第31話:火のある所とは煙の立つ所なり(前編)



 ◆◇◆◇◆◇



 戸隠峡。日本最大の亀裂にかかる大橋の上を、朝の通勤客や学生たちを乗せた電車が走っている。常ならば車内は混雑し、乗客同士が密着しているのだが、今日に限ってはそうではない。正確に言うならば、一箇所だけまるで爆心地か何かのように、奇妙に人の引いた空白の場所が形成されてのだ。


「さっきから殺気がもれているよ」


 空白の中心の座席に腰掛けた狭霧が、隣に座る朝日に言う。その語尾がおかしそうに震えているのを感じ、朝日が顔を引きつらせた。


「誰のせいだと思っている。あと、下らない駄洒落を言うな。まったく笑えないから」

「洒落のつもりじゃなかったんだけどね」


 悠然とした態度を崩さない狭霧に、朝日の内心は既に突沸寸前に煮えくりかえってる。


 言うまでもなく、朝日と狭霧は現在通学途中である。そして同じく言うまでもなく、この電車内にできた不自然な空白地帯の原因は、この二人なのであった。電車に乗っただけでこんな異変に巻き込まれ、あまつさえその原因の一端が自分にあることを自覚し、朝日としては今すぐ車窓を蹴破って亀裂にダイブしたい心境だった。


 何も朝日は、好きこのんで狭霧の周りから人を遠ざけているわけではない。自然とこうなってしまったのだ。そもそも、他の乗客の視点に立ってみれば分かる。同じ車両に匂い立つような美貌の狭霧と、今にも人を斬りそうな気色の朝日がいるのだ。今乗ってる乗客も後から乗り込んだ乗客も、二人から離れようとするのも無理はない。


 ちらりと朝日は狭霧の方を見る。相変わらず、校則を完全に無視した長髪がよく映える。本当に女性顔負けの長さと艶だ。墨汁がその粘度を失わないまま、流れる毛髪になったかのようだ。それに縁取られた狭霧の顔も、ようやく見慣れてきたとはいえ、ため息の出るような美しさだ。どの角度から見ても、欠点らしい欠点が一つも見あたらない。


 まったくもって頭角、つまり鬼は体の作りからして余人とは異なるらしい。隣にいるだけで、かすかにいい香りが漂ってくるのも空恐ろしい。錯覚なのか、香水なのか、頭角が有する芳香なのか分からないが、とにかくいい匂いがする。改めて、朝日は必然的にできてしまった電車内の空白地帯、つまり狭霧の隣で居心地悪そうに身じろぎするのだった。


「それにしても、戸隠峡か」


 狭霧が呟くと、常日頃の茫洋とした目つきをやめ、明確に視線を外に向けた。


「亀裂を見るのは初めて?」


 彼の関心が外に向いたので、何気なく朝日はそう尋ねた。そしてすぐに、そんなわけはないか、と内心で否定する。


「いや。そうでもないよ。家の仕事柄、日本中を回ったからね。そこは大抵、亀裂のあるところだった」


 案の定、狭霧の答えは否定だった。


「つまり、あんたたち頭角の縄張りってことか」

「そうだよ」


 元より朝日の実家である桜木家は、亀裂の向こう側から来る頭角たちから人間を守る角折リの家だ。亀裂と頭角とに深い繋がりがあることは知っている。つられて朝日も車窓越しに亀裂を見た。深々と、巨大な爪で引っ掻いたような裂け目が広がっている。


「なぜ、こんなものができたんだろう?」

「地脈の歪曲、人類に対する大地のアナフィラキシー、地霊ゲニウス・ロキの癌化、特殊な地震。様々な仮説が唱えられたけれども、確たるものは未だにない」


 すらすらと、まるで文面を見るかのような口調で、狭霧は朝日の何気ない疑問に答える。


「けれども、當麻家はこう思っているよ」


 當麻家、つまり狭霧の実家の持論と言うことで、朝日は耳をそばだてた。朝日の傾聴に気づいたらしく、狭霧はうっすらと唇の端に笑みを浮かべつつ、囁くように言った。


「この下に、何かがいる」


 だが、その持論はあまりにも曖昧なものだった。


「何が?」

「……何かが」


 それ以上の言葉は、狭霧の口からは発せられなかった。


「あんたたち頭角にも、怖いものがあるんだ」


 ややあって、朝日は口を開く。


「怖い?」

「そう。なんだか、怖がっているように見える」


 朝日はそう言いつつ、内心首を傾げていた。なぜ自分は、狭霧が恐れているように思えたのだろうか。気配だろうか。気魄だろうか。それとも角折リとして、宿敵の弱点を見抜こうという執念が成せる直感だろうか。


 非常に珍しいことに、朝日の指摘を受けて狭霧は黙り込んでしまった。彼が意味深な沈黙で会話を終えたことは多々ある。だがこれは違う。明らかに、狭霧は何も言えないでいたのだ。恐らく、朝日の言葉は正鵠を射ていたのだろう。けれども、朝日には狭霧との舌戦に勝った満足感はなかった。何とも不可解な沈黙が、二人の間に霧のように立ちこめる。


