第24話:霧とは真実を覆い隠す帳なり
◆◇◆◇◆◇
「なるほど。ここが下田貫か」
朝日の自宅へと続く道を歩きながら、狭霧が周囲を見回してそんなことを口にする。
「ひなびてていい雰囲気じゃないか」
「ふん。あいにくここは、あんたのいた初城台とは違ってド田舎だよ。バスの時刻表は空欄ばかり、コンビニはわずか、お年寄りがたくさんで、幼稚園や保育園は次々と閉鎖されてるひどい場所なんだ」
自分の故郷を卑しめる朝日に対し、狭霧は平然と応じる。
「もっとひどいところだってあるさ。山奥の限界集落のような」
「行ったことがあるの?」
「當麻流の聖地とされる場所は、そんな寒村のさらに先にある」
狭霧の言葉に、少し朝日は興味がわく。そもそも、この頭角の個人的な情報について、自分がほとんど無知なことに彼女は気づいた。
「何か奉られてるわけ? 鬼の右腕とか?」
「いや、もっと異質な存在だよ」
狭霧はあっさりとそう言うが、朝日は彼の物言いが引っかかった。この常識に対する異質そのものである狭霧をして、なお異質と言わしめるその存在は何なのだろうか。
「心底ぞっとするね」
「恐らく、それが正常な反応だよ」
朝日の言葉に、一も二もなく狭霧は同意した。
◆◇◆◇◆◇
「うわ……」
錆の浮いたポストのある角を曲がってすぐ、朝日がげんなりした声をもらす。
「どうしたんだい?」
飄々と尋ねる狭霧に、朝日は焦った顔で振り返る。
「ちょっと、隠れて」
「え?」
「いいから早く! 適当に隠れて!」
そう言いつつ、朝日もまた鎧戸の下りた商店と商店の間に身を潜めた。息を殺して気魄を整えれば、もう隠形の完成である。
朝日の目と鼻の先を、野暮ったい制服姿の女子高校生たちが通り過ぎていく。恐らく部活だろう。
「……もういいよ」
朝日が表通りに出ると、彼女の後ろから狭霧が姿を現す。
「あんた、〈隠匿〉を使ったんだ」
いつの間にか後ろに回り込まれたことに気づき、朝日は憮然として口を開く。
「君も使うだろ?」
「刀を持ち歩く時はね」
気魄で覆った対象を隠すこの技能は、単に身を隠すだけではない。朝日は白昼堂々日本刀を持ち歩く時には、この技能を用いて刀だけを隠している。
「あれは?」
改めて狭霧が遠ざかる女子たちを見る。
「中学の時の同級生。別に、仲良かったわけじゃないけど」
「わざわざ隠れなくちゃいけないのかな」
平然とそう言われ、朝日は改めてため息をつく。
「あんたと一緒に歩いているところは、極力見られたくないの」
娯楽の少ないここ下田貫で、噂の火種となるようなことは控えたい。
「ならば、なおさら出迎えはいらなかったのに。調べれば君の家の住所くらい分かるよ」
「それとこれとは別」
「律儀だね」
狭霧は誉めているようだが、朝日には嫌みにしか聞こえなかった。
◆◇◆◇◆◇
その後、幸いこれといったトラブルもなく、朝日は自分の家にまでたどり着くことができた。
「ほら、さっさと入って」
門をくぐり、玄関の前で朝日は狭霧を促す。
「ここが君の家か」
狭霧の口調は平然としているが、朝日は彼の言葉に勝手に「狭くて小さくて、當麻の家に比べればまるで犬小屋だな」という含みを想像してしまった。
「あんたの泊まる離れは後で案内するから、とにかく先にこっちで挨拶してよ」
裏付けの取れない妄想に駆られ、ついつい朝日はきつい口調で狭霧を案内する。
「ただいまー」
引き戸を開けて中に入る朝日だが、すぐに首を傾げた。
「あれ?」
玄関には誰もいない。
「ただいまー!」
もう一度、今度は大きめに声を上げるが、反応はない。
「急用かな?」
狭霧の言葉に、朝日はうっすらと冷や汗を浮かべる。
「そ、そ、そんなことは、な、ないと思う、けど…………」
あまりにも間が悪かった。いくら宿敵の頭角とは言え、出迎えがなければ相手から礼儀知らず扱いされる。しかし次の瞬間、朝日に続いて家の中に入ってきた狭霧が、何気ない動作で上を見上げた。
「おや」
朝日の背中に目はついていない。だから気配と音だけで、狭霧が緩やかに身を横にずらしたのを感じた。まったく同時に、頭上から落ちてきたものがある。ぎょっとして目を上げる朝日は、それが自分の父親の大悟であることを視認した。しかも、彼は両手に野太刀を握っている。体を丸め、落下の勢いを重ねて大悟は野太刀を一気に振り下ろす。
しかし、既に狭霧は横に退いている。白刃は空を切り、大悟はそのまま着地した。
「お、お父さん!?」
朝日は目を見開いて大声を上げる。
(なんてことするのよ!? 決着はもうついたはずでしょ!?)
