第35話:虎穴とは虎児あっての場所なり(前編)



 ◆◇◆◇◆◇



 一台の高級車が、山道を悠然と走っていく。山道といっても、下田貫のようなでこぼこの道ではない。黒々としたアスファルトと、真っ白なガードレール。街灯は真新しく、周囲に野生動物の姿は一匹も見えない。貧乏な下田貫とは違い、ここを管理する行政の懐具合は暖かのようだ。


「まさか、君に二つ返事で了承してもらえるとは思わなかったよ」


 車内に視点を移すと、そこには運転手以外に一組の男女がいる。先程から窓の外を眺めたまま身動き一つしない桜木朝日と、彼女に親しげに話しかける當麻狭霧だ。二人は並んで後部座席に座っているが、その間にできたスペースはかなり広い。朝日が思いきりドアの側に寄っているせいである。露骨に狭霧を避けているのがよく分かる立ち位置だ。


「別に。こんな機会はめったにないから」


 朝日の返事はぶっきらぼうそのものだ。仕方なく狭霧の言葉に応じているだけだという感情が、言葉の端々どころか全体からひしひしと伝わってくる。今日は日曜日。時刻はまだ正午前。朝日は狭霧に誘われ、こうして彼の遠出に付き合っていた。既に二時間ほど車に乗っているが、まだ目的地には着かない。


「ほかの頭角の家に行く機会、か」


 朝日の言葉を、狭霧が補完する。狭霧はこれから、同族である別の頭角の家へと向かっているのだ。一人で勝手に行けばいいものを、どういう風の吹き回しか、狭霧は朝日を同行させている。そして朝日も断ればいいものを、律儀なことにこうして彼に付き合っていた。


 朝日としては、まず第一に頭角の家というものに興味があった。何しろ朝日は、頭角とは数えるほどしか顔を合わせたことがない。かつては、彼女たち角折リと狭霧たち頭角とは不倶戴天の間柄だったのだ。この二つの家が今も不仲なのも無理はない。しかし、例外が一つある。今、朝日の隣で心底リラックスしている狭霧がそれだ。


「今のあんたと私の状態が異常なだけだ。頭角と角折リがこうしているなんて、ご先祖様が見たら目を疑うぞ」


 朝日の苛立たしげな指摘にも、隣の狭霧は平然としている。ほのかな花の香りのような優雅さを漂わせているのがまた腹立たしい。


「桜木はそうかもしれないけど、當麻はそこまで保守的じゃないさ」


 狭霧はうっすらと笑みを浮かべつつ言う。


「桜花は見て愛でるもの。そしてその下で演ずる舞踊は、さぞかし美麗に違いない」

「頭角の首魁の家が、よくもそんな歯の浮くようなことが言えるな。剣戟も施術も通じない難攻不落の五体に、そんなに自信があるわけ?」


 朝日は歯がみする。狭霧の誘いに応じた第二の理由は、何となく断ると狭霧に臆したようで、勝負に負けたような気がするからだ。


「ふん。生まれついてその体なら、まともに痛痒さえ感じたこともないんだろうな」


 だが、今思えばそれは単なる妄想だったかもしれない。朝日は後悔するが、先に立たずである。彼女の苛立ちで歪んだ視界に写るのは、長い黒髪を背もたれに這わせた狭霧の姿だ。この美麗な痩身は、その実トラックの突進にすら傷一つ負わない不壊の玉体である。


「この体は生まれつきではないよ」


 しかし、朝日の皮肉に狭霧は首を左右に振った。


「何だって?」


 不意の否定に朝日は驚くが、それ以上の説明は狭霧の口からは聞けなかった。


「……ああ、でも。もうすぐ着く」


 長い登り坂を経て、狭霧の視点の先に立派な門構えの屋敷が見えてきた。


「我が同胞、七城しちじょうの家だ」



 ◆◇◆◇◆◇



「あらあら、まあまあ。よく来て下さったなあ、狭霧ちゃん」


 玄関で狭霧と朝日を出迎えたのは、藍色の着物を着た一人の女性だった。色白できめ細やかな肌と丁寧に結った黒髪。そして着物を押し上げてずっしりと自己主張をする胸部。和装でも分かる。匂い立つほど女性的、いや官能的な姿態の女性である。まるで糖蜜に漬けた桃の果実のようだ。


「ええ、しばらくぶりです。七城銀子ぎんこさん」


 諸手を挙げて歓迎する女性に、狭霧は一歩後退しながらも優雅に応じる。


「んもう、相変わらず狭霧ちゃんはお堅いなあ。まあ、そんなところも御宅の魅力なんだけど」


 狭霧のあしらいに、銀子と呼ばれた女性は苦笑する。年齢は二十代半ばから後半だろう。甘いと憂いが複雑に同居する、不思議な顔立ちだ。


「銀子さんこそ、お変わりないようで俺は嬉しいですよ」


 一歩退いたにもかかわらず、狭霧はそんな世辞を口にする。


「ふふ、まったく、その顔でしれっと甘い言葉を囁くのだから、御宅は本当に罪な人だこと」


 着物の袖で口元を隠しつつ、銀子は狭霧に流し目を送る。どうにも、距離感の掴めない人物だ。虚実が入り乱れて、何が本心なのか分からない。


「――それで、こちらのお人が件の?」


 狭霧とじゃれ合うのに飽きたのか、銀子はようやく朝日の方を見た。その視線を感じ、朝日は注視をやめた。斬り結ぶ敵の挙動を見る目を普通のそれに切り替え、軽く一礼する。


「桜木朝日。桜木流撃剣の人太刀です」


 自分で率先してそう名乗ったのは、狭霧に紹介されたくなかったからである。


「あらあら――」


 楽しげな銀子の反応だが、朝日はかすかに肌が粟立つのを感じた。油断するな、と人太刀としての本能が告げている。官能的な姿の裏に、鬼の本性が見え隠れしている。なまじ外面が親しげな分、かえって銀子の異様さが際だつのだ。


