第22話:敗北とはより良き変化への先駆けなり
◆◇◆◇◆◇
日曜の早朝。まだ日は昇らず、空はようやく明るさの片鱗が見えてきたばかりだ。遠くでかすかに、早起きの鳥の声が聞こえてくる。寝間着姿の朝日は自室で布団の上に正座し、瞑目したままそのさえずりに耳を傾ける。どんな種類の鳥かは分からない。そして、なぜこんな朝早くに鳴くのかも分からない。
朝日の自室は、年頃の少女のそれにしては殺風景の一言に尽きる。元より、小物やインテリアに関心のない朝日である。必要最低限の家具と調度品があれば、それで満足している。そもそも、朝日にとっては身近に刀さえあれば充分なのだ。そしてその刀は、正座する彼女のすぐ隣にある。あの夜、狭霧との決闘に使用した打刀だ。
(私は……)
朝日は何度も思い返す。
(……私は負けた)
何度も何度も、あの夜を脳内で再生する。
(……私は、敗北したんだ)
何度も何度も何度も、どれだけ微に入り細を穿っても飽き足りず、朝日はあの夜の決闘を思い返す。そうしなければ、とても正気を保っていられなかった。飽くことなく、彼女の記憶は回転し、故に前に進もうとしない。
(……あの頭角に。當麻狭霧に)
その名を思い浮かべただけで、朝日はぎゅっと拳を握りしめる。
――あの決闘の夜。朝日が昏倒から目覚めた時、狭霧はどこにもいなかった。いや、當麻の陣営は既に全員姿を消していたのだ。残されたのは自分たちだけ。まるで、敗者にはかける言葉さえ無駄であるかのように。
◆◇◆◇◆◇
(不甲斐ないという言葉さえ、今の私には到底足りない……!)
そう、桜木朝日はあの夜死んだのだ。それなのに、今も朝日はここに生きている。この日まで、彼女は呆然として学生生活を送ってきた。なにをしても身が入らない。どうやって今日を迎えたのか、記憶さえ曖昧である。そしてその間、一度たりとも狭霧を目で追わなかった。相手は勝者だ。勝者には敗者を一顧だにしない権利がある。
(……届かなかった)
朝日はあの夜の決闘を思い返す。全力が通じなかった。奥義まで用いたのに、届かなかった。相手は自分よりも高みにいたのだ。
(……だから負けた)
頭角とは何度か刃を交えたことがある。だが、全力で挑み、そして負けたのは初めてだ。すべては自分の不徳が致すところ。その責任は取らねばならない。
(……なにもかも、できもしない大言壮語だった)
朝日はこれまでの自分の言動を振り返る。あれだけ狭霧に突っかかり、琲音を一蹴してきたにもかかわらず、自分は無様に負けた。
(……恥ずかしい)
恥ずかしさに顔から火が出そうになる。自分の言葉が負け犬の遠吠えとなり、何一つ意味をなさない虚言となり果てたのを痛感した。
矢も楯もたまらず、朝日は目を開くと、そばの刀を手に取って抜刀する。激情に任せて、刀身を鷲掴みにする。歯を食いしばり、手の肉に刃を食い込ませる。しかし血は出ない。肌を気魄で覆っているが、もしそれをやめればわずかに動かしただけで手を切り落とす勢いだ。だが、それでも朝日はひたすら刃を握りしめる。いっそ切れ、と心に思うほどに。
◆◇◆◇◆◇
「朝日」
突然襖の向こうで声がして、朝日は身を震わせた。まったく気配を感じなかった。声の主はふみに間違いない。
「おばあちゃん?」
「やはり起きてるね」
「……う、うん」
「邪魔するよ」
突然そう言われ、朝日はあたふたする。
「ま、待ってよ」
慌てて刀から手を離そうとした途端、さっと襖が開かれた。
「何をやっているんだい」
刀身を握りしめたまま固まっている朝日を、ふみの冷たい目が見下ろしていた。
「あの、その……」
醜態をさらしてしまい目が泳ぐ朝日を、さらにふみはじっと見ていたが、やがて聞こえよがしに一度ため息をついた。
「少し外に出るよ。ついて来な」
そう言ってふみは襖を閉める。朝日としては、従うよりほかなかった。
◆◇◆◇◆◇
「おばあちゃんは、なにしに?」
廊下を歩きながら、朝日はふみに尋ねる。結局寝間着のまま、ふみの後についていくことになった。
「年を取ると眠りが浅くなってね」
無愛想にふみは質問に答える。
「それから、手洗いの帰りだよ」
「あ、ごめん」
「ふん、孫に隠すようなことじゃないさ」
玄関にたどり着くと、ふみは突っかけを履いて外に出た。
「静かだね」
サンダルを履いて後に続いた朝日が、空を見上げて言う。
「ああ」
ふみもまた、空を見上げる。ド田舎である下田貫の早朝は、まるで世界そのものが停止したかのような静寂に包まれている。
「私たちだけが異物だ。人ってのは騒がしい生き物だね」
ふみがそう言い、朝日は考えることなくうなずいた。
「そうだね」
