第17話:一緒に登校とは腹の探り合いなり



 ◆◇◆◇◆◇



(情けない……!)


 朝食を摂り、仕度を終え、自宅を出た朝日は今戸隠峡を越える電車に乗っている。最初は座っていたが、混むにつれて席は他人に譲り、今の彼女は吊革につかまり立った体勢だ。


(おばあちゃんにあそこまで言われて、言い返せない自分が本当に情けないったらない……!)


 うつむき加減の彼女の表情は、限りなく暗い。


 尊敬するふみに、自分の剣がなってないとお説教されたのだ。彼女が歯ぎしりするほど悔しがるのも当然である。元より朝日は、竹を割ったようにまっすぐな性格と太刀筋の持ち主である。曇りなく、迷いなく、王道を堂々と歩むのが彼女の持ち味だ。それなのに、今の朝日は思いも剣も曇り空だ。


(いったい何が、私の剣を鈍らせているんだ?)


 朝日は懊悩しつつも自分の昨今を振り返る。ふみが我が家に来た日、なぜか彼女は朝日の腕を誉めていた。「急に腕を上げた」と言われたのは覚えている。しかし今日は、「情けない気魄」と叱責された。腕を上げた自覚はなく、なぜ自分の気魄が萎えているのかも分からない。上達も鈍化も、自分の埒外なのがもどかしくて仕方がない。


 だが、回想を続ける朝日の頭の中に、突如として異質なものが混ざる。


(……狭霧!)


 彼女の唯一の気掛かり。初城台高校における学生生活を、ことごとく邪魔する厄介者。


(あいつのせいで……。あいつのせいで私の剣はおかしくなっているのか……?)


 学校生活だけではなく、狭霧の影響は彼女の角折リとしての活動にまで及んでいるのか。


(顔を合わせていないときまで、私の邪魔をするなんて。どこまで嫌みな奴なんだ、あいつは!)


 剣の曇りの原因が狭霧にある。そう断じる朝日の全身から、猛烈な殺気が吹き上がった。


(斬る! 絶対に斬る! 何があってもあいつだけは斬る!)


 殺意一辺倒の朝日は、当然のことながら気づかない。車内で彼女を中心に空白地帯ができていることに。



 ◆◇◆◇◆◇



「やあ、おはよう」


 駅を降りた朝日を待っていたのは、まさにその殺意を向けた相手だった。


「……狭霧」


 爽やかな笑顔と共に片手を上げる狭霧を見て、朝日は肩を落とす。あまりにも好男子のペルソナがお似合いで、気合いが削がれる。


「待ち伏せのつもり?」

「そうじゃないよ。一緒に行こうか」

「お断りだ」


 誰がお前と登校するか、と朝日は横を向く。


「わざわざほかの道を行くつもりかい? 桜木流は効率が悪いことをするね」


 だが、そのまま彼の脇を通り過ぎようとした朝日の足が、狭霧のその言葉で止まる。実に安っぽい挑発だが、朝日は聞き逃せない。


「言ってくれるね。なら、一緒に行ってやる」

「そう来なくちゃ」


 連れだって歩き始める二人に、当然のことながら周囲はざわついていた。



 ◆◇◆◇◆◇



「お望みの学生ごっこはどう?」


 高校までの道を無言で歩くのもしゃくで、朝日は一応狭霧に話しかける。


「悪くない。君は?」


 逆に問われ、朝日は周囲に目を配る。


「あんたと歩くだけで注目されるなんて、少し恥ずかしい」


 案の定、他の生徒たちは自分たち二人を見てあ然としている。どんな想像をしているのか、考えただけで顔が赤くなりそうだ。


「……いや、今のはなし。なしだから」


 けれども、いざ口にすると狭霧に自分の弱みを見せたようで気に食わず、朝日は自分の前言を撤回する。


「そうだね。ならば、もう少し学生らしくしよう」


 幸い、狭霧はそれ以上追求することはなかった。


「初城台には慣れたかい?」

「まあまあ」

「好きな教科は?」


 まるで面談だな、と思いつつも朝日は律儀に応える。


「世界史。あんたは?」


 質問したのは単なる社交辞令ではない。かすかに、朝日はこの頭角の内面に関心を抱いていた。


「化学と数学」


 朝日の問いかけに、狭霧はためらうことなく即答した。


「意外。てっきり古典だと思った」

「舞踊は数学に似たところがある。おさまるべきところにおさまると、美しく調和が取れるところが」

「変わっているね、そんな風に感じるんだ」


 狭霧の趣向は、朝日にはよく分からない。だから率直にそう言ったのだが、狭霧の淡い微笑のペルソナは揺るがなかった。さらに平穏そのものの会話は続いていく。


「君は学食で何が好き?」

「私は味噌ラーメン。もやしが大盛りでおいしくない?」

「俺は塩の方が好きだよ。スープが結構いける」


 自分はいったい何をしているんだ、と朝日の心中の冷静な部分はふと思う。先程まであれほど殺意を燃やした相手と、今こうして仲の良い友人か恋人のように連れ立って登校している。しかも、それは決して不快ではないのだ。


