第37話:鎮魂とは遺族のための儀礼なり(前編)



 ◆◇◆◇◆◇



「ならば、なにとぞ力を貸して下され!」


 呼ビ子の少女の変じた男は、這うような体勢で狭霧に迫る。


「私の力が必要ですか?」

「おお、そのとおりじゃ。共に行きましょうぞ」


 柳に風といった物言いだが、男は聞いていないのか、狭霧が自分に同意していると思い込んだようだ。


「ははっ! ははははははっ! 意趣返しの時は今ぞ!」


 男は天を仰ぎ、歪み狂った大笑を青空に響かせる。


「並み居る郎党を一人残らず逆剥ぎにして吊るし、軍馬の腹を割いて生き肝を頬張り、憎き角折リに思い知らせてやろうぞ!」


 男は震える片手で、顔の鬼面をはずして投げ捨てる。その下から見えるのは、三十代ほどの男の顔だった。口は耳まで裂け、炯々とした眼光を放つ、人と鬼の混じった顔だ。


「そして吾は……吾は……あの角折リの首を引き千切り、ほとばしる熱くかんばしい血潮を総身に浴び、そして、そして…………!」


 歯をカチカチ鳴らしながら男はおぞましいことを口走っていたが、突如動きを止めた。全身の震えが止まり、その目が見開かれる。


「…………そして、どうするのだったか?」


 当惑。その二文字に男の声は染まっている。


「なあお主、吾は何をするべきだったか、知らぬか?」


 つい一瞬前まであれほどの執念を燃やしていたにもかかわらず、男はまるで親とはぐれた幼子のような顔で狭霧を見る。本当に、自分が何をしたいのか忘れてしまっているようだ。


「さて、私はあなたではない故、存じ上げません」


 それに対し、あくまでも狭霧は平静に応じるだけだ。


「それに、せっかくの申し出ですが、残念ながらできぬ相談かと」

「……何じゃと」

「お気づきになっておられないようですが、あなたはもうとうの昔に討たれ亡くなられているのですよ」


 男の体が、びくりと大きく震える。


「吾が討たれた……だと?」


 戸惑いと怯えに後じさる男に、なおも狭霧は優しく語りかける。血の一滴も通わぬ、冷たい優しさで。


「はい。古き頭角、我らの祖により近き方、天瀬幸貞あまがせゆきさだ殿。此度もまた、現世に迷われましたな」


 天瀬幸貞。それがこの鋭角の持ち主の名前である。その昔、次第に人として過不足なく振る舞いつつあった頭角たちの中で、先祖返りしたかのように旧き鬼神として暴れに暴れ、ついには当時の角折リの筆頭、柳井秋水やないしゅうすいに討たれた凶悪極まる頭角だった。



 ◆◇◆◇◆◇



「ああ……ああ……」


 天瀬が膝を付くと、うずくまる。


「痛や……痛や……」


 その左手が、狩衣の袖に隠れた右手の切断面を握りしめる。


「腕が、吾の腕が痛むぞ……!」


 身もだえしつつ絞り出されるその声は、八代地獄の底ではいずり回る亡者の呻きだ。狭霧はただ、その醜態をじっと眺めている。まるで花鳥風月を見るかのような、感情のない目で。


「何故これほどまでに腕が痛む……? 何故これほどまでに身が焦がれる……?」


 天瀬の身にまとった衣のあちこちから、血がにじみ出す。恐らくそれは、生前の彼が全身に浴びた無数の矢傷だ。


「熱や……ああ熱や……!」


 その体から煙が上がり初め、見る間に五体が火に包まれていく。恐らくそれは、彼の五体を灰になるまで燃やした業火だ。


「おのれ……おのれ……許さぬ……許さぬぞ!」


 元よりここにいるように見える天瀬幸貞は、ただの過去の幻影だ。狭霧の言葉で彼は、己の過去を再現していく。片腕を切り落とされ、全身に矢を射られ、最後に火で焼かれたという過去を。だが、火達磨になってもがき苦しむ天瀬は、突如むくりと身を起こし、天を仰いだ。


「決シテ許サヌゥゥゥゥッ!」


 咆哮。人の喉を裂いて、鬼の絶叫が噴き上がる。それと同時に、天瀬の額が弾けるようにして裂け、血しぶきと共に二本の角が一瞬で生え出る。鋭角だ。たちどころに、彼の全身を濃密な気魄が包んでいく。血のように赤黒く脈打つそれは、常人でも視認できるほどに濃い。


「秋ゥゥゥゥ水ィィィィイイイ!!」


 天瀬が叫ぶ。己を討った角折リの名を。怨念。ただその二文字が、彼を死してなお祟る鬼神と変えていた。その全身が可視化した気魄に包まれていたのは、ほんのごくわずかな間だった。


「変じたか!?」


 燃え立つような気魄の中から姿を現した天瀬を見た朝日が、立ち上がるや否や叫ぶ。


 もはや、人の姿をした天瀬幸貞はどこにもいない。正真正銘の鬼が、狭霧の前に立っている。見上げるほどの巨躯。再生した右腕。炎のように全身を包む赤黒い気魄。甲殻とも鱗とも剛毛ともつかないものに覆われた五体。人とあらゆる獣が混じったような醜い顔と、頭から生える猛々しくねじれた二本の角。まさに日本人が語り継ぐ、鬼そのものの姿だ。


「おやめなさいな」


 角折リの本能に突き動かされ、反射的に駆け出そうとする朝日を、銀子がたしなめた。


「邪魔立てをするか、頭角!」


 朝日が怒鳴る。口調が完全に武人のそれに変わっている。銀子が自分よりも年長であることさえ、頭から消し飛んでいるらしい。邪魔をするならお前から斬る、と言外に主張する朝日に対し、銀子は理を説く。


