第36話:虎穴とは虎児あっての場所なり(後編)



 ◆◇◆◇◆◇



 身には狩衣。手には扇。そして頭には烏帽子。絵に描いたような平安貴族の出で立ちで、狭霧は朝日と銀子の前に現れた。頬には淡く白粉が塗られ、その唇にはうっすらと紅が引かれている。いずれも、狭霧の有する極上の美顔をより引き立てるための控えめな化粧だ。あたかも八分咲きの桜に、柔らかな春風がそよ吹くかのような引き立てである。


 足音一つ立てることなく、狭霧は近づいていく。その進む先を予見し、自然と朝日と銀子は脇に退いた。結果できた空間を、狭霧は通り抜けていく。こちらを一顧だにせず――――ではなかった。わずかに狭霧は朝日へと視線を向け、唇の端に笑みを滲ませる。角折リさえ魅せるその美貌を見せつけられた気がして、朝日は苛立たしげに奥歯を噛みしめた。


「ふふふ、何とまあ、まるで誂えたかのように絵になりますなあ。御伽草紙の図絵から抜け出してきたかのよう。本当に狭霧ちゃんは當麻の、ひいてはうちたち頭角の誇りですわあ」


 静かに庭へと降り立つ狭霧の背を見つつ、銀子がうっとりとした口調でそう呟く。


「左様ですか」


 対する朝日の返答は、無愛想極まるものだ。


「御宅のようなお人には、恐ろしげな鬼神に見えます?」


 銀子がちらりと朝日を見る。


「まさか」


 その目線に挑戦的な感情を見出し、朝日の心にむらむらと対抗心がこみ上げてきた。


「神仏の類ではあるまいし、斬らねばならぬのならば、ただ斬って捨てる相手です。たとえ奴が生まれついての鬼であっても」


 それは事実と言うよりは、朝日の抱負に近い。


 角折リとは頭角を討つ者。鬼を斬り伏せる現世の防人。朝日にとってそれは、呼吸と同じくらい自然なものだ。三業すなわち身口意は一刀の元に結ばれ、そこに迷いはないはずだった。けれども、狭霧だけは違う。それまで朝日が培ってきた角折リとしての信条も覚悟も矜持も、この鬼の前では揺らいでしまう。それが朝日にとって何よりも許し難い。


「あらあら、剣呑なことをおっしゃるお方ですなあ」


 努めて硬い口調の朝日に対し、のらりくらりと銀子は応じる。だが――


「――當麻のことなど少しもお知りでないのに」


 彼女が小さくそう呟くのを、朝日の耳は聞き逃さなかった。朝日と銀子の視線がかち合う。銀子の目は笑ってはいない。澱んだ沼のようなその目に、朝日の闘争本能がうずいた。


「はいはい、お客様がそんな仏頂面をしないで下さいな。せっかく當麻の鎮メ物が見られるんですから」


 しかし、剣呑な駆け引きは一瞬だ。銀子が小さく手を叩くと、彼女の目つきも気配も最初と同じ、緩やかかつ暖かなものに戻っていた。仕方なく、朝日も警戒を解く。正真正銘霧のような狭霧ほどではないが、何ともつかみ所のない女性である。


「……あれは?」


 銀子から庭の狭霧へと目を移し、朝日は尋ねる。いつの間にか、狭霧に正対するようにして一人の少女がひざまずいている。赤い着物を着た、十代前半程度の年齢の少女だ。緊張した面持ちで、先程から微動だにしない。少女がうやうやしく掲げる三方には、何かが置かれていた。その何かが、朝日の角折リのアンテナに引っかかる。


「これですわ」


 朝日の問いかけに、銀子が薄笑いを浮かべつつ、自分の額を指でつつく。同時にその部分の皮膚が裂け、中から真珠色に輝く鋭い突起物が姿を現す。


「…………鋭角」


 朝日がその正体を口にする。鋭角。頭角を頭角たらしめる器官だ。文字通り鬼の角であり、かつて首級の代わりに角折リが頭角から折り取った部位でもある。


「それもいたく古いものでして。ざっとそうですなあ……鎌倉に都があった頃でしょうか」


 銀子は満足げにうなずくと、三方に置かれた鋭角の来歴を語る。彼女の見せた鋭角は、すぐさま額へと引っ込み、皮膚は何事もなかったかのように塞がっていく。


「そしてあそこにいるのは仕え家の一人。呼ビ子、と私たちは呼んでおります」


 続いて、銀子が狭霧に正対する少女に触れたその時だった。三方に置かれた鋭角。そしてそれを持つ呼ビ子の少女。その二つから凄まじい気魄が噴き上がった。正確には、鋭角の気魄に呼ビ子が呑み込まれ、次いでさらに気魄が膨れ上がったのだ。それはあたかも高波のように庭を満たし、屋敷の方へと押し寄せ、朝日へとぶつかる。


「これは……ッ!」


 朝日は我知らず立ち上がり、身構えていた。無手なれども、空気と気魄だけで刀剣を作り出す桜木流撃剣である。鬼の気魄を全身全霊でぶつけられ、臨戦態勢にならない方がおかしい。


「鬼哭啾々。いやはや、何とも恐ろしげな気色ですなあ」


 険しい顔付きの朝日とは対照的に、銀子は歌うような口調でそう言う。


「七城さん?」


「ふふふ、申し訳ありませんわ。本当に濃い鬼気ですなあ。うちだって腐っても頭角、ちょっと同族の気配に当てられてます」


 楽しげに銀子はそう言う。彼女は座ったままだ。けれども、三方の鋭角に呼応するようにその全身から気魄が流れ出していく。爛熟した果実を思わせる甘ったるいその気魄は、同時に比重が重く、どろりと床に流れていく。


「やはり、頭角ではないただのお人には、刺激が強すぎますかねえ」


 やや心配そうな顔で、銀子は首を傾げる。鬼の気魄を二種同時に吹き付けられたのだ。常人ならばどれほど豪胆な者でも恐慌状態になること請け合いだ。心身を鍛える云々以前に、人は鬼に勝つことなどできない。――ただ一つ、角折リという例外を除いて。


「いいえ」


 銀子の妙な含みを持たせた心配に対し、朝日は猛犬の如き笑みを浮かべて応えた。


「血が騒ぐ。あなた方頭角と同じく、私の中の角折リの血が呼応するのが感じ取れます」


 桜木の血が沸々と煮えている。往年の宿敵の気魄を前にして、朝日は怯えるどころか闘争心を燃え立たせていく。故に彼女は人にして刃、刃にあらず人。すなわち――――人太刀。


「『せつ報殺ほうせつの縁、譬えば車輪の如し』。鬼が栄えるならば、相通じて刀も鞘走るのが道理」


 殺の報殺の縁、すなわち因果応報。かつて人を虐げた頭角に対する報仇として角折リは在る。


「なるほど。まさしく御宅は修羅ですなあ」


 かすかな賛嘆と畏怖を秘めた銀子の言葉に対し、朝日は短く答えた。


「ええ。ただそうでありたいと願っています」



 ◆◇◆◇◆◇



「……あな悲しや」


 鬼哭とは、鬼の哭すること。すなわち、浮かばれぬ死者の泣くこと。七城家の優雅な日本庭園に、それが響く。声の主は、あの赤い着物を着た少女だ。彼女はうつむいた状態で身を震わせ、長い前髪の奥から声を絞り出す。


「……あな憎しや」


 その声はどう聞いても少女のそれではない。恨み辛みに歪み、ねじけ、朽ちた男の声だ。


「されど……ああされど……!」


 少女は体を掻きむしるかのようにして身もだえする。明らかに異常な様相だ。まるで、彼女の体に何かが憑依しているかのような奇怪な声と動きだ。


「何故――――」


 目を覆いたくなるような禍々しい少女の狂態に、涼やかな声がかけられる。


「何故、そのように泣くのですか」


 當麻狭霧が静かに、彼女を見ている。


 これが頭角の行う鎮メ物である。並外れた気魄を有する頭角は、死してなお現世に影響を与える。もっともそれは、怨霊や亡霊の類ではない。いくら生物として極めて頑丈な頭角でも、肉体が死んでなお生き続けることはできない。単なる、生前の意識の残響のようなものである。その残響を呼ビ子に移し、慰撫し封じるのが鎮メ物という儀礼だ。


「……お主は誰じゃ」


 顔を上げないまま、少女はしわがれた声で尋ねる。今や呼ビ子の意識は完全に埋没し、鋭角の持ち主のそれに取って代わられているのだろう。


「あなたの同胞です。ですからお答え下さい。何故泣かれるのです」


 耳を覆いたくなるような不気味な声とは対照的に、あくまでも狭霧は穏やかだ。無風の湖面の如き静逸がその声にはある。


「ふ、ふふふ……」


 呼ビ子に宿る過去の頭角の残響が笑う。無数のムカデが足を蠢かすかのような声だ。


「あの角折リめ。吾の腕を斬り落とし、吾の角を折った憎き角折リめ。この怨み、この痛み、五百塵点劫経とうとも忘れぬぞ。この身が金剛石と共にすり潰されようと、この心が風雪の最中に散ろうと、決して許さぬ。末の末まで呪ってくれようぞ」

「それは何ともいたわしいこと。あなたの苦痛、察するに余りあります」


 怨恨の二文字で埋め尽くされたかのような過去の頭角の言葉に対し、狭霧の返答は白々しささえ漂うほど爽やかだ。


「おお、分かって下さるか」


 だが、その無関心な返答に過去の頭角はすがる。


「はい」

「嘆いて下さるか」

「はい」

「ならば……ならば…………!」


 飢えたように、呼ビ子の少女は顔を上げる。先程までの緊張で固まった、年齢相応の幼さなどどこにもない顔が露わになる。目を血走らせ、歯をむき出しにし、髪を振り乱し、少女は三方に置かれた鋭角を鷲掴みにするや否や、自らの額に押し当てる。本来の持ち主の怨念が存分に込められたそれは、少女の額に突き刺さり、音を立てて癒着していく。


「――――これは!?」


 次の瞬間、朝日は思わず声を上げた。唐突に、あたかも今まで自分のいた七城の家がただの舞台か何かだったのように、周囲の光景が切り替わる。無数の梅の花が咲き乱れる、どことも知れぬ場所。蒼天の元、辺りには砕けた甲冑や折れた弓矢、欠けて曲がった太刀が散らばっている。あまりにも、非現実的な光景だ。


(…………幻覚の類か? いつの間に術中にはまった?)


 朝日は周囲を見回す。うろたえる彼女とは異なり、銀子は平然と座ったままだ。邸宅も忽然と消えているため、彼女が座っているのは縁側ではなく石の上だ。そして何よりも、今や狭霧と相対しているのは少女ではなく、狩衣を身にまとい、顔に鬼面を付けた隻腕の男性へと変じているのだった。



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