それからしばらくして、おもむろにふみは切り出した。
「――悔しいかい? 朝日」
「分からない」
問われることが分かっていたかのように、朝日は滑らかに答える。だが、答えの内容自体は曖昧だ。
「ただ、昔の武士が切腹を選んだ気分が分かるような気がする」
朝日がそう言うと、ふみが彼女の顔をまともに見据えた。
「絶対におやめ。今のお前じゃ、本当に腹を切りかねない雰囲気があるよ」
「もちろんしないよ。そう思っただけ」
朝日はすぐにそう言うが、先程まで刀身を握りしめていた自分では説得力がないことくらいは分かる。だが、かつて武士がそうして死ななければならないほどの強い感情を抱いていたことが、今の朝日には痛いほど理解できるのだった。
「生き恥と思っているんだね。負けたことと、こうして今いることを」
朝日はうなずく。
「何を言っても、言い訳にしかならないから。私はあそこで負けた。ただそれだけ」
朝日は断言して、ふみの言葉を待つ。厳しい祖母のことだ。ここで朝日を慰めたり励ましたりせず、鋭利な刃の如き言葉で自分を裁くに違いない、と半ば期待する。
「ならばさっさと敗北から学ぶんだね」
思いもよらぬふみの提案に、朝日は目を見開く。ふみの言葉に温かみはない。ただ、当然のことをさっさとしろ、と言っているだけだ。
「お前は負けて地団駄踏んで、こんなのあり得ない、何かの間違いだってわめいて、それで終わるような角折リじゃないだろう? 一勝で十を学ぶならば、一敗で百を学びな」
「でも、私は負けたんだ。本当の斬り合いならば、私は死んでいる身だよ」
朝日がそう言うと、ますますふみは呆れ顔になる。
「だから、敗北から学ぶのはずるいって言いたいのかい? そもそも、あれは生死を分かつ殺し合いじゃないだろう? 初めからこうなることを予想していなかったのかい?」
無言のままの朝日に、ふみはため息をつく。
「あのね、朝日。どれだけ本気になろうとも、相手を殺すときの動きとそうでない時の動きはまったく違うんだよ。頭では分かっていても、体ってものは本能に正直なものさ。私たち人間の本能は、殺し合いには向かないんだろうねえ。木刀や竹刀ならば百戦百勝でも、真剣ではまともに一人斬れないなんて当たり前さ。二つを一緒にするんじゃないよ」
ふみは説明を、朝日は理解しようと努める。頭角との決闘では真剣を用いた。だけど、決闘は殺害を禁じる。どれだけ互いに死力を尽くしても、命の保証はある。その範疇で、自分と狭霧は戦ったのだ。だから、こうして生き延びて敗北から学ぶのは、ずるいことでもなければ生き恥でもない。当然の結果なのだ、とふみは言っているのだろう。
「だから、『殺し合いならば自分はあの試合で死んでいた』なんて下らないことを考えることはおやめ。もはや私たちはご先祖様と違って、命のやり取りをしないでもよい時代に生まれたんだ。その事に感謝できるなら、敗北からきちんと学べるはずだよ」
どんな金言よりも重みのあるふみの言葉を受け取り、ようやく朝日は深く首肯した。
「分かりました。いっぱい、学びます」
「それでいい」
重々しくふみもまた首肯する。
「おばあちゃんは……」
「ん?」
かすかに抱いた疑問を、朝日は口にする。どうしてふみはこうも、生と死のやり取りについて生々しく語ることができるのだろうか。もしかすると…………。
「おばあちゃんは、人を斬ったことがあるの?」
斬った、とは身も蓋もなく言うならば「殺した」だ。すべての剣客が一度は望む「殺人」という禁忌にして快楽。それを体験した者としない者とでは、剣の殺気に雲泥の差があるという。まっすぐな朝日の問いを受け、ふみは一度目を閉じた。何かを思い返すかのように、あるいは後悔するかのように、もしくは受け入れるかのように。
「いずれ、話す時が来れば話すかもしれないね」
それは否定でもなければ肯定でもない。だからこそ、朝日はふみの返答にそれ以上自分の想像力を働かせなかった。
「さて、しっかりと理解したならば頭を切り換えな。今日からは第二戦だよ」
「第二戦?」
きょとんとする朝日に、ふみは顔をしかめる。
「朝日。お前は斬り合いに熱中してその結果をすっかり忘れているね。うちに来るんだろう? 一つ屋根の下とは言わないまでも、身近で寝起きするんだ。寝首を掻かれないように気をつけな」
「あ……!」
朝日の顔が見る見るうちに青ざめる。
(そうだった。あいつがうちに来る)
決闘で負けた時よりもさらに蒼白に。
(狭霧がうちに来るんだっけ!)
◆◇◆◇◆◇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます