【2】
あの妙な夢以降は特別なことは何も起きず、週末が訪れた。そして私は黒瀬先生の家に向かった。それは彼女の相談を受けるためであった。特に予定のなかった私は、たまにはそういう誘いに乗るのも悪くないと思ったのだ。時刻は昼過ぎ。サトコはマサヒロ君のところに遊びに行っている(マサヒロというのは私の教え子であり、同じマンションの住人だ)。彼女の家は墨田川の近くで、私が住んでいるマンションからそう遠くない距離にあった。小さな一軒家の呼び鈴を鳴らす。彼女はすぐに出てきてくれた。
「来てくれたんですね、助かりますー。狭い家ですが、どうぞこちらに」
彼女のあとに続き家に入る。妙に薄暗いが、嫌な暗さではなく心が落ち着く気がした。私は居間らしき部屋へ案内され、ソファに腰掛けた。
「それで、相談というのは?」
「それなんですけどね、実は生徒への接し方というか、あ、そうだ」
彼女は何かを思い出した様子で奥の部屋へ消えた。手持ち無沙汰になった私は部屋を眺めてみることにした。家の外観のわりには広く感じる部屋だ。窓には白いレースのカーテン。ソファの正面には丸いテーブル。テーブルの向こうには私が座っているのと同じソファ。横を向けばテレビと小さな観葉植物が小型ラックの上に乗っかっている。なんの植物だろう。
「お待たせしました。相談料です、なんて。まあ私も食べるんですけど」
甘い匂い。ケーキだ。
「えっと、どうもありがとう」
彼女は持ってきたケーキ二つをテーブルに置くと再び奥へ消えた。皿の上に乗ったショートケーキ。イチゴではなくブルーベリーが乗っている。少しして、彼女が戻ってきた。今度は紅茶の香り。
「ティータイムですよ、ふふ」
彼女は微笑みつつ紅茶をテーブルに置いた。ティーカップに入った紅茶はほわほわと湯気をたて、優しい香りを部屋に満たした。なんの茶葉かは分からないが、この香りは心地よい。まるでこの部屋だけに春が訪れたかのような気がして、今が冬だということを忘れさせてくれそうだ。
「さ、どうぞどうぞ」
私は優雅なティータイムを過ごしつつ彼女の相談に乗った。時は緩やかに流れた。結局のところ彼女の相談とは、生徒とどのようにコミュニケーションを取るべきかという内容だった。
「私、どうにもそういうの苦手で………」
「そんなことないですよ。むしろよくコミュニケーション取れてると思います」
これはお世辞ではなく、本当のことだった。彼女の生徒への接し方は完璧と言ってもいいくらいだと思う。
「そうなんですかねー。なんか自信なくてー」
そんなふうに話しているうちに私たちはティータイムを終えていた。今回のケーキは彼女のお気に入りの店のもので、値段はそう高くないのだという。彼女は甘いものが好きで、週末はたいていケーキを買っていると言っていた。そういえばケーキを食べたのは久しぶりな気がする。
「ところで音無先生、この間の話なんですけどね………」
あれ、なんだか変だ。彼女の言うことがよく分からない。こんな時にどうしたというのだろう。視界が揺らめく。まぶたが重い。身体の力が抜けてきた。そして、強烈な眠気。抗おうにも身体はうまくコントロールできず、私の意識はそのまま落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます