第28話:「月がきれい」とは「○している」の婉曲(という伝聞)なり



 ◆◇◆◇◆◇



「お口に合いますか?」


 夕刻。角折リである桜木家は、宿敵である頭角の狭霧を交えて食卓を囲んでいた。


「ええ、とてもおいしいです。ありがとうございます」


 陽子の問いかけに狭霧は丁寧にそう答える。


「お客様におもてなしは当然ですから」


 陽子も笑顔を浮かべる。この場面だけを見るならば、とても二人が角折リの遠縁と生粋の頭角とは思えない。


「朝日、どうしたの? ぼんやりしているわよ」


 母にそう言われ、朝日は気を取り直した。慌ててスプーンを持つ指先に意識を戻す。我知らず、悠然と箸を口に運ぶ狭霧を見つめていたらしい。


「え? う、うん。別に大丈夫……」


 狭霧の一挙一動にうっとりしていたのだと思われたくなくて、朝日はその場を取り繕おうとしたのだが……。


「いくら素敵でも、あんまり見とれるのは失礼よ」


 したり顔の陽子が、そんなことを言ってきた。


「み、見とれてなんかいないっ!」

「あらそう。お母さんにはそう見えたんだけど」


 断固たる抗議を行う朝日だが、陽子にはのれんに腕押しのようだ。


「もう……。おばあちゃんも何か言ってよ」


たまらず、朝日は祖母のふみに助け船を出す。


「――朝日」


 朝日の頼みを受け、ふみはじろりと彼女の方を見る。


「は、はい」


 その冷えた視線に、朝日は竦む。


「當麻にあんなことをされたくらいでうろたえるんじゃないよ」

「なっ――!?」


 朝日は絶句した。「あんなこと」が何を意味するのかはすぐに分かる。どうして知ったのかは不明だが、明らかにふみは狭霧が朝日の手にキスしたことについて触れている。


「もっと鷹揚に構えるんだよ。さもないと、またからかわれるよ」


 蒼白から紅潮へとめまぐるしく顔色を変える孫娘の醜態を見て、ふみは低い声できちんと釘を刺す。


「いいえ、桜木さん。俺はいたって本気です」


 しかし、その釘をわざわざ引き抜いて会話に加わる者がいる。ことさら真面目ぶった顔をした狭霧だ。どうにもこうにも口調がわざとらしい。


「ふん、口が上手だね。まだ二十歳にもなってないのに、一丁前に色気づくんじゃないよ」


 ふてぶてしいとさえ言える狭霧の態度に、ふみは露骨に嫌な顔をする。射るような彼女の視線を受けてなお、狭霧はうっすらとほほ笑みを浮かべるだけだ。思惟する菩薩像のような穏やかさをたたえつつも、どこかその表情には禍々しさがまとわりついている。


「おい、母さん。何があったんだ?」


 どうにも穏やかならぬ二人のやり取りに、大悟が心配そうな声を上げる。


「さて、ね。朝日、話していいかい?」


 ふみに聞かれ、朝日は大慌てで首をぶんぶんと左右に振る。


「駄目! 絶対に駄目だからね!」


 朝日の声は必死だ。今大悟に事の真相を知られれば、食卓が角折リと頭角の戦場に変わるのは確実である。


「ということさ。追求は無用だよ」


 朝日の必死さが伝わったのかどうかは分からないが、あっさりとふみは大悟の関心をあしらってしまった。


「わ、分かった……」


 実母にそう言われれば、息子の大悟としては引き下がるよりほかない。だが、彼の両眼は明らかに不審そうな光をたたえ、何食わぬ顔の狭霧を睨んでいるのだった。



 ◆◇◆◇◆◇



 夜。朝日の頭上には、皓々と照る月がかかっている。ここは桜木家が所有する太竹山の中腹。その少し開けた場所にある、古びた仏堂の境内だ。もっとも、仏堂と言っても申し訳程度に阿弥陀仏が置かれているだけの、小さなほこらのような場所である。境内の方も、ただの空き地と呼んだ方が余程近い。


 だが、ここは地脈の集中する地点である結節だ。大地に刻まれたエネルギーのラインである地脈。その中を常に流動する気魄は、この結節に噴き上がる。古来より気魄を糧として武技を示す者たちにとって、ここはまさに聖地である。事実、仏堂の阿弥陀仏はただの置物だ。その裏には一本の古刀が安置され、地脈内の気魄を抽出する触媒となっている。


 その狭霧は、今仏堂の中にいる。決闘の際に交わした約定により、桜木の結節を貸し切っているのだ。


「遅いな……」


 朝日は独りごちる。まだ、狭霧は結節から出てこない。普段朝日が結節にこもる時も、ここまで長くはなかった。彼女がここにいるのは、狭霧を結節まで案内するのと、彼を見張るのが理由だ。


 角折リの聖地まで頭角を案内した上に、悠々と長居するその頭角を待っている。角折リとしてあまりに不甲斐なく、朝日はひたすら苛つく。ふと、朝日は狭霧の姿を想像した。阿弥陀仏の前に結跏趺坐し、静かに目を閉じている狭霧の姿を。頭角がそこにいるだけで、真下の地脈が膿んでいくように思えてならない。角折リの本能が、奴を斬れとうずく。


(でも、あいつは…………)


 吠え猛る本能をよそに、朝日は右手をかざす。


(あの時…………)


