第34話:弟とは兄を見て倣うのが常なり(後編)
◆◇◆◇◆◇
「ストイックだね、桜木さんは」
「自分ではそう思ったことなどない。ごく当たり前のことを当たり前のように行っているだけだ」
「そういうところが、兄さんの眼鏡にかなったんだろうなあ」
結局のところ、夕霧の関心は兄である狭霧に帰結する。狭霧が朝日を認めているのならば、夕霧もまた朝日を全面的に肯定するつもりらしい。
「分かったよ。今回は、僕の出る幕じゃないようだ」
「即断だな」
「これ以上食い下がっても、兄さんは喜ばないだろうからね。でも、桜木さんに感謝したい気持ちは本当だよ。だから、僕に何か聞きたいことがあったらいつでも言ってよ。當麻の根幹にかかわることじゃなければ、大抵のことは教えてあげるからさ」
だが、夕霧の方としても、転んでもただでは起きないつもりのようだ。
「その時は、敵方の情報漏洩じゃなくて、個人的な関心に対する情報提供って感じならば、桜木さんも納得してくれるかな?」
「考えておこう」
やや曖昧な返事で、朝日は会話を締めくくった。狭霧と関わる以上、この不思議な少年との接触は避けられないだろう、と予感しながら。
◆◇◆◇◆◇
「ただいま」
その後、これといった異変もなく、朝日は夕霧との会食を終えて帰宅した。はた目から見れば、武人のような凜とした少女と息を呑むような美少年という、実に絵になる組み合わせだっただろう。
「朝日、遅かったわね」
台所を通ると、すぐに母の陽子が朝日に声をかける。
「少し寄り道してただけだよ」
「あら、珍しい。ご飯は食べる?」
「もちろん。買い食いでお腹いっぱいになるようなことはしないよ」
朝日は手を洗いつつ、律儀に答える。
「當麻君、もう帰っているわよ」
陽子の「當麻君」という呼び方に、敵意や殺気はない。むしろ、親戚の子供を呼ぶかのような親しみがある。
「そうか……」
タオルで手を拭き、朝日は顔を上げる。また、今夜も結節に行かなければならない。
「あの子のこと、やっぱり気になる?」
何を思ったのか、陽子はそんなことを言ってくる。
「もう、母さんまでそんなこと言わないでよ。ただでさえ学校じゃ、私とあいつをくっつけようって周りが勝手に盛り上がってるんだから」
朝日はうんざりした口調だが、陽子はいたってまじめなようだ。
「いいことじゃない。せっかくだから仲良くしておきなさい」
「母さん……。父さんが聞いたら仰天するようなことだからやめてよ」
朝日も人のことを言えた義理ではないが、何しろ大悟はいきなり狭霧に斬りかかった人間だ。もちろん殺すつもりはないが、頭角というだけで臨戦態勢になる角折リである。
「母さんが個人的にそう感じたことだから、別に大悟さんに遠慮するようなことじゃないわ」
しかし、陽子は平然とそう返す。たとえ朝日や大悟が頭角に戦意を燃やそうとも、自分は一人の客人として扱う気満々らしい。
「おばあちゃんはどう思う?」
「そうね……。ふみさんなら、きっと納得するわ。あの人は、人に見えないものが見える人だから」
伝家の宝刀とばかりにふみの名を出す朝日だが、やはり陽子のスタンスは変わらない。
「おばあちゃんの天眼に縁結びの機能はないけど」
ふみの名を出しても変わらない母親の態度に、朝日はため息をつく。
「母さんは平気なの? あいつは頭角だよ。それも並大抵の奴じゃない。人の姿をした異能だ」
朝日が人の身に異能をまとった存在ならば、狭霧は異能そのものを人の身で包んだ規格外の存在だ。平たく言えばおはぎと大福の違いである。
「でも、私たちと同じ一人の人間よ。それも男の子なんだから。女の子と知り合えて嬉しくないはずがないわ。だって、相手が朝日みたいな素敵な女の子なんだから」
「ちょっと、やめてよ。照れる」
朝日のことを何も知らないクラスメイトならばいざ知らず、母親に面と向かってそう言われるとさすがの朝日も気恥ずかしくなる。
「あなたは彼と仲良くなることなんて、桜木流撃剣とは関係ないことだと思うかもしれないわ。でも、考えてみなさい。あなたの剣は何のために振るうの?」
照れ隠しにそっぽを向いていた朝日が、陽子の問いに真顔になった。
「鬼の角を折るため」
朝日は迷いなく即答する。だが、迷いがない故に、その答えは単一でしかないことに気づいていなかった。
◆◇◆◇◆◇
「いるか?」
朝日が離れの戸を開けると、狭霧は畳の上に寝そべって本を読んでいた。
「ああ、お帰り」
顔を上げて、狭霧は朝日を出迎える。
「ずいぶんくつろいでるな」
「無意味に緊張していたら日常生活に支障が出るからね」
他人事のような物言いが、朝日には引っかかる。
「まるで、自分の体が自分のものではないような物言いだな」
「ある程度それは的を射ているね」
「わけが分からん」
朝日は首を傾げたが、それ以上突っ込むことはない。
「で、どうしたんだい? 何か用かな」
