第30話:野次馬とは「野次」を飛ばす「馬」鹿なり(後編)
◆◇◆◇◆◇
「どうした?」
太竹山の中腹を通る山道。そこを歩く狭霧がかすかによろけたを、朝日は見逃さなかった。
「――ちょっと酔ったかもしれない」
「おい、いつお酒なんて……」
とがめる朝日に、狭霧は笑って否定する。
「気魄に酔ったんだ」
「気魄に?」
「そう、さっき言っただろう。ここの結節の気魄はとても豊潤なんだ。なんだか少し酔ったみたいだ」
気魄を食らうのみならず、それに酔うとは。人外の嗜好を平然と口にする狭霧に、朝日はかすかに身震いする。
「――酔い覚ましに、すこしやる?」
彼女は彼から間合いを離すと緩やかに身構える。
「やる?」
「手合わせ。武器はなし。技能もなし。気魄だけ。分かる? 『聞き合わせ』っていうけど」
朝日の問いに、狭霧は首肯する。
「『
「へえ、そっちにも似たようなのはあるんだ」
気魄を用いた武芸の修練の一つを、聞き合わせという。、互いに打ち合うことにより、お互いの気魄をその身で「聞く」方法である。これは主に気魄を整え、流れを速やかにするために行われる。
「なら話は早い」
朝日は軽く腰を落とし、狭霧が体勢を整えるのを待つ。
「始めるぞ」
「いつでもどうぞ」
緩やかに突き出した朝日の右の拳を、横から薙ぐようにして伸びる狭霧の手が押さえる。手首と手首が絡むような形だ。続いて突いた左手の拳を、狭霧の肘が打つ。初めての聞き合わせ、あるいは相舞。けれどもまるで申し合わせたかのように、お互いの動きがぴたりとあった。それだけでなく、互いの体内に満ちる気魄もまた。そして演舞が始まる。
朝日が攻め、狭霧が流す。狭霧が誘い、朝日が応じる。これは主に気魄を用いた修練だ。朝日の気魄と狭霧の気魄が触れ合うことによって互いに流れ、そして反発する。あたかもそれは音色のようなものだ。伝導し、反響し、あるいは共鳴する。互いの手と手が拍手のように打ち合ったのを合図に、それまでゆっくりだった朝日の手の動きが速くなる。
連続して迫る左右の手の打撃を、狭霧は苦もなく両手で受け流す。脚捌きに混じった鋭い蹴りを、狭霧の膝が弾く。その度に互いの気魄が肌を通じて冴え渡っていく。閃光の勢いで突き出した朝日の右手を、狭霧の右手が正面からとらえた。朝日は即座に手首を曲げるが、狭霧は応じてその手を握りしめる。手と手を握り、朝日と狭霧の間合いが近づく。
(……目つきが変わった)
密着した近距離で、朝日はまっすぐに狭霧と視線を合わせる。それまでの鷹揚とした面持ちは消え、狭霧は真剣な顔で朝日を見返す。
(魅入られそうになるじゃない)
気を抜くと心の奥底まで見通されそうになる狭霧の眼光に、あえて朝日は視線を逸らさない。
(でももう怖くはない!)
気負うことなく、一心に。
◆◇◆◇◆◇
「ラブね……」
牧園百合が、口元のよだれをゴシックロリータ風のドレスの袖口で拭いつつ言う。
「ラブっす」
カメラを構えたまま構図に悩んでいる様子の日野来香が、深々とうなずきつつ言う。
「ラブ」
端的に西木美世がそう言うと、親指を上げる。言い方こそ異なるものの、意味それ自体は実質異口同音である。
仲良し三人組が太竹山で偶然目撃してしまったもの。それは落ち武者の亡霊ではなく、桜木朝日と當麻狭霧だった。木陰に隠れた四人の視線の先、月光の下、朝日と狭霧は寄り添ったまま動かない。動きこそないが、今朝日と狭霧は複雑な攻防を水面下で繰り広げていた。全神経を手足と、そこから流れるお互いの気魄の圧力に集中している。
だが、そんな武芸者の息詰まるやり取りなど、美世たちに分かるはずもない。少し前の聞き合わせ、あるいは相舞と呼ばれる手合わせでさえ、あまりにも高度なため「なんかちょっとケンカしてるっぽい」くらいにしか見えていない。詰まるところ、この三人の煩悩に曇った眼には、朝日と狭霧が密会しているようにしか見えていないのだった。
◆◇◆◇◆◇
「……どうだ?」
ややあって、朝日は尋ねる。目は逸らさず、手は握ったままで。
「良い舞だった」
狭霧の答えが耳に届く。
「謡も、鼓も、笙もない。けれども、確かにこれは舞だ」
狭霧が手を引き、朝日は不意を突かれてよろけた。狭霧の顔が近づき、朝日の耳に口元が寄せられる。まるで、抱き合うような近距離。
「やはり、君と
耳たぶに触れる狭霧の声と息に、朝日は身を震わせた。不意に、どうしようもなく恥ずかしくなる。
「そ、そうか……」
握りしめたままの狭霧の手を振りほどこうとしたその時だった。朝日の背後で閃光が閃き、同時に複数の人の気配を感じる。
「誰だッ!」
朝日は一喝しつつ首だけで振り返った。こんな夜更けに人の気配。あまりにも怪しすぎる。
「ご、ごめんっ!」
意外なことに、その気配は逃げずにむしろ声を上げた。
「あたし、あたしだよ。ねっ?」
街灯の下に歩み寄ったその姿を見て、朝日は目を丸くする。
「……美世?」
「え~と、き、奇遇、とか、そんな感じ?」