「もちろん。これは狭霧ちゃんのために用意された舞台。うちたちは黙って観賞するのが務めですわあ」

「ぐっ……!」


 平静な銀子の口調に、少し朝日は理性を取り戻す。


「据え膳を前にして斬るなとは、つくづくあいつは悪趣味だな!」


 どっかりとその場に座り込み、朝日は憤懣やるかたないとばかりに大声を上げた。


「ああ、本当に悪趣味だぞ!」



 ◆◇◆◇◆◇



「何とも猛々しいお姿ですね」


 変化した天瀬の醜貌を、狭霧は見上げる。突然の巨大化。それは異界から質量を召喚したのか、それとも高密度の気魄が実体化したのか、はたまた他の何かが要因なのかは分からない。恐ろしい鬼と化した天瀬は、獣のような目を歪ませ、獣のような口を開く。長い舌と、鋭い乱杭歯が姿を見せた。


「貴様ハ……誰ダ……!」


 鬼となった天瀬は狭霧を一瞥するも、すぐに興味をなくし首を左右に振って何かを探し始める。


「角折リハ……何処ダ……!」


 まるで、残飯をあさる野犬のような醜態だ。


「もはや目はほとんど見えず、耳はほとんど聞こえず、五体は斬られ射られ焼かれた苦痛を延々と再現するのみ。何とも痛々しい」


 狭霧は少しも悲しそうな顔をせずに、そう言う。


 だが――――。


「角折リは、ここにいますよ」


 狭霧のかすかな呟きを、天瀬は聞き逃さなかった。


「角折リィィィィイイイ!」


 聞くに堪えない叫びと共に、鬼が吠える。吠えると同時に、その右手を振り上げ、振り下ろす。鬼の巨躯が繰り出す単純な暴力。それはあまりにも単純だが、同時に凄まじい破壊力だ。人間など一撃で四散させる威力である。


「だからこそ、お慰めいたしましょう」


 狭霧はその一撃を、かわすどころか防ぐことさえしなかった。鋭い爪が生えた鬼の右手は、しかし狭霧を骨肉の破片に変えるどころか傷一つ付けることなく弾かれる。


「ガアアアアアアアッッッ!」


 自分の渾身の一撃が功を奏さなかった。その事実がさらに天瀬を逆上させたのか、彼は獣の声で吠える。


 赤黒い気魄を業火のように帯びた左手が、続いて薙ぐようにして繰り出される。だがそれも、狭霧の髪の毛一つ千切ることはない。例えるならば、幼児が巨大なヒグマに襲われて無傷でいるようなものだ。天瀬は狂ったように狭霧に攻めかかる。殴り、引っ掻き、踏みつけ、握りしめ、叩きつけ、しかし狭霧を傷つけることはできない。


 何度目かに振り下ろされた天瀬の右手。それに応じるかのように、狭霧の片手が緩やかにもたげられた。


「グガァァァァアアア!」


 凄まじい悲鳴が天瀬の喉からほとばしり出る。ざっくりとその右手は縦に引き裂かれ、肘の辺りまで骨が露出するほどの傷ができていた。


「その身を」


 狭霧が片手を戻すと、繊手から血が滴り落ちる。天瀬の血だ。


「その心を」


 続いて狭霧はもう片方の手を振るう。視認できない不可視の気魄は巨大な鎚となって、天瀬の左腕を、肘の辺りから叩き潰す。


「ギィィィアアアアア!」


 遠慮会釈もない純粋な暴力に、耳をつんざかんばかりの絶叫を天瀬は響かせる。なおも突進する天瀬に対し、狭霧はわずかに横にずれてそれをやり過ごす。


「過去は変えられないとしても」


 その五指が、真横をすり抜ける天瀬のこめかみにそっと触れる。ただそれだけで、天瀬の巨躯がもんどり打って地面に叩きつけられ、何度も弾みながら地面を滑っていく。想像を絶する威力の気魄を、指先から直接天瀬の体内に流し込んだのだろう。


「もはやいまわの際を繰り返すことのないよう、私がお鎮めいたしましょう」


 痙攣しつつ立ち上がった天瀬の全身に、ようやく怯えの感情が宿っていた。こいつはおかしい、とやっと理解したらしい。それもそのはず。天瀬の目の前にいるのは、當麻の頭角である。虫も殺さぬ柔和な美貌に隠されていた鬼の暴力性。それが天瀬幸貞という過去の残響を前にして、怖気を振るうほどに発揮されていた。


「ヒッ、ヒィィィィイイイ!」


 とうとう、天瀬は逃げ出した。獣のように背を丸め、再生を始めた両手も使い、サルに似た姿で狭霧から背を向けて走り始めた。だが、狭霧は逃がしはしない。


「何処へ行かれるというのですか」


 軽く地面を一度蹴るだけで、たやすく狭霧は天瀬に追いつき、その背に触れる。それだけで、背骨が軋み肋骨が折れる音と共に天瀬は地べたにはいつくばる。


「同行して欲しいと願ったのはあなたの方ではないですか。さあ、存分に舞いましょうぞ。まだまだ幕は引かれぬ故」


 うっすらと唇の端に笑みさえ浮かべて、狭霧はそう言う。


 ――――怪物がそこにいた。當麻という家が産み出した、人の皮をかぶった怪物が。その立ち居振る舞いは、鬼に変じた天瀬幸貞よりも、余程人間離れした鬼形なのであった。



 ◆◇◆◇◆◇



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