「ああ、よかった。あの味噌ラーメン、結構人気ですぐ完売するんだ。ライバルは少ない方がいいからね」

「おや、桜木流は好敵手がいない方が安堵するんだ?」


 狭霧はそんなことを言ってくるが、本気ではないことくらいは分かる。この鬼も冗談くらいは言えるようだ。


「それとこれとは別だろ。常在戦場って言うけど、味噌か醤油、塩か豚骨かの選択にまで剣を持ち込むな」


 小気味よい会話の応酬に、軽く声を出して狭霧は笑う。


「はは、悪い悪い」


 ラーメンの話になり、ふと朝日は思い出した。


「でも、あんたはイタリアンが好きじゃなかったっけ?」


 確かスイーツ研究会と調理部の合同親睦会の時、狭霧はそんなことを言っていたはずだ。


「へえ、覚えていてくれたんだ、嬉しいね」


 狭霧がこちらを見る。視線だけで、相手の脳髄を魅了するような目だ。


「別に。単に耳に残っていただけ」


 その眼力に呑まれたくなくて、なおさら朝日の口調はそっけなくなる。


「今度、うちに来てくれればごちそうするよ」

「断る。何を入れられるか分かったもんじゃない」


 木で鼻を括るような朝日の言葉に、なぜか狭霧は声を上げて笑う。


「笑うな」

「そんな反応をするなんて、思いもよらなかったよ」


 何が楽しいのか、狭霧はしばらく笑っていた。


「やたら楽しそうだな」


 彼の笑う理由が皆目見当がつかず、朝日は白けた口調でそう言った。


「まあね。悪くないよ。君もそう見えるけど?」

「それ、自分の両眼を国宝級の節穴って言ってるんだけど」


 朝日は憎まれ口を叩くものの、かすかに気づいていた。今の狭霧に対し、普段感じるあの鳥肌の立つような嫌悪感を抱いていないことに。



 ◆◇◆◇◆◇



「それで、何が言いたいわけ?」


 だが、かりそめの平和な時間もいつかは終わりを迎える。校門にまでたどり着いた朝日は、そこで数歩狭霧に先んじてからくるりと振り返った。


「あんたの気魄、変にわだかまってる。いつもと違うように感じるけど?」


 じっと朝日は狭霧を見る。頭角の気魄、それも狭霧の気魄は、見なくても全身で感じ取れる。


「分かるのかい?」

「角折リだからね、そういうのには敏感なんだ。あんたの気魄はあんたの名前通り、霧みたいに得体が知れなくて、いつもぼんやりしていて、つかみ所がまったくない」


 狭霧は、朝日にとっては実に苦手とする相手だ。真っ向勝負の力比べなら望むところだが、搦め手を多用したのらりくらりとした勝負は面倒な上にうっとうしい。


「でも、今日は違う。何か一つだけ、ずっと固まって動かないところがある。上手く説明できないけど、わだかまっているとしか言いようがない何かがあるんだ」


 それは、初登校の日からずっと、狭霧を追っていた朝日だから分かる違和感だった。常に霧のように曖昧模糊もこだった狭霧の気魄にわだかまりがあるなど、未だかつて一度もなかった。


「もう一度聞くけど、何が望み?」


 そして今日、狭霧は自分と連れ立って登校した。狭霧は、何かを自分に伝えようとしている。そう予測を立てた朝日は、まっすぐに狭霧を見つめて尋ねる。対する狭霧は、あの不可思議な笑みを浮かべたまま沈黙していた。そのペルソナの裏に何があるのか、朝日が恐れずに目を凝らそうとしたときだ。


「……初めて読まれた」


 狭霧の囁きにどのような意味があったのか、何を彼が感じたのかは分からない。


 「初めて読まれた」と狭霧は言った。つまり、朝日だけが狭霧の心の奥底にまで踏み込み、その隠しているものを言い当てたということだろうか。狭霧の言葉には、驚きの感情が確かに交じっていた。同時に歓喜もまた。


「ああ、やはり俺の見立ては間違っていなかった。俺はこの為に、この学校に通うことになったのかもしれない」


 周囲の視線などどこ吹く風とばかりに、狭霧は嬉しそうな声を上げる。


「もったいぶるな。時間の無駄だぞ」


 ついて行けない朝日が苛ついた声を上げたのとほぼ同時に、狭霧の顔から常にまとわりついている笑みが消えた。


「――――桜木流撃剣、桜木朝日」


 あの時、学食で見せた狭霧の顔。あの空虚な謎めいた顔を向けられ、朝日は一瞬まごついた。今、狭霧は朝日をフルネームで呼んだのだ。


「な、なに!?」


 自分の名前を狭霧の声で呼ばれ、朝日の心臓が早鐘を打つ。彼に名を呼ばれることが、どうしてこんなに心を乱すのか分からない。


「次代の人太刀に、當麻の仕手が願い申し上げよう」


 優美な仕草で狭霧は朝日に対して一礼する。恐ろしいまでに整い、完璧なまでに完成された動きで。そして顔を上げた狭霧は、一言こう告げた。もしかすると、どのようにして朝日に言おうかと、迷っていた言葉を。


「當麻流舞踊、當麻狭霧が貴殿に決闘を申し込む」


 その言葉を、確かに朝日は両耳で聞いた。次いで脳で理解した。さらに心と魂で感じ取った。間髪入れずに、怒濤のような感情が内奥からわき上がってくる。それはまさに、狂喜だった。ずっと望んでいたその一言を、今ここで耳にしている。朝日は猛獣の如き笑みを浮かべて、はっきりとこう答えた。


「承知つかまつる――――!」



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