やや困った様子で片手を上げ、それでも親しそうに振る舞おうとしているのは、同じスイーツ研究会の西木美世だった。
「なぜこんなところにいる?」
「え~と、その、実は……」
朝日にはまだ、狭霧と交わした演舞の余韻が残っていた。自然と口調が鋭利なものとなり、美世は怯えたように目を左右に泳がせる。
「……肝試し。ちょっと友だちと来てみたんだ」
ややあって美世の口から発せられた理由に、朝日はあ然とする。
「うちの山はお化け屋敷か!?」
「違う違う、心霊スポットだってば。知らない? 雑誌見せようか? ここ、落ち武者の霊が出るって有名なんだけど。ねー?」
「いらない」
「そんなこと言わないで。ほらここの写真見てよ。これ絶対に鎧着たサムライの霊でしょ? でしょ?」
美世は手に持った雑誌を開きつつ、朝日に近寄る。その指が指しているのは、誌面に載った一枚の写真だ。
「どこが? ただのもやか何かにしか見えないけど」
それを一瞥し、朝日はにべもなく言い放つ。朝日の両眼は他者の気魄さえ視認できるが、美世の言う落ち武者の霊などどこにも見えない。
「でも、そんなことよりさぁ……」
しかし、美世は手持ちのネタが否定されても、さしてめげる様子はなかった。むしろ、その顔が不自然ににやついていく。
「いやいやいや、これってラブじゃない? 二人とも」
その台詞と美世の見つめる先。ようやく朝日は気づいた。今の今まで、自分は狭霧としっかり手をつないだままだということに。
「……なッ!?」
感電したかのように、朝日は跳び上がる。
「どういうつもりだ!?」
しかし、彼女の視線と逆鱗の矛先が向かうのは、美世ではなく狭霧だ。
「何が?」
狼狽する朝日とは対照的に、腹立たしいほどに狭霧は平静なままだ。
「私をはめたな!?」
「まさか。ただの偶然だよ」
狭霧がこの場で美世と出くわすよう計画したのか? 朝日がそう疑ってしまうほど、この出会いは偶然にしてはできすぎた布置である。しかし、残念ながら狭霧の言う通り、この遭遇は彼の計画したものではなく偶然の産物である。
「いい加減手を離せっ!」
一喝して朝日は狭霧の手を振り払い、続いてぎこちなく美世の方を向く。
「……見たな?」
その台詞と込められた怨念は、太竹山に出るという落ち武者の霊が朝日に憑依したかのようだ。
「って言うか、撮った」
悪びれもせず、むしろ満面の笑顔で美世はそう答えた。
「撮ったあ!?」
「そうだよねーライカ。ねー?」
◆◇◆◇◆◇
美世が振り返ると、少し離れた木の陰から二人の女子が姿を現した。牧園百合と、カメラを構えた日野来香である。
「オッケー! ばっちりっす!」
高々と片手を掲げてサムズアップする来香。彼女の手にあるカメラには、狭霧に密着した朝日のベストショットが収められていることだろう。先程の閃光はカメラのフラッシュだ。
「いやーまさか、こーんな夜中にお二人で密会なんて、素敵っすねぇー桜木朝日さん」
会心の一枚が撮れたことで気が大きくなったのか、来香はほぼ初対面にもかかわらずずけずけとそんなことを言ってきた。
「違う! 違うったら違う!」
ぶんぶんと朝日は首を左右に振る。とんでもない言いがかりだ。というより、もはや盗撮として訴えたいくらいだ。
「そんなこと言っちゃっても駄目っすよ。ほら、証拠はここにちゃんと残ってるっす。観念するっすよ」
……この種の手合いに口で言って駄目ならば、どうするか。答えは簡単である。中学生の時にデストロイヤー朝日(あるいはメスゴリラ)と呼ばれ恐れられた桜木朝日がなすべきことはただ一つ。それはすなわち実力行使のみである。
「……え?」
その場にいる狭霧以外の人間が全員目を丸くした。朝日の姿が突如かき消えたからだ。
「貴様」
来香が身を竦ませる。いつの間にか、朝日が彼女の後ろに立っている。むせるほどの殺気を放ちつつ。
「な、な、なんっすか?」
怯える来香は硬直したまま尋ねる。
「消せ」
「はい?」
「その写真を今すぐ消せ」
朝日は右手を伸ばす。
「さもなければ――」
その指が来香のうなじに触れる。
「――頸椎を引き抜いてやる」
朝日の指先が、鳥肌状態の来香の皮膚をそっと押した。
――その場にいる誰もが理解した。こいつは本気だ、と。
「わ、わわわ分かったっす!」
来香の反応は早かった。ごめんなさいっすすいませんっすと何度も謝りながら、半泣きでカメラを操作して写真を消去する。
その醜態を見つめつつ、それまで無言だった狭霧がぽつりと呟いた。
「鬼畜とまでは言わないけど、まさに鬼神の所業だね」
「正真正銘鬼のあんたには言われたくない!」
余計な一言に朝日が吠えた。
「完璧なボケとツッコミ。やっぱり仲いいじゃん」
思わず美世はそんな感想を口にしていたが、幸いそれは朝日の耳には届かなかった。
◆◇◆◇◆◇
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