第27話:好敵手とは小うるさいストーカーの美称なり(後編)
◆◇◆◇◆◇
「どこでそれを聞いた貴様ぁー!!」
中学生時代に陰で囁かれたあだ名を耳にし、朝日は激昂した。彼女の感情に、その身体と気脈は即応する。瞬間移動と見まごうばかりの捷歩と同時に、手にした木刀が閃光となって突きが放たれる。型も何もない、本能のままの刺撃だ。並の角折リならば、回避する暇など与えず一撃で倒す気魄が込められている。
しかし、感情むき出しで突進する朝日の動きを、八重姫は完璧に読んでいた。
「
大地を踏みしだくような朝日の捷歩に対し、八重姫は地面を滑るような捷歩で朝日の突きを躱す。躱すだけではない。朝日の背面に回り込む動きだ。しかも同時に、八重姫の上半身は正確に動き、アーチェリーを構えて矢を射る。
「
その矢を、朝日は振り返りもせずに背に回した木刀で受ける。
「まあまあ、そんなに図星を突かれたのが堪えますか?」
「や・か・ま・し・い!」
憤怒の形相で朝日は振り返る。これがゴリラならば、胸を叩いてドラミングと呼ばれる威嚇をしているだろう。悲しいことに、八重姫の言葉と今の朝日の様子が重なり、そんな光景が容易に想像できてしまう。
「どんな悪食の殿方でも、ゴリラを娶ろうなんて物好きな方はございませんからぁ! そう、メスゴリラを!」
だが、ここで八重姫はさらに朝日を挑発する。
「だからそれをどこで知ったんだぁー!」
再び朝日が突撃する。下田貫は狭い町だ。恐らく朝日の同級生の会話を、八重姫は偶然耳にしたのだろう。そこで彼女のあだ名を知った可能性がある。
「あっはっはっは! 私は柏崎流弓術の射手であって、ゴリラの飼育員ではありませんよぉ! メスゴリラの調教は専門外ですから!」
ここに来て、ようやく柏崎流弓術は本領を発揮した。高速で間合いを詰めて白兵戦に持ち込もうとする朝日を、八重姫は機敏に後退しつつ翻弄する。背中に目がついているかのような、とんでもない動きだ。
「あなたがメスゴリラである限り、お嫁の貰い手はありませんねぇ! つまり、未来永劫私には勝利できないんですよ!」
しかもその状態で、八重姫は朝日を挑発しつつ弓に矢をつがえた。巧みに朝日の側面へと移動し、すかさず矢を放つ。だが、朝日は飛来する矢を素手で掴み取る。冷静さを失っているとは言え、人太刀の称号は伊達ではない。
「お嬢、少し言いすぎでは……」
さすがに罵詈雑言が過ぎるように思えたのか、守門が彼女を諫めようとした時だ。
「だってあなたは、正真正銘メスゴリ――――」
その「ラ」という末尾の語は、八重姫の口から発せられなかった。
「――――騒々しいね」
彼女と朝日の動きが瞬時に止まる。二人の首が同時に動き、その目が同時に同じ場所を見た。
「ずいぶんと品のない言葉を聞いたような気がするんだ。俺の聞き違いならばいいんだが」
いつの間にか、離れの扉が開いていた。ゆっくりと三人の前に姿を現したのは、あの當麻狭霧である。一部始終を、彼は目にし耳にしていたのだろう。立ちすくむ八重姫をよそに、朝日はがっくりとその場に膝を付いた。
「ああ……。いっそ死なせてくれ」
◆◇◆◇◆◇
八重姫が呆然としていた時間は短かった。
「この気魄……!?」
狭霧の美貌に隠しきれない、頭角の恐ろしい気魄。それを八重姫は感じ取ったようだ。
「守門、離れて!」
すかさず彼女は、自分の恋人に叫ぶ。
「な、なんで頭角が角折リの家にいるんですか!?」
場違いな狭霧に八重姫は詰問する。しかし、彼が答える前に八重姫は察したようだ。
「まさか……。あなた、朝日と決闘して勝ったんですか!?」
角折リの家に頭角がいる理由。それは大抵、角折リが有する結節での逗留が目当てだ。だが、霊地とも言える結節を、角折リが頭角に簡単に貸し与えるはずがない。そうなると、交渉は大抵決闘となるのが常だ。すなわち、目の前にいるのは朝日に勝った頭角という結論が導き出される。
「私は柏崎流弓術の射手、柏崎八重姫! あなたも名乗りなさい、頭角!」
アーチェリーの弦を引き絞り、八重姫は狭霧に命じる。
「當麻流舞踊の仕手、當麻狭霧」
ぴたりと額に狙いを付けられているにもかかわらず、何事もないかのような口調で狭霧は名乗った。
「當麻……!」
頭角の中でももっとも恐ろしいその名を聞き、八重姫の顔が青ざめる。
「手が震えているね。狙いを付けづらいだろう?」
人ならざる者の血で染め上げられた美貌は、いたわるかのような声で八重姫に話しかける。
「怖がることはないよ。俺は頭角だけど、無差別に角折リを狩る趣味はない。特に弱い角折リには、興味がわかないんだ」
狭霧の笑みが深くなる。それまでのアルカイックスマイルから、皮肉を込めた冷笑に。
「見え透いた挑発を!」
八重姫は當麻の気配に飲まれず、矢を放つ。頭角相手に退かない八重姫は、角折リの末裔にふさわしい。けれども、彼女は知らない。この當麻狭霧が、正真正銘の鬼であることを。
「ええっ!?」