 自分の手の甲を、彼女はじっと見つめる。痣も痕もない。けれども、どんな傷よりも深く、あの感触は朝日の中に残っている。あの時。小うるさい柏崎八重姫が我が家に押しかけてきた時だ。狭霧は八重姫に見せつけるようにして朝日の手を取り、キスをした。


 体の芯が震える。狭霧の唇の感触が脳裏に蘇る。信じられないくらいに柔らかで、優しかった。まるで女のそれなのに、確かに狭霧は男だ。その倒錯した感覚は、酒精のように五感を陶酔させる。あんな事をされたのは、朝日の人生の中でただの一度もなかった。異性に甘やかな好意を示されることが、こんなに心を乱されるなんて知らなかった。


 そして、朝日の手を取った狭霧の手。どんな女性の手よりもきれいに整った指と爪だった。その手で愛撫されれば、命のない石像さえも恥じらい身もだえするだろう。でも、朝日は知っている。狭霧の手はその気になればたやすく人の肉を裂き、骨を砕き、内臓を抉る鬼の手であることを。それなのに、あの時の彼の手はどこまでも優しく穏やかだった。


 角折リと頭角。両者は決して相容れることがない、不倶戴天を運命づけられた者同士のはずだ。狭霧だって、そんなことは百も承知だろう。なのに、どうして。


(あいつは、私の手に…………)


 自分にされたことを思い出し、朝日の顔が赤くなっていく。彼のキスに思わず胸が高鳴ってしまった自分が許せず、それに輪を掛けて恥ずかしくてたまらない。



 ◆◇◆◇◆◇



「待っていてくれたんだ」


 朝日はぎょっとして振り返った。


「ありがとう。遅くなって悪かったよ」


 いつの間にか、狭霧が仏堂の外に立っていた。涼やかな月の光を浴びて、彼の美貌はますます冴え渡っている。長い黒髪の上を月光が雫のように流れていく様は、この世のものとは思えない。


「……別に」


 内心の動揺を押し隠して、朝日は無愛想に応じた。


「太竹山は角折リの山だ。頭角に好き勝手に歩かれると困る」


 無言でいると心の内を狭霧に読まれそうで怖く、朝日はあれこれと言葉を並べる。


「それに、夜だし。暗いから迷われても、迷惑だし」


 彼女の言い訳に、狭霧は笑う。


「つい長居したくなるくらい良い気魄だったよ。実に美味だった」


 そう言うと、彼は軽く手で顔を仰ぐ。


「頭角は気魄を直接食らうことが多いんだ。特に、ここのような澄んでいて力強い気魄は、生身の舌と喉で味わいたくなる」


 狭霧が口元を緩めると、わずかに彼の舌が唇の間から姿を覗かせる。血のように赤い、やや尖った舌だ。


「ますます、あんたが人以外の何かに見えて仕方がない」


 朝日は身を震わせる。


「俺は人間だよ。詰まるところ、ね」


 狭霧の声には、わずかな諦めのような感情があった。


「だったら、少しは人間らしく振る舞え。私は鬼は斬るけど、人は斬らないからな」


 その理由も分からず、朝日は角折リの本分を告げる。


「ならば、なおさら俺は、人であり鬼でもあってよかった」

「どういう意味だ?」


 朝日は首を傾げるが、狭霧はほほ笑むだけだった。


「まあいい。帰るよ」


 それ以上会話を続ける気にならず、朝日はよそをむいた。何を言っても意味深にあしらわれるようでは、話していても虚しいだけだ。


「何を見ていたのかい?」


 山道を下り始めた彼女の背に、後に続く狭霧の声が投げかけられる。


「月」


 そっけなく朝日は答える。


「ああ、確かに――――」


 背後で、狭霧が立ち止まったのが分かった。


 何気なく朝日は振り返る。狭霧は顔をもたげ、空を見上げていた。天空で輝く皓月と、人並みはずれた容貌の狭霧。世間一般の女子が見たら、腰が抜けてへたり込むような美しい構図だ。


(これでこいつが女だったら、さしずめかぐや姫だな。長髪だし)


 一方角折リの朝日は、そんなさもないことを思うだけだ。とりあえず、狭霧の美貌を認めてはいる。


 月見に満足したのか、狭霧が顔を朝日の方に向けた。


「月がきれいだね」


 何気なく、彼はそう言ったのだろう。けれども、その短い言葉。それは朝日の耳に届くや否や、本当か嘘か分からないある逸話を想起させた。曰く、明治の文豪か誰かが、英語で「愛している」という表現を「月がきれい」と訳したとか。それの真偽は分からない。だが…………。


「……何か気に障るようなことをしたかな?」


 狭霧は珍しくいぶかしげな表情を見せる。それも当然だろう。突如朝日は後方に数メートル跳躍するのと同時に、気魄でできた白刃を逆手に持って身構えたのだから。「月がきれい」≒「愛している」という構図が脳内で導き出されるのと同時に、朝日は反射的に戦闘態勢に移行していた。


「うるさい。それ以上近寄るな、喋るな、余計なことをするな」


 朝日は遠い間合いから唸る。まるで喧嘩中のネコが毛を逆立てているかのようだ。狭霧が一歩近づけば、朝日は一歩下がる。


(冗談じゃない! 勝手に愛されてたまるか!)


 朝日の妄想はどんどんと膨れ上がっていく。この奇妙な構図は、もうしばらくの間続いたのであった。



 ◆◇◆◇◆◇



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