、ペットボトルの茶を飲みつつ新たに始まる生活に思いを馳せた。
不本意に選択させられた学士への道ではあったが、進学したからには花のキャンパスライフを送りたいと思っていたし、大学生らしく遊び呆けたいとも思っていた。気の合う友人や恋人なんかも一人か二人はできるだろう。四季折々のイベントもきっと楽しめるだろ。そんな妄想の花を咲かせ、安い土壁が床板に落ちるのを気にもせず見ていた。だが、夢見た青春の風は一度たりとも吹くことはなく、私はジメジメとした梅雨空のような四年間を過ごす事となる。若さしかない人間が、その唯一持つ若さという宝さえをも腐らせてしまったのだから救えない。
大学は小さく貧相で、周りの人間は阿保ばかりだった。偏差値に比例した授業料の安さは、まるで自分に付けられた点数のように思えた。そんな所にいるのがなんだか情けなく感じ、日常で溜息の数が増えていく。実際は身の丈相応な環境であったのだが、私はそれを認めたくなかった。自身には、もう少しばかりの価値があると信じたかった。何をしたか。何ができるのかではなく。どこに身を置いているのかという俗物的な思想でしか、自らを評価できなかったのだ。
また、慣れない環境での生活は想像以上に苦痛で、私の二脚はすっかりと強張ってしまい、思うように駆ける事ができなくなってしまっていた。それでも、他の新入部員に比べると頭一つ抜き出ていたから、私は無理を押して選手としての責務を果たさなくてはならなかったのである。
走れば走る程遅くなっていくのが屈辱だった。当たり前にできていた事が、できなくなってしまう恥と恐怖。不安に負け、私は覚えたての酒に逃げた。味も種類も分からず、店で安くてまずい酒を買い、溺れた。そうしてまた脚が動かなくなってくのである。絵に描いたような転落っぷりに、当時の私は自虐的になり自らをよく哀れんでいたものだ。
そんな堕落した部活動とは反対に、大学での講義は面白く感じていた。必修科目などという益体のないものはともかく(そういった退屈な講義は読書をして過ごした)、選択科目の中で生命倫理や宗教学。美術や文化論に強く惹かれた。それらはいずれも、大学に入学以前から興味を持っていて個人的に調べたりしていたものだから、力が入るのも当然だろう。それ加え、上手くいかない陸上から逃避したいという心理も働いていたのもあった。私は、よく講義や課題を理由にして練習に参加しなくなっていった。高校の時と違い、それが許されていたのが私の怠け心を復活させ、平素でも部活動に対し不真面目な付き合い方をするようになる。二時間自由に走ってこいと言われる朝の練習は、いつも寮に帰って、本を読む事を無聊の慰めとしていた。
しかし、今となっては何を読んでいたのかまるで思い出せないでいる。私は何かにつけて半端であった。知識を身につけることも、陸上競技に精進することもできなかったのだから。
ろくな生活ではなかったが、二年目に監督が代わってそれなりの成績を出せるようになった。新しい監督は昔気質で練習至上主義の老人だったが、私の場合、尻を叩いてくれる人間がいた方が何事も身に入るようだった。だがその監督も私が三年生の途中で辞任してしまい(学校側と雇用契約で揉めたそうだ)、また代わりの監督が入ってきたのであったが、私は彼とはソリが合わず、結局、三年の終わりに退部して、同じく部活を辞めた友人と二人でルームシェアをしながら過ごす事になった。その生活はそれなりに楽しかった。いつしか友人の彼女も一緒に暮らすようになったのだが、なぜだかその彼女の下着まで私が洗うようになっていたのだ。笑う他ない。
また、私はその頃から、生まれて初めてアルバイトとというのを経験したのであった。就職活動を東京で行おうと思っていたから、金が欲しかったのだ。職務内容は、飲食店の給仕である。分かりやすく書けば、居酒屋のホールだ。また、同時にドリンクを作る作業も仰せつかり、これを執り行っていた。むしろ、元来の仏頂面から、接客よりもそちらの方が主として使われた。私自身も、人と関わるよりは一人で下手な酒を作っていた方が楽であったのだが、たまに客席に赴くとやたらと気に入られる事が多く、たまに常連に呼びだれたりして酷く憂鬱であった。が、それにより気に入らない副店長に自身の有能さをアピールできたと思っていたし、人から呼ばれるというのも小さな自尊心を満たせたので少しばかり得意になっていた。この経験が、後に再び飲食店でのアルバイトを決意させる事となる。
金を得た私は遊ぶのにも余念がなかった。一人、バーやら居酒屋やら女のいる店に行き、そこで酒や夜の作法の基礎を学んだ。自制はあまり効かなかった。あればあるだけ金を使ってしまい、就職活動の軍資金を貯えるという初志は何処かへ消えてしまっていた。
もちろんバス代程度は確保していたが、夢の大都市東京で自由を買う金を、私は持たなかったのだ。なのでいざ出発という際、仕方なしに親に無心して三万ほどせしめた。この時は感謝よりも、どうやって遊ぼうかという邪が頭を占めていた。私はいつだって勝手であり、自己が中心となって生きている。苦労など他人がすればいいのだと、愚かな事だが、今でも考えてしまう時がある。
自分は楽に生きて死ぬ。今まで不幸だったのだ。残りは幸福であろう。
そんな妄想に取り憑かれたまま私は東京に行って、しどろもどろな面接を繰り返し、酒を飲み、帰ってアルバイトに励み、とうとう内定がないまま卒業を迎えた。一緒に住んでいた友人は中退していて、私は一人、誰と話すわけでもなく式とその後のパーティに出席した。
同居していた彼の他に友人はいなかった。ゼミの教授も、私を持て余している風だった。セックスは経験したが恋人もできず、私は誰にも必要とされないまま大学を後にする事になったのだった。胸に空いた穴から、「お前は死んだほうがいいよ」と得体の知れない声が聞こえ始めたのはその頃からで、今もしきりに呻いては、「死んだ方がいい。死んだ方がいい」と呪詛の如く私に言ってくるのである。すっかり慣れてしまってはいるが、たまに本当に死んでやろうと首を吊る癖ができてしまい、年中、
そういえば初めての自殺未遂は、その卒業式の前日であった。仕事に有り付けず未来が断たれたと絶望して、洗濯物を干すキャスター付きの棒に縄を引っ掛けて体重をかけていったのだが、私が意識を失っている間にバランスが崩れ、惨めにも死に切れなかった。あの時死んでいれば、今ほど苦しみもせず、流した涙の総量も幾らか減っただろうにと考えざるを得ない。虚しいたらればなのだが、私は、自らの身体に宿る命と魂に、なぜ未だに現世にすがりついているのかと問いただすばかりなのである。起こり得なかった幸いなる不幸を夢見るのも致し方ない。
私は、自身の持つ意味のない生に価値を見出せないし、周りから見ても、私の存在に意義を感じないであろう。それは、大学を卒業する時に強く思った事であり、今現在、私の胸の内を占める大半の泥の根元なのである。
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