八重姫が愕然とする。狭霧は矢を避けもしなかったのだ。額に当たった矢は、彼の皮膚にあっさりと弾かれて逸れる。
「小雨にわざわざ傘を差す必要はない。そうだろう?」
後に残ったのは、のけぞることさえなかった無傷の狭霧だけだ。角折リの矢を受けて防御すらせずに平然としている狭霧に、八重姫は次の矢をつがえることができなかった。
「それはそうと、先程からゴリラゴリラと連呼しているのが聞こえたんだが――」
狭霧が改めて話題を変える。
「まさか、彼女をメスゴリラ呼ばわりしているのかな?」
「だ、だとしたら何だと言うんです?」
狭霧に見据えられ、八重姫はたじろぐ。
「大いに心外だね。はっきり言って、不愉快だ」
空気が揺らぐ。頭角の放つ気魄に、大気さえ穢れていくかのようだ。
「頭角のあなたが宿敵である角折リの呼び方について、いちいち心を砕く必要などないのでは?」
内心の恐懼を隠し、なおも八重姫は強気に出る。
「そうでもないよ。俺はこう見えて、桜木流撃剣を高く買っている」
だが、彼女の虚勢など狭霧には関心がないようだ。
「同じ角折リとして、感じ入るところがないのか? 生身の人間を一振りの太刀と変えるまで高められ、鍛えられ、極められた剣術と、それを体現する存在。一言で言うならば――」
むしろ狭霧は、朝日を見る。ようやくショックから立ち直り、木刀を杖に立ち上がった朝日を。八重姫に、いや森羅万象に向ける無感動とは異なる、本心から敬愛する眼差しで。
「本当にきれいだ。まさに心を奪われる」
「なっ……!」
手放しに誉められ、朝日がうろたえる。その様子を見て、嬉しそうに狭霧が笑った。
「だからこそ、彼女を類人猿扱いされるのは耳に障る。君にとって彼女がそう見えるのならば――」
すぐにその笑みを消し、彼は冷たく八重姫を見る。
「そんな目は、必要ないな」
わずかに狭霧の右手の指がうごめき、八重姫と離れた場所にいた守門が身構えた。そして朝日もまた。何であろうと、朝日はここで頭角が暴れるのを見過ごす気はない。
「冗談だよ。君とやり合う気はない」
すぐさま、狭霧は気魄を収める。本当に冗談だったのか、彼の口調からは判別できない。
「ああ、それと」
もののついでに、といった気軽な口調で、狭霧は朝日と八重姫に近づく。
「君は自分の彼氏を連れてきて、彼女に勝った気でいるようだけど……」
その動きは舞踊と同じだ。何ものにも妨げられず、何ものも妨げない。
「その程度で勝ったと思わないように」
あまりにも自然に、狭霧は朝日の前に立つと、その木刀を持っていない方の手を取る。
「な、何を……?」
朝日が抵抗する暇もなく。狭霧はためらいなく彼女の前に膝を付いた。正真正銘、ひざまずく。
「なっ……!」
「えっ……!」
隣の八重姫と、律儀に離れた場所に立つ守門とが同時に口をぽかんと開けた。
「……は!?」
だが、一番驚いたのはほかでもない朝日である。狭霧は何を思ったのか、朝日の手の甲に自分の唇をそっと押し当てたのだ。どう見てもそれはキスである。まるで、淑女に敬意を払う騎士か何かのように気取っていながら、あまりにもそれは堂に入った仕草だった。
「まあ、そういうことだよ」
何食わぬ顔で、狭霧は手を離すと立ち上がる。
「そ、そんな……」
朝日の横で、へたり込むのは八重姫だ。
「完璧だと思っていた私の作戦が、こんな番狂わせで……。朝日に彼氏が、しかも、頭角のなんて、そんな……」
茫然自失といった様子の彼女からは、もはや一切の自信が抜け落ちている。
「おい」
一方で、熱湯がぐつぐつと煮え立つような声が聞こえる。
「今、何をした?」
「親愛の証」
しれっとそう言い放つ狭霧に対し、ゆっくりと朝日は顔を上げる。見る見るうちに、その顔が上気していく。恥ずかしさと怒りが合わさり、その濃度も速度も二倍以上だ。
「足りなかったかな。ならば、次は頬にでも……」
悠然としたままの狭霧を前にし、朝日は握った木刀がへこむほどに握力を増していく。
「ああ、足りないな。足りない分は……」
次の瞬間その手が跳ね上がり、木刀が斜め上に振り上げられる。
「あんたの両の角で補ってもらおうか!」
しかし、その切っ先は当たらない。わずかに狭霧は後ろに下がり、その切り上げを躱す。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
「やかましい! 斬らせろ! 今すぐ斬らせろ!」
不動明王の形相で朝日は狭霧に襲いかかる。
敗北感にまみれた八重姫。呆然とする守門。その二人を無視し、朝日は衝動のままに木刀を振り回す。
「その角差し出せ! そして何より今のを全部なしにしろ!」
「それは難しい注文だな」
朝日の攻撃を回避しつつ、律儀に狭霧は返事をする。これはどう見ても決闘ではない。殺し合いでもない。言うなればこれは――――子供じみた痴話喧嘩だった。
◆◇◆◇◆◇
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