「またずいぶんと、面妖な取り合わせですなあ。ワンちゃんとおサルさんが一緒なんて世間の人は珍しがりますわ」


 案の定、銀子の口から聞こえてきたのは皮肉混じりの言葉だった。


「犬猿の仲という点では、まったくもってあなたのおっしゃる通りですね」


 それを挑発と思わずに、朝日は平静を装う。だが――――


「それなのに、ずいぶんとしおらしく狭霧ちゃんのお側に控えなさっているようで。当代の桜木も、當麻の美貌には骨抜きなようですなあ?」

「なっ……!」


 続く銀子の言葉は、ものの見事に朝日の逆鱗に触れていた。一瞬で顔色が変わる朝日を尻目に、すぐさま銀子は前言をひるがえす。


「冗談冗談。真っ赤な嘘ですわ。すいませんわあ、ついついウチの七城の血が悪さをしましてなあ。角折リとなるとちょっかいを出したくなるんですわ。堪忍してな」


 ぺこり、と愛嬌たっぷりに銀子は頭を下げる。


「べ、別に。問題ありません」


 感情の矛先が空を切り、朝日は苛立つが銀子の謝罪を受け入れる。


「ありがたいですわあ。さすがは桜木流の人太刀。度量の広い人はうちの好みです」


 いけしゃあしゃあと銀子はそう言うと、今度こそ大変丁寧に自己紹介した。


「改めて、七城流華道の次期家元、七城銀子と申します。以後、どうぞお見知りおきを」



 ◆◇◆◇◆◇



「……まったくもって虎穴だな」


 七城の邸宅。豪放な作りの和風建築にふさわしく、縁側から眺める庭は周囲の山野を取り込みつつ雄大に広がっている。それに目を向けるのは、一人手持ちぶさたな様子の桜木朝日だ。その横には、手を付けていない湯飲みと大福餅の載った皿がある。


「しかも虎児がいない虎穴だ」


 朝日の呟きに答えるものはいない。


「まあまあ、おかまいもせずに申し訳ありませんわあ」


 いや、今まさに奥から現れた銀子が、彼女の呟きに答えたようだ。


(……トラはいなくても鬼はいたな)


 自分の隣に座る銀子を横目で見ながら、朝日は内心でそんなことを思う。朝日にとってこの屋敷は、虎児のいない虎穴だ。意気揚々とやって来たものの、実のところ達成するべき目的がない。


「お口に合いませんでしたか?」


 銀子が朝日の隣にある、手を付けられていない茶と茶菓子に目を落とす。


「いや、そういうわけでは」

「ふふふ、千年前ならいざ知らず、今は角折リだからといって仇だとは思っておりませんよ。毒なんて入れたら七城の名折れになること請け合いですわ」


 銀子がそう言うものの、朝日としてはどうにも食指が動かない。


「それとも、桜木ではよそのお宅にお邪魔したら、道ばたのお地蔵さんのようにかしこまっているように、と教えているんですかねえ?」


 だが、銀子はさらに突っ込んでくる。どうにもこの女性、外見は温和そうだが得体が知れない上に一言多い。ねちねちと絡んできそうな気配にうんざりし、朝日は覚悟を決めた。


「……そこまで勧めるのでしたら」


 朝日は大福餅を一口かじり、続いて湯飲みに口を付ける。


「いかが?」

「おいしいです」


 それ以外の感想は特にない。


「……気の利いたことが言えず、すみません」


 しばしの沈黙がいたたまれず、朝日はつい謝ってしまった。


「いえいえ、そんな」


 対する銀子も、少しばつが悪そうな様子を見せた。一応彼女も血の通った女性らしい。


「ところで」

「はいはい、なんでしょうなあ」

「今日あいつ――ではなくて、當麻狭霧がこちらを訪問した理由は何でしょうか?」


 朝日が率直に尋ねると、銀子は目を丸くした。


「桜木さん、ご用の趣をお知りじゃない? って言うか、知らずにここまで来たんですか?」

「そ、その場の勢いで……」

「はあ、何と言いますか、本当に骨の髄まで猪突猛進ですなあ」


 無策で突っ込んだ自分の醜態に、朝日は頬が熱くなるのを感じる。


「まあ、せっかくだからここで教えましょうか。今日は狭霧ちゃんに、『鎮メ物』をやっていただこうと思ってお呼びしたんですわあ」

「しずめもの?」

「はい。そろそろ、狭霧ちゃんの準備も整ったでしょうなあ」


 銀子が座敷の奥に目を向けるのとほぼ同時。襖が静かに開いた。


「ほら、やっぱり」


 奥から悠然と姿を現した狭霧の姿に、不本意ながら朝日は一瞬目を奪われた。彼の出で立ちは、まるで古の絵巻物から抜け出してきたかのような、見事なまでの平安貴族の姿だったのだ。


「ああ、やっぱり狭霧ちゃんはとんでもない男前ですわあ。桜木さんもそう思うでしょ?」


 朝日は内心の動揺を押し隠し、即答した。


「いいえ。全然」



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