朝日が何か言う前に狭霧は起き上がると「まあ、座ってよ」と座布団を勧めた。言われるがままに、朝日は座る。
「……あんたの弟に今日会った」
「ああ、夕霧か。いい子だろう? 俺の自慢の弟だ」
「判で押したような言い方だな。いい子かどうかは分からないけど、つかみ所のないところがあんたにそっくり」
朝日はやや辛辣な評価を下すが、狭霧は嬉しそうに笑うだけだ。いつものペルソナと違い、きちんと情感のこもった笑みだ。だからこそ、彼女はさらに言葉を続ける。
「前と言ってることが違うな?」
「どういうことだい?」
「あんた、私が『ご両親だってあんたのことを大事に思ってるだろ?』って言っても、煮え切らない返事だったじゃないか。でも、今日弟に会ったけど、あんたをずいぶん尊敬してるみたいだったよ。ほら、ちゃんとあんたの家族はあんたを大事に思ってるんだよ。弟がいい証拠だ」
朝日がまくし立てると、狭霧はやや目を開いて驚きの表情を見せる。
「俺が、家族に大事に思われてないと困るのかい?」
「は? 別にそんなことどうでもいいけど。でも、変に悟ったような顔は見ていて腹が立つから」
慌てて朝日は否定する。確かに狭霧が家族をどう思おうと、家族からどう思われようと朝日には関係ないはずだ。なのになぜ、気になるのか自分でも分からない。
「ありがとう。何となく嬉しい」
狭霧は言葉少なに礼を言う。その返事に、かすかに朝日も嬉しくなってしまった。
「うん、きっと。俺は嬉しいんだ、たぶん」
噛みしめるようにそう言う狭霧の姿は、学校では決してお目にかかれないものだ。
「格好まであんたを真似てそっくりだし。それだけ慕われたらかわいく思わない?」
夕霧の話題に戻る朝日だが、狭霧の感情は再び平坦に戻る。
「そうかもね。でも、そういうものなんだよ。夕霧は」
「意味が分からん」
いぶかしがる朝日に、狭霧は何ら感情を見せることなくこう言い放った。
「あの子は、俺の代替だよ。だから俺を慕うのは刷り込みなんだ」
夕霧が「刷り込み」と自己の感情を評した理由を理解し、朝日は一瞬ぞっとした。いったい當麻の家は、どこまで歪曲しているのだろうか。
◆◇◆◇◆◇
そこは暗がりに包まれた能舞台だった。篝火は置かれているものの、その炎は押し寄せる暗闇に対してあまりにも小さく、舞台のほとんどは闇の中に溶けてしまっている。地謡もいなければ囃子方もいない。舞台にいるのはただ一人。唐織と呼ばれる装束に似た衣装を身にまとい、女の能面をつけた演者だけがいて、今まさに舞を終えたところだった。
扇が閉じられ、面がはずされる。その下からのぞく顔は、狭霧に似ながらもより中性的な面立ちだ。彼が顔を見せるだけで、暗がりに新たな篝火が灯ったかのように周囲が明るくなった。
「――ねえ兄さん、楽しんでる?」
芸に没入する演者は、軽いトランス状態に陥るらしい。事実彼、當麻夕霧の口調はどこか陶酔したかのような昂揚を帯びている。
「花は育てるのも楽しいけど、育ったのを切り取って生ける方がもっと楽しいからね」
闇を見つめているように思える夕霧の目は、その実どこも見ていない。いや、彼はただ一点だけを見ている。今ここにはいないはずの彼の兄、當麻狭霧の記憶の中での姿を。数限りなく、ここで共に舞った兄の姿を、夕霧は何のよすがも借りずにまざまざと思い出せる。
「そろそろ切っちゃうのかな、兄さん?」
誰に聞かせるともなく、夕霧はそう言うとくすくすと楽しそうに笑う。どことなく禍々しい響きを孕んでいながらも、彼の声音はどこまでも明るく無邪気だ。忘れてはならない。彼もまた狭霧と同じく人外の血の混じった頭角――かつては鬼と呼び習わされたまつろわぬ者たちの末裔なのだ。
「ううん、そうじゃない。兄さんこそが、花だ」
けれどもすぐに、夕霧は笑うのをやめて首を左右に振る。
「僕にとっては、兄さんこそが花。當麻の育て上げた唯一無二の花。何よりも誰よりもどんなものよりも美しい、解語の花」
人語を解する花という意味の「解語の花」。かつて楊貴妃を指して使われたその語を、夕霧は自分の兄に対して用いる。
そう。當麻夕霧は當麻狭霧を慕っている。自らの兄として。當麻流舞踊の後継者として。比類なき頭角として。そして代替である自らの本体として。當麻の家は夕霧をそのように作り上げた。彼のすべては狭霧のためであり、それを夕霧は今まで当然のように受け入れてきた。
「じゃあ、誰が兄さんを切るのかな?」
それなのに、あれだけ慕っていながら、夕霧は不吉なことを口にする。分かっているのだ。狭霧の弟である自分では、逆立ちしてもできないことがあることを。そして、その逆立ちしてもできないことこそが、兄の望みであることを。まるで兄である狭霧のようにうっすらとほほ笑みつつ、彼は最後にこう呟いた。
「きれいに生けてよね。桜木朝日さん」
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