明らかに、彼は狭霧を待ち伏せしていた。既に決闘が終わり、桜木が敗北したにもかかわらず。大悟は仏頂面で立ち上がると、抜き身を鞘に収めた。
「……よくぞ今の一撃を躱した」
「桜木流撃剣の現当主にそう言っていただけるとは、光栄です」
大悟にとりあえず誉められ、狭霧はアルカイックスマイルのまま軽く頭を下げる。ついて行けないのは朝日だけだ。
「あ、あのね、これはなんて言うか、闇討ちとか仇討ちとかじゃなくて、申し合わせたわけでも罠にはめようとしたわけでもなくて……」
まさか実の父が、こんな蛮行に及ぶとは思わなかった。もっとも、普段の朝日の言動は、今の大悟の蛮行とほぼ同じなのだが。
「何をしている朝日。連係がとれていないぞ。奴の逃げ道を塞げば、あるいは一太刀浴びせられたかもしれん」
悪びれる様子もなく、さらに娘に協力を求める大悟に、朝日は堪忍袋の緒が切れた。
「……お父さん」
「ん?」
朝日はいぶかしげな大悟に向かい合って立つ。息がかかるほど密着した体勢だ。瞬間、大悟のみぞおちに当てた朝日の拳が、振りかぶってもいないのに強烈な衝撃を与える。
「ごほぁ……!」
悶絶しつつ、大悟はその場にへたり込んだ。踏み込む足の力と一瞬で励起した気脈により、ゼロ距離で発せられる痛烈な打撃。すなわち「桜木流撃剣・富嶽」。
「身内が失礼しました。一応、これが私の父の桜木大悟です」
なぜか丁寧語になって、朝日は狭霧に実父を紹介する。
「別に構わないよ。頭角が角折リの家に行くんだ。諸手で歓迎されるなんて期待してないよ。むしろちょうどいい」
床の上で未だにのたうっている大悟を一顧だにせず、狭霧は平然としてそう言う。
「武者修行ってわけ?」
「ある程度は」
いったい當麻の実家は、どんな心構えで狭霧を送り出したのだろう。朝日はそれを想像する前に、大悟とは違う声が聞こえた。
「そう言って下さると、こちらとしてもほっとします」
ようやく、奥から母の陽子が出てくる。
「初めまして。朝日の母の桜木陽子です。短い間ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「ええ、こちらこそお世話になります」
「そして……」
陽子がさらに奥を見ると、悠然と姿を現したのは祖母のふみだ。
「祖母の桜木ふみです。以後お見知りおきを」
挨拶するふみと、それを受ける狭霧の目が合った。
「……はい。當麻流舞踊の仕手、當麻狭霧。しばらくの間ご厄介になります」
一瞬だけ交錯した双方の殺気などそ知らぬ顔で、狭霧はことさら丁寧に頭を下げるのだった。
◆◇◆◇◆◇
朝日にとってやや気まずい顔合わせを大急ぎで終え、彼女は狭霧を離れに案内していた。
「ここが離れだから。見ての通り狭いけど、寝起きに不自由はないでしょ」
「そのようだね」
狭霧は室内を見回しているが、声に感情はない。
「……當麻の実家と比べないでよ」
「俺は今弟と二人暮らしなんだ。マンション住まいでね」
「そうなんだ?」
「個人的には、こういう家の造りの方が落ち着くよ」
狭霧は荷物を降ろすと、かすかにほほ笑む。
「いい家族みたいだね」
「え?」
「ご両親もお
なぜ狭霧が誉めちぎるのか分からず、朝日は正直に答える。
「別に。親とは仲いいし、おばあちゃんは私の師匠みたいなものだし」
「ああ、確かにあの人は強いよ。気魄だけで分かる」
敬愛するふみを誉められ、朝日は即座に食いついた。
「でしょう? おばあちゃんはただ者じゃないよ。本当に強いんだから。一度手合わせしてみる? やりたければ話つけるよ? なんて言ったって天眼の持ち主だし。それでもやる? ちょっとやそっとじゃ太刀打ちできないよ?」
そこまでまくし立ててから、朝日は自分の熱の入れように気づいて恥ずかしくなる。
「……あっ」
狭霧は薄く笑ったままだ。
「も、もういいでしょ。あんたのご両親だって、あんたを大事に思っているのは同じだろうし」
慌てて朝日は話題を変えようと努力する。
「さて、どうだろうか」
狭霧の返事が予想外にそっけなく、朝日は不審に思った。
「俺にも父はいるけれども、君のお父様ほど愉快な方ではないよ」
「いや、あれを愉快って言うのはちょっとセンスがおかしい」
真顔の狭霧に突っ込みを入れつつ、朝日はあの決闘の夜を思い出す。篝火に照らされる當麻の陣営。荒波の打ちつける岩壁のように厳しそうな顔をした、壮年の男性の顔が脳裏に浮かぶ。あれが狭霧の父親だろう。
「……あんた、お母さんは?」
しかし、周囲に彼の母らしき姿はどこにもなかった。我ながら個人的なことをぶしつけに聞くな、と思いつつも、朝日はつい尋ねる。
「母は亡くなったよ」
「え……」
予想だにしない返答に、朝日は言葉を失った。
「あ、ごめん」
小さく頭を下げて謝る朝日の耳に、その続きが聞こえた。
「俺が殺した」
「――――ッ!?」
剣呑極まる言葉に、弾かれたように朝日は顔を上げる。今、確かに聞いてはいけない言葉を聞いた。
「……ようなものだ」
だが、狭霧はすぐにそう付け加える。彼の本意が分からず、朝日はじっと彼を見つめた。しかし、どれだけ目を凝らそうとも狭霧の本心は曖昧で、見抜くことは不可能だった。
――霧の向こうに、見てはいけない禁忌がある。
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