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勉学を疎かにしていた私は入学早々に落伍者として生活するようになる。中学生としては致命的な算術の拙さ。新しく習得せねばならぬ英語の難解さ。そして自堕落な性分が、輝かしい未来への道を徐々に細くさせていった。おかげで現在はろくでもない生活を歩んでいるのだが、それを決定づけたのが部活動であった。
なにかしらの部活への入部が強制され否応無しに一人の時間が削られるシステムに不満を抱いてはいたが、どうせやるならと、私は当時テレビゲームで興味を持った野球部に入ろうと思った。しかし、「あんたが野球なんてできるわけないに」という母の一言により、哀れにも陸上部などという何が楽しいのか微塵も理解できない部活動へと参加する羽目になってしまった。しかも種目は中、長距離のみである。忍耐という、私がもっとも苦手とする要素を骨子とするスポーツである為に素直に承服はしかねたが、母のヒステリーには敵わなかった。
それでも最初の内は練習に出ていた。唯一朝練習のある部活動で大変面倒であったが、六時に起きて登校準備を手早く済ませ、十分かけて学校に到着。七時三十分から学校内を走り回り、放課後は校外に出て走った。
しかし段々とその生活が億劫になり、二年生になる頃には練習に不参加となることが増え、その内完全に顔を見せなくなった。いわゆる幽霊部員といわれる存在となったのである。
酷暑の中でどうして滝のような汗を流し喉を涸らさねばならぬのか。厳冬の中でどうして白い息を吐き散らさねばならぬのか。ゲーム性もなく単純に忍耐と脚力を競うだけのスポーツに、私は何も楽しさを見いだせなかったし、今でも分からない。よくテレビ中継でやっている駅伝やフルマラソンなどを観ると、自分が走っていた時のことを思い出し動機と吐き気がする程である。
さて。そんなわけで部活も勉強せず、堕落した生活を送っていたのだったが、ある日、私は母から「あんた近くでやってる陸上のクラブチームに入ったから明日から行き」と意味不明な言葉を賜ったのであった。怠惰に塗れた生活を見かね更生させようとしたのだろうが、迷惑以外のなにものでもなかった。
だが、我が家において絶対の権力と決定権を持っている母の意向に逆らう事などできるはずもなく、私は翌日から近所でやっている走る習い事を始める事になってしまったのだった。
クラブでの練習はそれまで私が経験した事がないものであった。初日にいきなり6000メートルも走らされたのは想定外だったし、それをまさか達成できるとも思っていなかった。その時、コーチに「お前は伸びるよ」と褒めていただいたのだが、疲労のあまりまともに返事さえできなかった。こんな練習が週二回もあるのかと思うと、途端に心臓が萎縮し、肝は震え、吐き気を催しながら絶望した。
しかし日々嫌々と練習をしていくうちに、私は小さな芽を成長させ、才能という花を咲かせたのである。中学三年の時に行われた県の駅伝大会では見事にエース区間で区間賞を取り、それなりに名を知らしめる事が出来たのであった。
当時の私がその栄誉に鼻を高くしなかったといえば嘘になる。なにせ市長から直々に激励をいただき、地域の新聞にも私の名前とインタビュー記事が掲載されたのだ。十代前半の自尊心が刺激されないわけがない。おかげで中身のない頭の中はさらに空洞化が進み、脚さえ速ければいいのだと、明らかに間違った思想を自分でも気づかないままに胸に抱いていた。今更になって思い返してみれば実に愚かであり、恥ずべき短慮である。
そんな私がどこの高校へと進学したかといえば地元の商業高校であった。ここは体育会系の部活に力を入れていた学校で、脳が足りない人間でも、有力な選手であれば四則計算と日本語が分かるだけで入学する事ができた。学校側が市下の中学において、各部活動でめぼしい成績を残した人間を集め、校の広告塔として利用していたのである。
当然、私も例に漏れず陸上競技での功績が認められ、殆ど推薦という形で入学したのだった。その中で私が入った科は頭を丸めた男子ばかりが集められた馬鈴薯農園のようなところで、皆が皆まるで戦中の学徒兵みたいな風貌であった。
そんな高校での生活は不愉快な記憶しかない。男達は漏れなく粗野だったし、上下関係は、部活内では緩いものだったが、校内では不必要に徹底された。一年の最初、二年生が集団で乗り込んできて挨拶指導という名の恫喝を行ってきたのはまったく私の心を乱したものだった。
また、部活動の監督役をしていた教員も酷かった。箱根駅伝にて三度の区間賞を取った素晴らしい経歴を持つ人間であったが、残念ながらその人徳は彼の実績ほど光っておらず、むしろ薄汚れた鉄のように鈍く錆びだらけのものであった。理不尽と独裁を愛したかの教員は、私にとっては嫌悪の対象であり、大変付き合いづらく何度か嫌な思いをした。
練習も中学時代とは質、量共に比べものにならぬ厳しさであり、一切のサボタージュは許されず、日常生活はほぼ陸上競技を中心に回っていたといっても過言ではなかった。朝は五時に起きて走り、学校が終わると十九時まで走る。阿闍梨にでもなるのかと思った。
果てしなく続く肉体的苦痛と、先の教員による重圧や怒号により、私はすっかりと疲弊してしまい生きている意味を見失ってしまった。性格は卑屈そのものとなり、教員に怒られぬよう怯えて過ごし、自身の人間としての裁量を奪われてしまったかのように思えた。そのせいか両親とはよく衝突した。部活ではある程度の結果は出したのだが、それでも尚辞めたいとか辛いとか言う私をたまに叱責したりなだめたりするのだから、それに反発したのである。私はそれが嫌だった。また、内心脚が速い事で得意になっていたのも、自己矛盾的な感じがして幾らか悩んだ。
しかし両親に感謝していないわけではない。陸上競技は一見金がかからぬように見えるが、シューズ一足で一万円はするし、それを練習用、試合用。それとスパイクの三つを揃えなければならず、また、消耗品故に定期的に新しいものを買い揃えなくてはならなかった。それに練習着にも金はかかるし、合宿費用(夏には一週間の合宿が三回あり、春と冬は一回ずつ行われた)も当然、親の懐から出ていくのである。試合の後は必ず焼肉屋に連れていってもらったし、普段の食生活も私の栄養面に気を遣った献立にしてくれていた。時にはマッサージなどもやってくれて、まったく至れり尽くせりの生活なのであったが、私はそれが当然のように考えていた節があった。感謝の言葉さえ発しなかったのが、今となっては悔やまれる。
そんなわけで三年間、つらい思いをしながらも、親の助けもあり何とか生きて卒業を迎える算段となったわけだが、私はなぜだか大学へと進学する運びとなっていた。しかも、陸上を続ける前提で。
元々私は就職希望であった。だが、極一部にではあるが名が知られてしまった為に県外にある三つの大学からスカウトされたのだった。それでも走りたくなかったので断ろうと思っていたのだが、例の教員が「どこにするんや?」と、強制的に私を進学の道へ誘導し、そのまま地方の四流大学へと入ることになったのだった。まったく、自分でも愚かだと思う。一生を決める選択を、一時的な恐怖に負け他人に委ねてしまったのだから。また、私が断れないと知った上で、大学へ行かせようとしたあの教員にも腹が立つ。いや、全ては私が悪いのであるがそれでも、権力をかさに着て生徒を私物のように扱うあの男への恨みは、今でも消えない。
大学へ入学するに当たり私は奨学金を借りた。この借金が、今現在でも私の首を締め付けている。金の話は、多くの日本人同様に私も苦手とするところだったし、賎なものであると遮ってきた。奨学金など、瑣末なものだと思っていた。しかしそれが今日において私を苦しめているのだから、人生とはままならぬものである。卒業式に涙はでなかった。そこには苦しみと屈辱からの解放と、新生活への不安があるだけだった。
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