第25話:好敵手とは小うるさいストーカーの美称なり(前編)



 ◆◇◆◇◆◇



 遡ること約半年前。桜木家の道場は、一人の成人女性を迎えていた。強いウェーブのある茶色の髪を動きやすいよう後ろで結び、ピンクの派手なトレーニングウェアに身を包んだ女性だ。吊り目な上に鼻が高く、実にプライドが高そうな造作をしている。一見すると華やかな美人だが、そのくせ抜けているというか、変に打たれ弱そうな雰囲気がある。


「まだやる気?」


 彼女から離れた場所に立つのは、手に抜き身の一刀を下げた和装の桜木朝日。


「口惜しいですが、お見事ですね。我が柏崎かしわざき流弓術の矢面に立ってなお、余裕を見せるとは心底不愉快です」


 女性は忌々しげな口調で朝日を誉めると、構えていた武具を降ろす。それは、人間工学に基づいてデザインされたグラスファイバー製のアーチェリだ。


 彼女の名前は柏崎八重姫やえひめ。角折リの一家、柏崎出身の角折リである。桜木が刀を扱う家であるのに対し、柏崎は弓、それも様々な技術を取り入れた弓を扱う家だ。古くは中国の弩、モンゴルの複合弓コンポジットボウ、西洋のクロスボウ、さらにはアイヌの毒矢まで貪欲に学んだ家である。その末裔たる八重姫が、最先端のアーチェリーを持つのも当然と言えよう。


「誉めるかけなすかどっちかにしてよ。こっちも喜んでいいのか怒っていいのか困るから」


 相手が年上にもかかわらず、朝日の口調に丁寧さはない。それもそのはず。朝日にとって八重姫とは、対応が面倒くさくて厄介なお姉さん以外の何者でもない。幼少の頃より幾度となく勝負を挑まれ、大幅に勝ち越してきた。まさに金魚のフンの如き相手である。


「まだそんな減らず口を……!」


 朝日のやる気のない応対に対し、八重姫はきっと顔を上げるや否や再びアーチェリーを構える。これは決闘ではなく手合わせだ。角折リ同士が武芸を競い、切磋琢磨する健全な場である。だが同時に、ここでの勝ち負けは角折リというコミュニティでの発言力に直結する。たやすくあしらわれるのは、柏崎の名折れだ。


「心眼」


 流れるような動作で矢が放たれる。朝日に軽視されたとは言え、八重姫の動きは熟練者のそれだ。高速で迫る矢を、朝日は横に退いて躱す。


「流火」


 続く二本目の矢の異様さに、朝日は目を見張る。速さが掴めない。初速は遅く、徐々に加速するかのような動きだ。体は矢を見て避けようとするのに、頭はまだタイミングを見計らっている。


 とっさに朝日は刀を振り上げ、迫る矢を上に弾いた。体と頭の相反する反応に、わずかに足がもつれて回避が遅れたためだ。


「捉えました」


 だが、朝日の迎撃を待っていたかのような八重姫の声。


「柏崎流弓術・三畏さんいノ放チ」


 彼女と真っ正面で向かい合う八重姫は、そう宣言すると同時に引き絞った弓の弦を放し、三本目の矢を射る。


撃壌げきじょう


 あたかもそれは毒矢だ。防御しても侵蝕し、躱してもその場で爆ぜる。殺意と共に錬られた気魄が矢に込められている。柏崎流弓術・三畏ノ放チ。それは速さと正確さに優れた最初の矢、幻惑を織り交ぜた熟練者殺しの二本目の矢、そして、気魄を込めた無理矢理にでも当てる三本目の矢。この三段構えの連射で、確実に相手を葬り去る技能である。


「弾けろッ!」


 だが、朝日は丹田に力を込めて怒鳴る。それは気魄を帯びた声である雷声だ。彼女の放つ気魄に、矢に込められた気魄は四方に弾け飛び、霧散する。


「まだ足りないんだ?」


 三本の死線をことごとく躱した朝日は、好戦的な笑みを浮かべて刀を構えた。


「……くっ」


 殺気という名の白刃を喉元に突きつけられ、八重姫はたじろぐ。


「わ、私の技を破ったくらいで、いい気にならないで下さいね」

「いい気にはなってないけど、斬る気にはなってるかな?」


 じりじりと朝日は間合いを詰め、それに応じて八重姫は後退する。


「ま、まったく、実に野蛮な太刀筋ですね。剣客というより山賊か蛮族の技法です」

「ああ、そう。柏崎流は桜木流をそう評するんだ?」


 朝日の反応はにべもない。


「……お見それいたしました」


 とうとう、八重姫は弓を床に置いて一礼した。


「ということは?」

「もう! だったら申し上げます! 負け負け負け! 私の負けです! これで満足ですか!?」

「承知した」


 八重姫の敗北宣言を聞き、ようやく朝日は刀を鞘に収める。これは八重姫の方がふっかけてきた試合だ。彼女にはけじめを付けてもらう必要がある。


「心底悔しいですけど、あなたの腕は確かです。この私、柏崎八重姫がそれを保証いたしましょう」


 弓をしまいつつ、八重姫はそう言う。一応、朝日のことを認めてはいるようだ。


「それはどうも」


 朝日の返答はそっけない。認めているのならば、こう何度となく試合を挑んでくるのはやめて欲しい。いい加減、朝日は八重姫の弓に飽きてきている。


「ですが! これで桜木流が未来永劫柏崎流に勝ったという意味ではないですから!」


 またこれだ。八重姫が桜木流撃剣を認めるのは一瞬でしかない。


「つまり、またやりたいってこと?」

「勝負は必ずしも試合だけに限りません!」


 そう言うと、八重姫は道場の出入り口の方を向く。


守門すもん! 守門! どこにいるんですか!?」


 すぐに反応はあった。


「なんだ、お嬢。矢の補充か?」


 矢筒を手に姿を現したのは、彼女よりもやや年上の男性だ。短髪でがっしりとした長身の、スポーツインストラクターのような外見をしている。


「それはもういいです。さっさと帰りますよ」

「了解した」


 男性はうなずく。彼の名は守門克彦かつひこ。八重姫の付き人である。


「見てなさい、桜木朝日! 今度は必ず、あなたの不得意な分野で私が勝利を収めてみせますからね!」


 人差し指を突きつけながら高々と宣言する八重姫に、朝日はため息をついた。


「それって戦術的に見れば割とまっとうだけど、人間的に見れば割とクズの所業だよね」


 戦術的には認めるところに、朝日の戦闘バカな性格が見え隠れしているのだが。


 しかし、そう宣言してから帰っていったはずの八重姫が、またひょっこりと顔を出す。


「……あの、ちょっと」

「今度は何?」


 やや遠慮がちに、八重姫は続ける。


「次の手合わせまで、鍛錬は欠かさないで下さいね?」

「もちろんそのつもりだけど?」

「食生活にも気をつけるんですよ」

「分かってる」

「夜更かしとか、ゲームのやり過ぎも禁物ですよ」

「はいはい」

「ちゃんと再戦の約束はしましたから、絶対に忘れないで下さいね?」

「いいからさっさと帰れ!」


 たまりかねて朝日は大声を上げる。居丈高に出たかと思いきや、次の瞬間一転して弱気になり、しかもしつこく食い下がってくる。つくづく、柏崎八重姫という女性は金魚のフンのような人間である。朝日はそれを痛感するのだった。



 ◆◇◆◇◆◇



「……嫌な奴のことを思い出した」


 狭霧を迎えた日の午後。家庭菜園の虫取りをしつつ、朝日は一人で呟く。指だけが機械的に、プチプチとアブラムシを潰していく。久しぶりに、あの迷惑な同業者のことを細部に至るまで正確に思い出してしまった。思えば、あの日から今日まで、八重姫から試合の申し込みはない。いつになく空白の期間が長い。


 だが、ここまで鮮明に記憶が蘇ったのだ。もしかするとこれは、近日八重姫が桜木家に押しかける予兆かもしれない。


(厄介なのはあいつ一人でもう充分だ)


 朝日はげんなりする。角折リ同士が武勇を競うのは歓迎だが、八重姫のように粘着質に勝ち負けにこだわられるのはうっとうしい。勝敗にこだわらなければならないのは、頭角が相手の時だけだ。


「そんなことより……」


 朝日は手を使い古したタオルで拭いてから、後方を振り返る。彼女の視点の先にあるのは離れだ。朝日は目を凝らすが、そちらからは何の気配も気魄も伝わってこない。だが、朝日は知っている。あの中には、角折リの宿敵である頭角が居座っていることを。ほかでもない自分が、その頭角――當麻狭霧を呼び込んだのだから。


 夕食までまだ時間がある。後ほど、朝日は彼を多竹山の結節にまで連れて行かなければならない。それまでは狭霧の自由時間だが、彼は離れにこもったまま出てくる気配はない。


「何をしているんだろう……」


 何となく呟いた自分に、次の瞬間朝日は驚愕する。


(なんだこの軟弱な態度は! あいつが中で何をしようが関係ないだろうが!?)


 戸惑いに揺らぐ朝日の目が窄められた。刹那で臨戦態勢となった彼女は、素早く右手を顔の前に掲げる。その指と指の間に挟まれたのは、彼方から飛来した白い矢だ。それもただの矢ではない。彼女の指の間に挟まるや否や、矢は見る間にほどけるように形を変えて垂れ下がる。それは一枚の細い白紙だ。気魄が込められ、矢の形に整えられていたのだ。


「やはり、私は桜木ふみの孫だな。祖母ほどではないが、私にも予知の素質があるらしい」


 立ち上がる朝日は、皮肉っぽく唇を歪める。


「不意打ちでしか首級を狙えないとは、角折リの一家も落ちたものだな。柏崎八重姫」

「あら、今のは征矢そやではありませんよ。これは矢文です。ただのアプローチですよ」


 物陰から姿を現したのは、案の定柏崎八重姫だ。


「休日にわざわざ遠征とはご苦労様だな」


 久しぶりに見る厄介な角折リの先輩に、朝日が憎まれ口を叩く。また試合に付き合わされるのだろうか。


 ――だが。


(しまったぁ!?)


 失念していた。今日は狭霧がいる。八重姫に彼を見られたらなんて言われるか。桜木家になぜ頭角がいるのか、根掘り葉掘り聞き出そうとするのは想像に難くない。


「急に冷や汗など浮かべて、どうされましたか?」

「あ~、その……」


 上手い言い訳など到底思いつかず、朝日ははっきりと本音をぶつけるしかなかった。


「きょ、今日は帰ってくれないか。って言うか、当分来ないでくれ。ほら、帰れ」


 案の定八重姫は目をむく。


「ちょっと寂しいこと言わないで下さいますか!? そういうの本気で傷つきますので!」



 ◆◇◆◇◆◇



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