【3】
気がつくと、そこはあの水辺だった。ああ、また夢か。早く起きないといけない。またあの時と同じ気配。後ろに誰かが居る。こちらに近づいてきているようだ。私はあの時と同じように、振り返った。
「ここで会うのは二度目ですね、音無先生」
黒く短い髪。人の良さそうな顔。紫がかった瞳。そしてあの微笑み。眼前に居るのは黒瀬ユリその人だった。だが本当に彼女なのだろうか。私は彼女が本物ではなく、夢魔かなにかが彼女に化けているのではないかという疑念を抱いた。
「あなたは本当に………」
私がその疑問を口にしようとした時、それをさえぎるように彼女は言った。
「ええ、私ですよ。黒瀬ユリ。あなたの同僚です」
なぜ彼女が二度も夢に出てきたのだろう。しかも同じような夢に。私がそのようなことを考えていると、彼女が話し始めた。
「その疑問にお答えしましょう。ここではあなたの考えていることは全部分かるんですよ。ここは夢、そう、夢の世界。あなたの夢です」
続けて彼女は語る。
「私は他人の夢に入ることができるんです。そしてそこでは相手の思考を読むだけじゃなくて、心が“見える”んですよ。音無先生、あなたの心は深海の色。どこまでも続く深い青。不思議な力でしょう。私がこの力に目覚めたのはつい二週間ほど前のことでした」
彼女が言うには奇妙な夢を見たことがきっかけで力に目覚めたという。他人の夢に入るなんて、そんな不思議なことができるのだろうか。常識で考えるならば、きっと不可能だと思う。だが私はそうした不思議な力を目のあたりにしたのは、これが初めてではなかった。
「先生、こういうことは信じるタイプみたいですね。ちょっと意外だなー」
彼女はまたあの瞳で私を見つめた。
「あなたの心には傷があります。そうでしょう、先生? 今も癒えない傷を抱えている」
それは事実だった。十年前、あの戦争がすべての発端だった。あの時のことに思いを巡らせようとしたとき、彼女の目が少し笑った気がした。
「十年前の戦争で何かあったようですね。聞きたいなぁ、その話」
「人のトラウマを知りたいだなんて趣味が悪いわ」
私ははっきりとそう言った。彼女が心を読めるのはこれまでのやり取りで明らかだった。だが私はあえて声に出した。
「拒むんですね」
彼女は一歩前に踏み出し、こちらに近づいた。いつの間にか周囲の風景は変化していて、私たち以外の全てが深い青に包まれていた。
「私はただ、綺麗なものが見たいだけなんですよ。あなたが抑圧している心の傷はきっと美しいものだと思うんです。この光景はあなたの心そのもの………こんなに綺麗な色をしている」
彼女は再び、一歩こちらに歩み寄った。私は反射的に後ずさろうとしたが、それは出来なかった。いつの間にか私は身体を動かせなくなっていたのだ。
「ふふ、怖いですか、動けないというのは。話してくれないというなら力ずくで“見る”しか無さそうですね。まあこの力にも限界はありますから、記憶の完全な閲覧はできませんが」
彼女はこちらの目を覗き込み、私の頬を撫でた。
「もしかすると、話せばその傷は癒えるかもしれませんよ。何事も一人で抱えるのは良くないと言いますし。話してみてはどうですか?」
彼女は囁くようにそう言った。確かにそれはその通りだ。この傷を完全に無くすことはできなくとも、少しは楽になるだろう。だがその後に私に残るものはあるだろうか。
「そうね、あなたの言うことはきっと正しい。だけど、やめておくわ。この傷は私という存在にとって必要なものなの。あの時の私と今の私を繋ぎとめる、ただひとつの楔。それがこの傷よ」
彼女の目が見開かれる。彼女は震える声でこう言った。
「そんな………それじゃあ、あなたはその傷をずっと、一生抱えて生きていくつもりなんですか」
「ええ、そうよ」
「そう…ですか………」
彼女はそう言って目を閉じた。そして私の意識はそこで途切れた。
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