「あっ……!」


 その沈黙を破ったのは、朝日でもなければ狭霧でもなかった。少し離れた座席に母親と一緒に座っていた幼い女の子が、手に持っていた飴を床に落としてしまったのだ。幸い、まだ包み紙をむいてはいない。その飴はころころと床を転がり、申し合わせたかのように狭霧の初城台高校指定の靴に当たって止まった。


 狭霧は自分の足元に目をやると、薄くほほ笑んだ。身を屈めて長い指先にその飴をつまむと、音もなく立ち上がる。


「はい、落とさないように気をつけてね」


 狭霧は女の子の側に近寄ると、ひざまずいてそっと飴を差し出した。女の子は狭霧の美貌に少々驚いたような顔をしたが、それでも素直に小さな手を広げて飴を受け取った。


「あ、ありがとう……お兄ちゃん」


 たちまちもじもじとしてうつむいてしまう女の子を見て、狭霧のほほ笑みが少しだけ深くなった。


「いいえ、どういたしまして」


 彼の甘やかな言葉に、一緒になって頭を下げていた母親の方がむしろ顔を赤らめていた。朝日に対して見せたあの沈黙は失われ、そこにはすっかりいつも通りの當麻狭霧がいるのだった。



 ◆◇◆◇◆◇



 放課後の教室で、三人の女子が一つの机を囲んで座っている。きちんと座っているのがエミリー・ヒューストン。横で少しもたれ掛かるような座り方をしているのが西木美世。そして、二人にチョコチップ入りのカップケーキが乗った皿を差し出しているのが、桜木朝日だ。


「どう……かな?」


 ケーキを同時に口に運ぶ二人に、朝日がぎこちなく問う。


「うん、いけるいける。結構いい感じ」

「おいしいですよ。ありがとうございます」


 幸い、二人の顔はすぐに笑顔になった。どうやら失敗作ではないらしい。普段料理などあまりしない朝日が何とか形にした、スイーツ研究会の活動の結果である。


「美世のようにはいかなかったけど、よかった」


 朝日がそう言うと、慌てて美世が手を振って否定する。


「やだやだ、あたしを目標にしないでよ。別にあたしパティシエ目指してないし。目標低すぎだって」

「それは分かってるけど。さあ、もっとどうぞ。ほら」


 何やら無理矢理勧める朝日を、残る四つの目が冷たく見据える。


「――そんなことより、さ」

「話題を逸らそうとしているのがよく分かりますよ」

「……くっ」


 二人の指摘は図星だったらしい。


「何か釈明することはあるかな、被告人」


 学友から審問官に転職した美世を、朝日は見返す。


「じゃあ、はっきり言うけど」

「おお」

「聞き逃せませんね」


 腰を浮かすエミリーを横目に、朝日は深呼吸をして姿勢を正した。


「太竹山に落ち武者の霊なんか絶対に出ない。あれは根も葉もないデマだから」


 しばしの沈黙の後、露骨なため息が返ってきた。


「……はぁ。往生際が悪すぎ」

「話題を逸らさないで下さい」

「はっきり言っておくけど」

「そんなことは心底どうでもいいです」


 息の合った連係に、朝日はぐうの音も出ない。


「……ぐっ」


 見ての通り、美世は先日朝日が狭霧と密会していた(ように見える)件についての釈明を求めている。エミリーも加わり、朝日を問い詰める布陣は完成していた。


「ねえエミリー、何でそんなにやる気満々なの? 今までと雰囲気違うよ?」


 朝日の知るエミリー・ヒューストンという少女は、奥ゆかしくて引っ込み思案な性格だったはずだ。こうまで攻勢に出られて、朝日としては戸惑うしかない。


「恋とは内に秘めるもの、と私は今まで思っていましたけれど……」

「ほうほう、ヤマトナデシコって奴?」


 美世の茶々にも平然とした様子で、エミリーは自己の変心を説明する。


「さすがにここまで朝日さんが鈍感ですと、はっきりと白黒付けた方がよろしいかと思えてきましたので」

「ほうほう、アメリカ式のディベートって奴?」

「いずれにせよ、そろそろ潮時です。どうぞいさぎよく事態を受け入れて下さい」


 まさにとりつく島もない。


 当然、朝日は既に釈明を済ませている。角折リと頭角の因縁。桜木家と當麻家の闘争。現在狭霧はごく短期間逗留しているだけで、それは古来の契約に基づいた型通りの関係であり、何らやましいところのないものであることを。だが、美世たちは納得していない。何しろ、あの狭霧とある意味同居しているのだ。勘ぐらないわけがない。


「なら、あたしが代わりにスパッと仕分けちゃうけど?」


 顔を近づけて、美世は意味深な笑いを浮かべながら朝日にこう言う。


「――さっさと王子と付き合っちゃえ」

「な、何でそうなるんだ!?」


 案の定、朝日は爆発的に反応した。見る見るうちに顔が赤くなっていく。刀を握った時の、あの触れれば斬らんばかりの勇ましさなどどこにもない。


「何でって……ねぇ?」

「至極当然の結論だと思いますけど。ねぇ?」


 うろたえる朝日をよそに、エミリーと美世はしたり顔だ。二人は朝日を通じて出会ったため、まだ知り合って日が浅い。おまけにエミリーは清楚でか弱そうなアメリカ人、美世は今風で砕けた感じの日本人という正反対の組み合わせだ。だが、こうしていると実に息が合っている。



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